皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

老中阿部家寄進 太刀一腰 ~初代忠秋公から幕末明治維新までの歴史~

2022-03-27 09:18:01 |  久伊豆大雷神社

延宝元年(1673)阿部正能により再建された皿尾久伊豆大雷神社は、以降阿部家の崇敬を受けて興隆する。

阿部家は初代豊後守忠秋を祖とし、寛永十六年(1639)より忍城主となる。忠秋は駿府で生まれ幼名のころから家光に近侍している。
当初所領は上州新田であったが、寛永十二年(1635)下野国壬生城を拝領する。壬生は下野都賀郡にあって、関東平野の北辺にある重要地であった。
忠秋が老中として取り立てられるに当たり、家光の侍従としての働きが認められたことは疑いようがないが、そのきっかけは寛永九年(1632)川越鴻巣における猪狩りの逸話がある。家康の鷹狩はよく知られたところであるが、家光猪狩りの折、墨田川洪水に当たり馬に乗って川を渡り名をあげ家紋に旭日章を得ている。
神社を再建した阿部正能は二代目で忠秋の養子である。摂津守となって忠秋の跡を継ぎ延宝元年老中となるが、自己の器に余りあると悟り、五年余りでその職を退いている。一方神を敬う念深く、皿尾の久伊豆大雷神社の再建のほか、熊谷高城神社の本殿も造営している。高城神社は言わずと知れた延喜式式内社で、熊谷総鎮守である。
時代は下って文政六年(1823)三方領地替えによって忍城主となったのは桑名より遷った松平家。
阿部家は当時九代正権の時代であった。白河に移って僅か十八歳で没したと伝わる多くの苦難があったことは推し測って余りある。当時阿部家に付き従い白河へ移ったものも少なくなかった。
阿部家が白河に移ったのちも忍領下の神社への崇敬が絶えることはなかった。
十四代阿部播磨守正嗜は当社に寒中見舞いを送っている
また十五代阿部正外は幕末の混乱期井伊直弼に重用され元治元年(1864)老中となる。文久二年(1862)には生麦事件発生時の外国奉行を務めている。
その阿部正外は皿尾久伊豆大雷神社へ太刀一腰、御馬、縮面を寄進している。
太刀は平成二十九年刀剣所持の登録をし、後世に伝えるよう保存されている。太刀の銘文は「一帯子國安」と刻まれ年号は文化十年八月(1813)とある。
阿部家が三方領地替えで白河に移る以前に打たれていた家宝の太刀を幕末の混乱に当社に寄進した貴重な社宝である。
慶応元年阿部家は兵庫港開港の交渉を英仏蘭とまとめた責を負い、改易を命じられ翌慶応二年正外は蟄居謹慎を命じられる。
翌明治元年には戊辰戦争が始まっている。
正外は明治二十年六十歳でその生涯を閉じることとなるが、阿部家の徳川を支えようとした忠義心は時代を超えて皿尾の地に残っている。

拝殿で叩く神事の太鼓は慶応二年奉納。
令和となってもその音を響かせている。



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