忍東照宮北にある涙橋跡の石碑。天正元年(1573)成田氏長は、その妻、横瀬成繁田の娘と離縁したといわれます。縁切り橋で別れを惜しんだ妻は次の橋にて振り返り、涙を流して皿尾門から出ていったとされている。即ち涙橋として後世までつたえられた。その時忍城に残された一人娘甲斐姫はわずか二歳。それから十六年後、長刀の名手となった甲斐姫は、大宮口御門にて城兵を鼓舞し、忍城を守り抜いたと「成田記」は伝えている。
忍東照宮北にある涙橋跡の石碑。天正元年(1573)成田氏長は、その妻、横瀬成繁田の娘と離縁したといわれます。縁切り橋で別れを惜しんだ妻は次の橋にて振り返り、涙を流して皿尾門から出ていったとされている。即ち涙橋として後世までつたえられた。その時忍城に残された一人娘甲斐姫はわずか二歳。それから十六年後、長刀の名手となった甲斐姫は、大宮口御門にて城兵を鼓舞し、忍城を守り抜いたと「成田記」は伝えている。
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