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皿尾城の空の下

久伊豆大雷神社。勧請八百年を超える忍領乾の守護神。現在の宮司で二十三代目。郷土史や日常生活を綴っています。

勝呂神社 日露戦役祈念碑

2022-05-19 22:26:38 | 史跡をめぐり

行田市若小玉勝呂神社一の鳥居脇にある日露戦役祈念碑。大正二年二月の建立で記毫は陸軍大臣木越安綱。
行田市内に残る戦役記念碑は多く、日露戦役で十五基残っている。(日清戦役では9基)

前玉神社に残る忠魂の碑は大久保利武(利道の三男)の書であり、また同じく前玉神社に建つ日露戦役記念碑は山形有朋の記毫である。
大久保利武は埼玉県知事も勤めており、官僚として埼玉にゆかりがあるようだ。

木越安綱は長州出身の陸軍軍人で、大正二年(1913)に第一次山本権兵衛で陸軍大臣に任じられている。(同内閣の内務大臣は原敬、大蔵大臣は高橋是清)
近代史の日本史で軍部が力を強め、シビリアンコントロール(文民統制)が効かなくなり、軍伐政治が横行した伏線として、内閣の閣僚の内、海軍、陸軍大臣に就任するには現役軍人の大将、中将に限るという制度(軍部大臣現役武官制)がしかれていたが、そうした軍伐政治に対する批判を受け、退役、予備役まで大臣資格を広げたのが山本権兵衛内閣で、陸軍の反対を押しきって同意したのが木越安綱であった。
その後木越は陸軍の意向に逆らったとして、軍人としては冷遇され、退官前に予備役に編入される。
自らの出身組織よりも、民意と自らの信念に基づいて政治家としての職務を全うした木越安綱。
その後大正九年(1920)に貴族院議員補欠選挙当選し、生涯政治家としての職務を全うしている。

石碑に記された文字から私たちへ伝えようとする木越安綱の思いは今でも伝わって来る。


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若小玉 勝呂神社

2022-05-18 21:30:23 | 神社と歴史 忍領行田

行田市若小玉は、古くは若小玉小次郎なるものが住む地と伝わり、風土記稿によれば「嘉禎(かてい)四年(1238)二月二十三日、将軍供奉名のなかに、若小玉小次郎と記す(略)建長二年(1250)閑院殿造営の内、若小玉次郎とあり」鎌倉初期に当地の豪族であった若小玉氏から地名となったのであろう。

御祭神は中筒男命(なかつつおのみこと)イザナギノミコトの禊の際に生まれた水の神。住吉大社の御祭神である。中でも神功皇后の三韓征伐の折り、住吉大社の御神徳で帰路に着け、応神天皇をお産みになられたことから、航海の神、海の神、水の神として近畿を中心に篤い信仰を受けている。なぜ中筒男命がこの若小玉に勧請されたのか、創建時期についても不明であるそうだが、明治期までは別当として真言宗安養山遍性寺が勤めている。往時の本地仏である十一面観音像を本堂に祀るという。明治期の合祀政策で各耕地の十社以上が集められたが、八幡山古墳の頂きにあった八幡神社は古墳に石室が発見されたことで旧地に戻されたという。

また本殿脇に祀られる榛名神社は群馬の本社と同等に霊験あらたかとと伝わり、戦前戦後においても、群馬の総本社への代参は行われなかったという。
昭和初期に建てられた本殿拝殿の彫刻は見事で、神社建築の粋を今に伝える。

現在に至っても大祭時にはササラが奉納され、行田市無形文化財に指定されている。また境内地に建つ神楽殿は平成になってからも修繕が入り、ササラ伝承を大事に守っている様子が伝わる。

もとは大祭(9月二十日)に奉納され、雨乞いササラであったそうだ。五穀豊穣と疫病退治を願い長い伝統を今に伝える若小玉のササラ。
曲目は「橋掛」「花掛」「鐘巻」等があり、特に「鐘巻」見ずして若小玉のササラを語ることなかれと伝わるほど圧巻の舞を仕上げている。
行田市文化財化:の解説によれば、ササラの起源は文化十一年(1814)「鐘巻」はスサノオノミコトがヤマタノ大蛇を退治する場面で、演目後、子供が元気に育つようにと、釣り鐘の上に子供を座らせる光景があるそうです。

境内入り口には巨大な日露戦争出征記念碑が建ちます。非情に国威掲揚が盛んであった時期でしょう。

境内地のあちこちに伊勢奉納神楽の記念碑が残ります。

神社運営上非情に興味深い記事が載って折り、天保、安政期には大祭は七月に行われていましたが、大正期に例祭日が7月二十日から九月二十日へと変更になった子とが伝わります。これは祭りの費用を用立てるにあたり、七月では作物のとれ具合を図るのに大祭そのものを7月から9月へと変更したとの記述が残っています。祭りあっての神社、神社あっての氏子ではありますが、当時では大祭の準備は大変おががりなものであったことでしょう。作柄が明確でなければ、御例祭の用立てもままならない時代の子とです。
それでも今日現在ササラは継承し、他の祭事も奉納されるといいます。
祭りあっての氏神さまであることがよく伝わります。
いつかササラを見に行き壮大な祭りの様子をこのめでみたいと願っています。
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女郎花盛りの色を見るからに

2022-05-17 20:17:42 | いろはにほへと

女郎花(おみなえし) さかりの色を見るからに 露のわきける 身こそ知らるれ

(朝露がついて美しく染まった)女郎花の今を盛りの花の色を見たばかりに
露が分け隔てをして
(つかずに美しく染めてくれない)我が身が思い知られます。

源氏物語の作者紫式部。再来年の大河ドラマは光源氏に決まりましたね。

紫式部が朝、部屋から外を眺めていたところ、藤原道長が女郎花(おみなえし)を手に現れます。寝起き顔であった紫式部は、今が盛りと咲く女郎花にちなんで盛りが過ぎた我が身を嘆く歌を詠んだそうです。女郎花(おみなえし)とは秋の七草のひとつで山野に自生し、黄色の小花を数多く咲かせます。

そんな式部に返した道長の歌が

白露は わきてもおかじ 女郎花 心からにや 色の染むらむ

白露は分け隔てをしているわけではあるまい
女郎花は自分の心がけによって美しい色に染まるのだろう


「源氏物語」は主人公光源氏を中心に貴族の人生と恋愛を描いた物語。54巻からなる3部構成で世界最古級の長編小説といいます。源氏物語以前にも「竹取物語」などの物語はありました。現在と違い通信手段はありませんので、源氏物語は所謂口コミで広がり、ついには左大臣藤原道長の耳にも入ります。紫式部は当時の学者で詩人であった藤原為時の娘にあたり、早くに母を亡くしたことから、父の手により幼い頃から漢詩を覚え高い教養を身につけたそうです。また式部は26才の時には当時の夫である藤原宣孝を亡くしています。
主人を亡くし、途方にくれながら気晴らしの気持ちも込めて書き綴った物語。
「源氏物語」
この物語によって式部の人生は大きく変わり、時の中宮(天皇の后)彰子に仕えます。彰子に仕えるよう呼び寄せたのは他ならぬ道長であったそうです。ただし帝(一条天皇)は先の后である中宮定子を思い続けていました。中宮彰子の父であり時の左大臣藤原道長は帝の御子(男子)を生むよう願います。そんな帝と道長の板挟みになりつつ、思い通りにならない人生を「源氏物語」に投影させているそうです。

一条天皇が思いを寄せ続けた前の中宮定子。その定子にお仕えしたのは「枕草子」の作者清少納言でありました。

ひとつひとつの物語、和歌、随筆。すべて平安の貴族社会のきらびやかな歴史のなかで繋がっているのです。




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急がば場回れ 瀬田の唐橋

2022-05-16 21:54:46 | 歴史探訪

もののふの 矢橋の船は早けれど 急がば回れ 瀬田の長橋
室町時代の連歌師宗長が詠んだとされる歌が現在の急がば回れの起源となったと言われています。

瀬田の唐橋は琵琶湖から流れ出る瀬田川に懸かる橋です。現在でも交通量が多い反面、歩いても渡れる名所となっています。架橋は667年頃と推定されます。
明治までは瀬田川に架かる唯一の橋で東国から京に入るには琵琶湖を船で漕ぐか、この瀬田の唐橋を渡るしかありませんでした。船の方が短距離でしたが湖上の強風のため橋の方が早く着けるとされました。

交通の要衝であったことから「唐橋を制するものは天下を制す」とも伝わります。飛鳥路代の壬申の乱、鎌倉時代の承久の乱では激戦地となります。戦国期には本能寺の変にあたり焼き落とされています。
京都の宇治橋、山崎橋とならび日本三名橋に数えられ、唐橋と呼ばれるのは架橋当時に遣唐使(659年)が派遣され唐風の技術が伝わったことにもよります。
多くの歴史人が渡った瀬田の唐橋。一度歩いて見たいと思っています。
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平将門が振りかざした刀剣は

2022-05-15 21:36:30 | 歴史探訪

両雄並び立たず。鎌倉殿の十三人もいよいよ源平争乱の後、源氏内での争いと後白河法王との関係を中心に、政治的駆け引きが物語の中核となった。今後も頼朝なき後、合議制へと移行するまで多くの紆余曲折が描かれていくのだろう。毎週楽しみにしている。
戦の天才と言わしめた九郎義経であったが、刺客から逃れ、敢えなく都落ちする様子が描かれていた。当時の日本刀は護身用の短刀にしろ、いくさ場での刀剣にしろ、すでに片刃の反りの入ったものが使われている。
古代の古墳から出土する鉄剣は稲荷山古墳出土の金錯銘にも見られるように直刀で両刃のものだ。
ではいつから反り始めたのか。

秩父市に残る蕨手刀は明治41年出土の埼玉県有形指定文化財。小学校の校庭にあった円墳から見つかっている。製作年代は7~8世紀とされる。柄頭が蕨の若芽ににていることから「蕨手刀」と呼ばれている。
直刀から反りのある刀への進化は当時東北地方の蝦夷が使っていたとされるこの「蕨手刀」という刀に影響を受けたと考えられている。
なぜ直刀から反りが入ったのかと言えば、馬上での戦が行われるようになったから。埼玉、群馬、千葉など律令期の関東は非情に開墾が進み、荘園も増える一方、国司による年貢の横領や厳しい支配が横行した時代で、そうした不満に答えて立ち上がったのが、平将門であった。
将門は一族の争いおさめ、関東の国府軍を打ち破り東国の国印すべてを手にいれている。

「新皇」と称して東国をおさめようとした基盤として、武具と軍馬の生産に力をいれていたという。用意周到であったのだ。
時代と共に進化していく刀剣。進化の始めに柄についていたのは「蕨の若芽」であった。
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