皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

行田市の原点 日本一の足袋産業②

2017-10-19 22:52:22 | 生涯学習

日曜劇場『陸王』初回放送の冒頭で、ミシンの部品を求めて宮沢が駆け回るシーンが出てきます。
実際にあり得る話だそうです。現在行田市内の足袋屋はわずか8社。そのうち製造工程すべて自社で手掛けることのできるのはわずか2社だそうです。
足袋作りの工程は13に分かれ、それぞれの工程で分業化され、すべての工程をこなす職人さんはほとんどいないそうです。足袋の衰退とともに職人の数が減り、結果的にすべてこなすようになったといいます。ドラマの中でも20人前後女工役の方が登場します。実際にすべての工程が基本歩合制で成り立ち、人件費が抑えられていた経緯があります。結果、裁断から始まり、通し、押さえ、コハゼ付け、羽縫い、甲縫い、先付(爪)、廻しといったすべての工程別々に作業し、一部は家庭での内職に委ねられました。役所広司演じる社長の宮沢が爪縫いのミシンに座ったシーンがあり、『ありえないな!』といった声が職人さんから聞こえましたが、それだけ工程の難しさや特徴に差があるのだと思います。
裁断です。重ねた生地を型に合わせて打ち抜きます。男性職人が担当します。

通しと呼ばれこはぜをかける糸を通し縫いします。ドラマの『こはぜ屋』のこはぜは甲馳と書いてかかとにつける金具のことです。私は神職ですので実際に足袋をはいています。今までこはぜという名前も知りませんでした。

羽縫い、甲縫いにに使われるミシンです。1890年代のドイツ製です。

爪、先付けです。最も難しいとされる工程です。

仕上げです。特注のアイロンを使用します。小型で重量があります。こうしたアイロンも貴重な道具だそうです。
今日見学した足袋とくらしの博物館は平成17年に開館。NPO法人行田足袋蔵ネットワークの運営で、ほぼボランティア運営。開館に当たっての資金補助のコンペでも中島先生は大変ご苦労されたそうです。こうした地道な活動が活動により日本遺産への道が開かれてきたのです。

平成12年から始まった「民学官パートナーシップ町づくり事業」として足袋蔵等歴史的建造物の改修修復が進められ、初めて「足袋蔵」という言葉が認知されたといわれています。蔵の町は全国各地にあります。景観も素晴らしい街並みはたくさんあるのでしょう。でも「足袋」に特化した蔵はここ行田にしかない。繁栄と衰退を重ねつつも、今日までまちの景観として佇んでいる。そこにこそ他にはない物語があって、町の歴史そのものを見てきた蔵に人は惹かれほかに発信すべき事柄なのです。オンリーワンの町行田。私もこの街に住みながら、こうした歴史を学んできませんでした。話を聞いても心の琴線に触れなかった。ドラマの騒ぎにたきつけられて目を向けているだけでは、何も変わらない。歴史に学び、自分の使命に気づき行動してこそ意味のある生き方だと思いつつ、講義後市民大学研究班の方と、今後の研究発表に向け打ち合わせをして今日の講座を終えました。
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行田市の原点 日本一の足袋産業

2017-10-19 21:19:53 | 生涯学習

行田市民大学9期生、第12回講座は行田市の足袋についてのお話でした。 
 仕事の都合で2回続けて欠席しており、同じ班の方にご心配頂きましたが、楽しみにしていた中島洋一先生の講義に参加することができました。
 先週の日曜日にスタートしたTBS日曜劇場『陸王』の舞台が行田の足袋屋となっており、全国的に注目が集まっているところです。ドラマの原作は池井戸潤氏。かつて同じ枠のドラマで『半沢直樹』、『ルーズベルト・ゲーム』と立て続けに高視聴率を残しています。第1回の放送は関東地区で14.3%との数字を残しています。堺正人は『半沢直樹』の中で、「やられたらやり返す、倍返しだ!」の名台詞で脚光を浴び、昨年の大河ドラマ『真田丸』でも主演を務めています。『陸王』の主人公「こはぜ屋」の四代目社長、宮沢を演じるのは役所広司。15年ぶりのTVドラマ主演で話題となっています。最近のイメージでは大和ハウスのCMが思い出されますが、ドラマ初回から熱い演技でとても盛り上がりました。
 ドラマのロケ演出で使われている工場の外観はイサミスクール工場で、現在も稼働しているそうです。また原作の構想で、足袋屋がシューズを造るという構想は池井戸潤氏のフィクションであり、また池井戸氏は行田の足袋のことを知らなかったといいます。さらに今年行田市は「和装文化の足元を支え続ける 足袋蔵のまち」として日本遺産に認定されていますが、これは本日講師を務められた中島洋一先生が十年以上かけて、NPO法人等の活動も交えて、足袋の歴史、足袋蔵の維持保存など文化伝統を語る物語として集約し、文化庁に認定されたものです。他にはないオンリーワンを見つけ活かし、発信してきた結果であり、ひと時の観光産業の喧騒に終わることなく、続いてほしい、そして何より地元の人にそうした歴史を知って欲しいと話していました。

 行田足袋の起源は江戸時代貞享年間(1688)までさかのぼります。写真は「享保年間行田町絵図」
三軒の足袋屋が記されています。
行田で足袋作りが盛んになった理由として
①材料の綿花の栽培が盛んであったこと
②近隣(羽生・熊谷)で藍染が盛んに行われ原料に困らなかった。
③城下町として栄え、需要があった
⓸中山道熊谷宿があり、行田もまた日光館林林道の宿場として販売が容易であった。
⑤足袋に株仲間がなく、取引が自由で販路が拡大できた。
などがあげられます。
また江戸時代の足袋作りの特長として、
ア)足袋はすべて手縫いで、生産は一人1日2~3足であった
イ)明治期の調査により、年間の生産量として行田町白足袋113,550足とあり江戸後期も同じ生産量だっと考えられる。
尚、足袋自体は日用品としての履物ではなく、し好品ぜいたく品の部類だったそうです。

明治になり廃藩置県が断行されたことは城下町行田にとって大打撃だったそうです。人口は9000人から7000人に激減し、町全体が衰退していく中で、「行田の渋沢栄一」とよばれる今津徳之助氏や橋本喜助氏らの尽力により、馬車道鉄道が整備され、行田電灯などの設立、小包郵便の取り扱い開始など、他地区に先駆けて産業復興する動きがあったと説明がありました。特に中島先生の話の中で、人口減は社会減と自然減の2種類があり、基本的な対策は社会減に対して雇用対策を講じるのが一番だということでした。いつも歴史家としての側面で話をしている印象ですが、やはり行政官としての強い一面を感じました。戦時下の軍需生産として軍服生産へと舵をきり、戦後ほどなくナイロン靴下の開発から、昭和29年量産が開始されると、足袋は急速に売れなくなり、商店も倒産が相次ぎました。このころ足袋蔵も建設も途絶え、商品倉庫としての役割もなくなり、休遊化していきます。
 その後繊維作業も衰退化し、平成19年には足袋商工協同組合は解散します。
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PBに思う

2017-10-16 19:47:51 | 物と人の流れ

一頃から比べるとコンビニやスーパーの商品群におけるプライベートブランドの比率は下がりつつあるのだろうか。同じ品質で流通先を選別、確定することでコストが下がり、小売り、消費者双方にとって有益であることから多くの企業でPB商品が扱われている。かのダイエー創業者中内功氏は、小売業の使命について、商品の価格決定権を製造者であるメーカーから、消費者に移すことを掲げていた。結果多くのPBが生まれては消え、現在でも激しい競争の下商品開発が行われている。

 夕方普段はあまり行かないスーパーにて買い物をした際、紙パックのオレンジジュースを手にすると製造者名に聞いたことのあるメーカー名が記載されていた。古河市、トモエ乳業。以前ブログに書いた静御前の思案橋付近にあるメーカだった。思案橋のたもとに石像を立てその歴史を伝えていて、私は毎日その会社の前を通っている。ああ、こういう商品を、関東各地で販売しているんだと今日初めて知った次第だ。

一方、コンビニの棚にあったPB商品には、販売者名しか入っていない。その商品が気に入って、販売者を信用できる(するしかない)ことを前提とした販売なんだと思う。「私たちにお任せください」という具合だ。
 なんだか最近耳にする言葉だ。「○○を守ります!」「しっかりと対応します」「将来のために」抽象的過ぎてよくわからない。
加工食品であっても製造者の名前を知ってなんだかうれしかった気持ちとは違うものだ。
ともかくお任せくださいと言われて、すべて任せて幸せだなんてことはないと思う。やはり決めるは自分。
但し、名前を信用しても裏切られる時代。大手メーカーが世界的に販売している工業品のデータが改ざんされるご時世。
便利さを享受しつつ、自分で判断しなければならない時代なんだと思う。
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皿尾八幡神社

2017-10-14 22:03:59 | 神社と歴史 忍領行田
村の中ほどに鎮座する八幡神社。新編武蔵風土記稿の皿尾村久伊豆大雷神社の項において、八幡神社村持との記述が見えます。現在、久伊豆大雷神社摂社、末社に八幡神社はなく、少なくとも江戸期以降ずっとある家にて、祀って来られた歴史があります。明治期の神社合祀の流れにも抗い、今日まで立派に鎮座しています。現在の社殿は三十年ほど前にそのお宅で建て替えたもの。それ以前は藁葺きのお社だったことを覚えています。代々このお宅で社殿はを管理し、幣束や注連縄など私の家にて、用意しています。屋敷稲荷はこの地域ではたいへん多く見られますが、八幡さまをこれほど立派に祀っているのは見当たりません。
代々受け継がれてきた八幡さま。神社に関する文献などは見あたらないそうですが、今でもこの区域を見守ってくれています。
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細川氏と八雲神社

2017-10-13 17:37:56 | 神社と歴史

秋の一人旅に栃木県茂木町八雲神社に参拝しました。町の中心部にあり、茂木町はツインリンクもてぎの舞台になっています。今回参加できた市民マラソン大会の後に寄ることができました。
主祭神は素戔嗚命。神社御由緒略記によれば、後鳥羽天皇の御代建久三年(1192)に創祀され茂木町の前身である藤縄村、槻木村の総社として祀られてきました。寛政3年(1791)領主細川氏により本殿・拝殿・大鳥居が奉納されました。昭和十九年には初代領主細川興元公を祀る大光神社を合祀しています。織田信長にも仕えた細川興元は、信長の没後は秀吉に仕え、小田原征伐、その後文禄の役にも参戦しています。興元には後継に恵まれなかったため、兄、忠興の子、興秋を養子にとっています。細川興秋の実母は細川ガラシャで、キリシタンとしての洗礼を受けていました。
昨年の大河ドラマ真田丸にも出ていましたが、ガラシャは明智光秀の娘であり、激動の戦国時代の中で壮絶な最期を迎えています。興秋は本能寺の変後、幽閉され、秀吉のとりなしで幽閉を解かれから産んだようです。
 晩年は兄忠興と不仲になり、徳川秀忠の時代に茂木の所領は十万石のはずが一万石になったとも伝えられています。
 本殿脇にある三法殿には細川家由来の宝物や古文書、興元が初陣で用いた甲冑などが所蔵されています。

 創始による伝承としてつぎのように残っています。
 昔藤縄村に清兵衛なる百姓がいた。川岸で肥桶を洗っていると、何やら流れてきたものがあった。柄杓で手繰り寄せてみると何とも神々しく感じられる。大切に拾い上げ川岸の丘に大切にお祭りすると、不思議なことに当時流行っていた疫病が治まり、農作物の害虫被害も少なくなりその年は豊作に恵まれたという。それ以来子の祠を大切に祀るようになった。これが茂木八雲神社の始まりとされている。
 現在の鎮座地南方五百米の丘の麓にあり、「古っ天王さん」と呼ばれる祠があり、のの丘の地名は「古天王山」として歴史を伝えているそうです。

御朱印です。日本各地にこうした神社創建の言い伝えが残っていると思います。
縁起として残るものがあれば口伝として継承されることもあるでしょう。地域のかずだけ、またはそれ以上に歴史は眠っているように思います。

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