気軽に茶道をしてます。

日々のお稽古とともに、できるだけ手作りのお菓子で
お茶を楽しんでいる様子や、四季折々の変化もお伝えします。

幻の大仏鉄道廃線跡を歩くⅠ京都編

2017-05-28 09:59:56 | 散策
当日、前夜からの激しい雨が徐々に小雨になり、天気予報では
”10時頃には薄日も射すが通り雨がありますので注意”と、
案内もしていただけますので、行かなくてはなりません。
合羽を着て最寄りの駅まで2㎞、雨に濡れたヤマボウシが・・

JR大和路線で加茂駅に到着、駅前には温泉付きのマンションが
大阪への通勤電車そして亀山への気動車の始発駅なんです。
現ホームから続き、一段と低くなった旧ホームがの残っており、
鉄のポールが見えませんか。旧駅舎の跨線橋の一部だそうです。
 
この駅は恭仁京跡当尾石仏巡りそして
浄瑠璃寺(九体寺)や岩船寺(アジサイ寺)の拝観も、さらに
景観の日本遺産となった茶畑の和束町への起点になります。

さあ小雨の中出発します。直後に開業当初の「ランプ小屋」に、
オランダ積みの赤レンガ造りで切妻屋根の倉庫(1897年)です

さらに線路沿いを3分ほど歩くと黒い蒸気機関車が目に入ります。
昭和12年製のC57-56、貴婦人でお召列車を引っ張ったことも。

三叉路にこんな石灯籠が、横にはお地蔵様も。

街中を抜け、川沿いから里山の風景で30分程歩きます。
小雨が止み、時折陽が射してきます。

小川の中に石が、これは道床の一部?とされています。

さあ廃線跡(手前)で関西本線(奥)と同時期に作られており、
手前が石造りの観音寺橋台です。

15分ほどで、鹿背山橋台に、宮脇俊三『鉄道廃線跡を歩くII』の
表紙にも採用され、形といい、石積みの力強さを感じ取れます。

竹藪を抜け、ゴルフ場の側を通り抜けると、多彩な緑が目に
 
15分ほどで、里山を開発した住宅地脇に到着すると、
真直ぐな道が続いており大仏線築堤で、上はゴルフ場への道
下には農道や水路を通すために設けられた梶ヶ谷隧道があります。
壁は煉瓦、側壁は御影石と豪華な作りです。詳細は
アーチ部分の煉瓦は長手積み、坑門はイギリス積みになり、
保存状態は極めて良く、大仏鉄道の代表的遺構の一つです。

そして大仏線築堤にもう一つ、3分程で赤橋に至ります。
御影石と煉瓦を組み合わせて造られており、
長短の赤煉瓦を交互に積むイギリス式になりますね。
しかし見上げると道を支える道床の石板と丸太が見えます。
  
さあ、11時半とまだ早いですが、城山台公園に到着。
トイレもありますので、晴れているうちにお昼ご飯に。
                (Ⅱ.奈良編に続く)

「大仏駅」って?

2017-05-27 16:50:02 | 散策
今朝、台子のお稽古に伺いますと、東大寺大仏殿の甍に
聳え立つ金色に輝く鴟尾、その上には若草山が・・・
緑が一段と濃くなり、初夏の装いですね。 

現在東大寺大仏殿への最寄駅は、JR奈良駅(1890年)もしくは
近鉄奈良駅(1914年)ですが、明治時代には『大仏駅』もあり、
名古屋からの大阪を目指した関西(かんぜい)鉄道が、関西本線
加茂駅から山越えのルート・愛称『大仏鉄道』の終着駅として
1998年(明治31年)4月に開業しており、大仏殿から西に1.8Km
離れていましたが、一条通りを経て大仏詣で賑わったそうです。

一年後には当初の計画通り今のJR奈良駅にまで延伸されたが、
25‰と勾配がきつく運転の障害となり木津駅経由の平坦な本線が
出来たことで1907年8月に休止後、11月には廃線に至りました。
現在わずか9年間の”幻”の廃線跡には隧道や橋台が所々に残り
大仏駅跡も、小さいながら大仏鐡道記念公園になっており、
この公園から北へ約75m続くホームがあったそうです。
  
機関車の車輪を模したモニュメントがありますが、
春になれば、奈良の氷室神社の枝垂桜に劣らず、
きれいな枝垂れ桜も見られ、穴場になりますね。

このわずか9年間の”幻”の廃線跡9.9kmを訪ねる機会があり、
「健康日本21」では理想的な一日の歩数は「1万歩」、
”老化は足から”と、予防も兼ね16Kmほど歩いてきました。
遺構めぐりマップ
詳細は次回に。

弥生の遺跡、国史跡「唐古・鍵遺跡」へ

2017-05-26 11:50:02 | 散策
お墓参りに橿原まで行くのですが、奈良に来て以来40年
奈良市から吉野方面への南北の道路事情は、新しい道路
京奈和道も出来上がってはいるのですが、途切れ途切れ
交通量の増加に追いつかず、つい国道24号を南下して
橿原へ向かいます。その途中田原本町に入るとすぐに、
気になっていた建物が目に飛び込んできます。
 
たしか20年前には、田んぼの真ん中にぽつんとこれだけ
最近は案内表示もあり、はじめて車を駐車場へと。
 
田んぼばかりだったのが、芝生の広場に変わっており、
期待を込めて階段をのぼると、目の前は

唐古池でおじさんたちが、ふな釣りに夢中
遺跡としては、これだけで、出土品等は、車で5分の
唐古・鍵考古学ミュージアム』とのことでした。
でもやはり、墓参りを済ませなくては。
田原本町HPより
国史跡『唐古・鍵遺跡』とは、田原本町のHPでは
”唐古から鍵にかけて所在し2000年前、弥生時代の 
 多条環濠集落遺跡で、42万平方m近畿圏最大とされ、
 奈良盆地のほぼ中央、標高48~51mの沖積地に立地する。
 第一次の1936・7年、国道用採土に伴い唐古池底の調査で
 出土した土器や木製品等は弥生時代の総合的な認識を齎し
 畿内の土器編年の枠組みが作られ、その後、発掘調査は
 1977年に再開され、2015年9月までに116次に達する。

 出土遺物は土器、農工具・容器などの木製品、石鏃や
 石包丁などの石器、骨角器、卜骨などの祭祀遺物、
 炭化米、種子、獣骨類など 多種多様な遺物、さらには
 銅鐸の鋳型などの青銅器鋳造関係遺物、褐鉄鉱容器に入った
 ヒスイ製勾玉、楼閣が描かれた絵画土器など特殊な遺物も”
第47次調査で出土
出土した多量の土器から、土器の変遷から時代をはかる
土器編年」が確立されて、 弥生研究の基礎となっています。
特にこの絵画土器は、全国の絵画土器出土総数の約半分を占め
この第47次調査で出土した絵画土器の「楼閣」をもとに、
1994年、唐古池の西南隅に復元されました。HPによると
”復元楼閣の高さは12.5mの2階建て、4本の柱は直径50㎝の
 ヒバ材を使用しています。平面プランは4m×5mです。
 屋根は茅葺きで、丸太で放射状に押さえています。
 壁は外面 が網代壁、内面が板壁です。
 唐古・鍵遺跡の建物に特徴的な渦巻き状の屋根飾りは藤蔓で
 作り、梯子は刻み梯子で復元しています。
 土器に描かれた屋根の上の逆S字状の3本の線は渡り鳥と解釈し、
 木製の鳥を東西両面 にそれぞれ3羽ずつ設置しています。”と

なお、駐車場は10月1日より、公園整備のため使用できず、
遺跡の展示をされている唐古・鍵考古学ミュージアムも
平成29年9月1日~平成30年5月31日までリニューアル工事の
ため休館されますので、ご注意ください。

利晶の杜の立礼呈茶席は「南海庵」

2017-03-26 18:51:28 | 散策
今日は昼から奈良は雨の予報ですが、朝からお稽古に、
昨日、今週の自宅稽古のお菓子を作ろうとしましたが、
妙案が浮かびません。というのも
昨日伺った「さかい利晶の杜」の立礼呈茶席では
「桜花」天神餅さん
  
軸は、「柳緑花紅」ですっかり春模様
  
今日のお稽古にお伺いしてからに・・・

朝から釣り釜ですので、炭付花月之式、そして
濃茶付花月之式二回と、帰る頃には雨が落ちてきており、
帰り着いたらもう午後4時半
ああそうでした、菓子は「桜薯蕷饅頭」樫舎さんで
さあどうしましょうか。パンも作らなくてはいけませし、
でも疲れたので明日にしましょう。

今日は利晶の杜の続き、立礼席と千利休茶の湯館を紹介します。
立礼呈茶席(表千家・裏千家・武者小路千家)は受付横からで、

入りますと、「南海庵」という扁額が掛っており
堺・南宗寺住職の田島碩應老師命名だそうです。

大宗匠命名の四畳半茶室「無一庵」と同様に開館式2015.3.20で
千玄室大宗匠自ら、二つの扁額を除幕され、献茶もされております。
今日は裏千家さんの当番日の点茶盤で、お点前も終わりに。
 
お道具は、お伺いすることができず、写真だけ。 
  

次は、千利休茶の湯館へ、入ってすぐのパネルと南蛮船

利休の茶会の床の再現、今市屋敷四畳半、永禄6年(利休42歳)
 
聚楽屋敷四畳半、天正18年(利休69歳)
 

表千家から寄贈された「扇面流水絵茶碗」
第17代永楽善五郎で、箱書きも14代而妙斎さんに

屋敷跡から発掘された茶碗
韓国製 中国製天目

旧暦2月28日利休忌に因んで、書状が展示されておりました。
千利休画像(複製)、春屋宗圓賛、長谷川等伯筆

千利休書状(複製)天正13年以降
「早梅の文」:早梅を送られた御礼
早梅の文
千利休書状(複製)古田織部宛、天正13年
焼茶碗=楽茶碗を娘婿経由で渡すことを
焼茶碗の文
豊臣秀吉朱印状(複製)、利休に宛てた書状
病床に伏した利休に心静かに療養せよとの見舞い状

利休居士号偈(写真)仙嶽宗洞筆、今日庵1595年

残念なことに、堺市は1945年3月13日に堺大空襲をうけ、
壊滅しており、文化財が少ないことですね。
なお利休忌は、
3月27日:表千家、翌28日:裏千家、武者小路千家にて
点てられたお茶を供えられ、合掌、黙祷が奉げられます。

桜桃(ゆすらうめ) の花咲く散歩道で昔を

2017-03-24 11:03:33 | 散策
昨日、16日の合格発表を見届けた白木蓮の樹
もう咲いたのかと遊歩道を歩いておりますと、
ウグイスの鳴き声が保安林から響きます。
春で日差しは暖かいのですが、吹く風は冷たい日に、
ソメイヨシノ桜(開花予想は30日、本当でしょうか)は、
膨らんだ蕾も寒そうに・・・
でも早咲きの河津桜は強い風で枝が揺れるも、花は
 河津桜
学校は春休み、塀越しに目を・・・残念ながらまだで、
突然ファインダーの中に学生が、
クラブ練習の学生達で、こちらを見て笑っており、
恥ずかしく、慌ててその場を立ち去ります。
この白木蓮は、入学試験・合格発表を経て入学式それから
3年間のあなたたちの学校生活を、見守ってくれていますよ。
3/16 3/23
遊歩道を少し進むと、毎年早く咲きだす紫木蓮があるのです。
白木蓮より10日ほど遅く咲きだすと言われる紫木蓮なのに、
濃紫色の花びらがすこし、開花するのはもう直ぐですね。
紫木蓮(マグノリア)
また遊歩道にピンク色の蕾と内側が白い花がこぼれており、
桜桃(ゆすらうめ)』、
もう半世紀前のこと、花ではなく、
初夏、赤く実ったあの甘酸っぱい味が・・・
田舎のおばあちゃんのやさしさを思い出します。
 
後れじとゆすらの梅も花ごろも
            石塚友二
正岡子規は、こんな句も詠んでおります。
『蝶飛んでゆすらの花のこぼれけり』
あっという間に、満開になるでしょう。

風が強く、寒いのか蝶は見当たりませんが、
「ツー、ピー、ツー、ピー」と鳴き声とともに
白いほっぺたに黒いネクタイをつけたような姿
『シジュウカラ(四十雀)』が2羽、
囀り合い、時おり「ヂヂヂヂ」と違う鳴き声が、
離れないので、恋の季節なのでしょう。
 
コミュニケーションが取れる鳥として有名で、
久しぶりに、相方(六十爺)の話も聞いてあげなくては?
と思いつつ、何気なく苔を撮っていると、
 
急にワンちゃんが、話しかけてきます。
友達の家に伺ったばかり、
服に匂いが残っていたからでしょう。

つくしと「田道間守」

2017-03-22 14:35:00 | 散策
先週の土曜日の夕方、奈良・唐招提寺の西北にある歴史の道
垂仁天皇陵の脇を通り、歩いておりますと、柵の向こうに
土筆(つくし)が。日当たりのよい南側の土手ですから
先っぽがほころびており、池面に映り込む御陵の杜も。
でもカワウが餌を探して潜っては、掻き消します。
御陵(みささぎ)に昔も今も土筆たつ
              愚句
 
また、江戸中期の俳人、黒柳召波もこんな句を
つくづくしほうけては日の影ほそし
  
土筆は江戸時代の古句には「つくづくし」と詠んだものが多く、
「つくしんぼ」「筆の花」とも詠まれ、こんな季語も
「土筆野」「土筆摘む」「土筆和(つくしあえ)」。
土筆摘みは、昨年も3月下旬でしたから、今年も頑張って
採ってこなくてはなりませんね。
昨年作った土筆の干菓子、残りもあと少しですが、
 
昨日の立礼でもお出ししております。
 
そういえば、御菓子で思い出したこと・・・
土筆があがった垂仁天皇陵、
周囲を水濠に囲まれた全長227mの大型前方後円墳ですが、

お濠の南東に小島が浮かんでいます。

この島は菓子と縁のある方「田道間守」のお墓とも。
伝説は、帰化人の田道間守は垂仁天皇のために不老不死の果物
”ときじくのかぐのこのみ”(非時香具菓、今の橘)を探す命を、
受け、9年間中国南部からインド方面を探し回り、持ち帰りしも、
天皇はすでに崩御されており、墓前で殉死の道を選ばれた。
そのことを哀れんで、そばの小島に葬られたと伝えられている。
古代の菓子が「果物」の意味もあるところから
菓子神・菓祖とする信仰が兵庫の中嶋神社にあり、
全国各地に分社され、京都の吉田神社もその一つです。
でも
奈良でお菓子の神社といえば『漢国神社(かんごうじんじゃ)』の
境内の『林神社』なんです。
日本で初めてまんじゅうをつくられた林浄因がお祀りされており、
林浄因の命日・4月19日には毎年、恒例の「まんじゅう祭り」も
執り行われ、全国から菓子業者があつまり銘菓が奉納されます。

美味しいものを頂けるのは、先人の知恵の塊、
本当にありがたいものですね。感謝!

月ヶ瀬梅渓と烏梅(ウバイ)

2017-03-17 14:45:36 | 散策
烏梅(ウバイ)』ってご存知ですか?
私も「月ヶ瀬梅渓と富岡鉄斎」の講座で初めて知りました。
梅の果実を薫製にし、烏(カラス)様の黒い色が由来で、
中国では、後魏で著作された実用農書『斉民要術』に
実梅の製法が記載され、日本には遣唐使により樹木より先に、
漢方薬「wu mei」ウメイとしての持ち帰られてたそうです。
漢方薬としては鎮痛・解毒作用があるため、煎じて風邪薬や
胃腸薬として用いられ、中世になり梅には「クエン酸」が
多く含まれ、紅花から「紅」の色素を取り出す時、天然の
クエン酸を染色の「媒染剤」として利用したのです。
特権階級の人々が愛用した「紅花染め」や明治時代まで
日本女性を彩った口紅・頬紅の媒染剤として『烏梅』は、
欠くことのできない貴重な物だったそうです。
月ケ瀬梅林はこの烏梅を作るために植えられた梅林なんです。
月ヶ瀬の名は渓谷を流れる川面の漣に月光が輝くさまからで、
烏梅が作られるようになったのは、こんな謂れからなんです。
”後醍醐天皇の笠木落城(1331年9月)時に「園生側女」が月ヶ瀬
 尾山に逃げ延び、村人達に助けられたことで「烏梅(墨梅)」の
 作り方を教えた。この烏梅が高値で売れるので、村人こぞって
 白梅の木を植えたと”
この白梅の木は野梅といわれる原種に近く、梅干しには不適で、
6月下旬から7月初旬にかけ、赤く実が熟し落下するまで放置され
落ちた実をザルに拾い集め、竈や煙突からの煤を入れて、ゆすり
ながらまんべんにまぶします。

風呂桶大の土穴で、もみ殻に火をつけて、
くすぶらせた煙りの上にまぶした実を竹蓆を並べ置き、

水を少し撒き丸一日燻煙し続けます。

この黒く燻した実を筵に並べ、二週間天日に干すと

真黒く皺のよったカラカラの烏梅ができます。


明治に入ると、化学染料の導入により月ヶ瀬は変貌をとげ、
梅樹を切り倒し、炭を焼いたり、茶畑・桑畑へ転作され、
10万本から1万本へと数を減らし、烏梅に携わる家も一軒また
一軒と減り、現在、月ヶ瀬いや全国で作ることのできる人は
ただ一人、国選定文化保存技術者の中西喜久夫妻だけ、

帆浦梅林・祝谷に「梅古庵」というお店を出されております。
 

また東大寺の修二会(お水取り)の『のりこぼし造花』とも
『烏梅』は縁があることを知りました。
昨年の修二会を案内していただけた宝珠院さんでお会いした
染色家の吉岡幸雄の名前が。

まず紅花染めの方法は、「日本の色辞典」吉岡幸雄によると
『紅花染め』は寒の紅ともいわれ、2月頃に染めるのが最適、
春色の紅梅の色を出すには、オレンジ色の紅花がアルカリ性の
灰汁で紅色を分離するため、紅花をたっぷり使い、何日も
繰り返し染めると赤く濃く染まり、韓紅色に染め上ります。
この次に烏梅が紅色を引き出す仕上げの決め手に使われます。
まずこの『烏梅』に熱湯を注ぎ入れ数日放置すると、成分が
溶け出し良質な果実酸が出来上がり、これを薄め、先ほどの
韓紅の布を手繰ると、より透明で鮮やかな紅梅色になります。      

『のりこぼし造花』の紅色も『烏梅』を使った「紅花染め」で
作られております。

『烏梅』を作る技術が絶えると修二会も出来なくなりますね。

月ヶ瀬梅渓へ

2017-03-16 11:43:53 | 散策
昨日は冷たい風が吹き、時折小雨も振る寒ーい一日。朝早くから
下校時の「子供見守り」当番のため9時40分から待っていると、
低学年生がわいわいとしゃべりながら帰ってきます。
”お帰り”というと「ただいま」と返してくれます。
半袖半ズボン姿の子に、”寒くないのー”「ぜんぜん」と
”さよなら、真っ直ぐ帰りなさいね”の声で「さようなら」と。
そして大きな数人の小学生は小さくなったランドセルを背に担ぎ
手には何か広げ、笑いながら帰ってまいります。そういえば
明日は小学校の卒業式、覗き込むと『卒業アルバム』でした。
”小雨が降っているから、大事にしなさいよ”「判りました」
”卒業おめでとう”と言うと「ありがとうございます」と返事が
私の初孫も小学校卒業で、成長が楽しみですが・・・、実は
心に決めた部活のため、部活の強いこの地区の中学へ通うため、
下宿をお願いされており、嬉しいのですが、爺婆が出来ることは
二食とそっと見守るぐらいしかできませんね。

見守ると言えば、この火曜日に、月ヶ瀬梅渓へ観梅に。
奈良市中心部よりも半月ほど遅く3月中旬が見頃となり、
江戸時代後期10万本の梅樹が、現在は1300本にまで漸減したが、
明治中ごろから保勝会が設立され、維持されており、
五月側沿いから斜面に広がる梅林は、一見する価値があります。
梅見期間中は奈良から定期バス(片道1360円、75分)以外に
臨時バスも出ており、車では50分ほどで到着します。
五月川の下流には高山ダムがあり、水を湛えて湖面に
赤い月ヶ瀬橋が映え、下流と上流を眺めます。
下流 上流
橋を渡り、そのあたり、対岸の一目万本を撮ります。

橋のたもとに、梅の資料館が佇んでおり、(後述します)
月ヶ瀬マップを頂き、観梅へ向いました。

代官坂入り口に、名勝指定碑(日本で最初1922年)があり、

急坂を少し上ると五月川が
下流 上流
途中にお地蔵様がほほえんで見守ってくれております。
あともう少しで、なだらかになりますよ。

途中、今年初めての鶯の声を聞きました。ウレシイ
でも気象庁の初鳴日は奈良ではまだ観測されておりません。
探しますが、メジロやスズメと鳶が
 
梅のトンネルを抜け、天神梅林や帆浦梅林から眺めます。
下流
  上流
樹齢二百年の古梅「城州白」も

五月川沿いは7分咲き、梅渓梅林は見頃を迎えており、
この三連休は、最高の梅見日和になりますね。

修二会に間に合った良弁椿の一番花

2017-03-13 16:15:08 | 散策
奈良は暖かな朝を迎え、昼前から一雨ありましたが、
朝の自宅稽古を終え、急いで片付けも済ませ
昼から奈良の町へ行かなくてはなりません。

実は今日含め残り三日となった確定申告がまだだったのです。
流石に混んでおり、来年は早くしなければと反省を・・・
ここまで来たのですから、12日の「お水取り」も終わり、
修二会満行・解散の15日14時前まであと50時間を切り、
二月堂へと雨も止んだ曇り空のもと足を進めました。
知事公舎から別火坊の戒壇院を通り、二月堂へは
石畳と土塀の小路の裏参道からのルートを取ります。
  
お水取りの行われた若狭井のある閼伽井屋です。
 
二月堂への階段には今日13日に上堂される松明が10本
堂司さんが、階段を掃除されております。
 
昨日の籠松明の燃え残りのスギの葉を頂き、
家に持ち帰り、祀りました。
 
各局はお参りの方々で大変ですが、練行衆の行の様子を
しばし聞き入らせていただきました。(撮影禁止!)
来年は、是非とも夜に伺いたいものです。
 
階段を降り、もう一つの目当て
千手観音菩薩立像さんのおられる三昧堂(四月堂)横に
良弁椿の花が置かれているのです。
今年 昨年
修二会に一番花が間に合いましたとのこと、
開山堂の庭に咲く良弁椿(のりこぼし椿)は・・・
花が見当たらず、葉の一部に黄色味がかり、
どうしたのでしょうか、心配です。
 昨年
でも開山堂のなかに、良く似た絞りの椿の蕾が?

開山堂の正面に廻いますと、松明が大小二本あります。
(なお奈良の登大路ホテルの玄関先にも)
 
大きい籠松明ということは、昨日上堂に使われた松明の残り、
80Kgの籠松明がこんなに小さくなるのですね。
 
もう一度振り返り、二月堂さんにお辞儀をして帰りの途に

もうすぐ、奈良にも春がやってまいりますね。

橿原神宮へ

2017-01-05 15:44:02 | 散策
有難いことに予想より早く許可がおりました。
橿原まで孫を連れ、迎えにまいりますと、
同室の方から、橿原神宮へ参ってから帰られてはと、
勧めて下さり、御礼も兼ね橿原神宮へ初詣にまいりました。
初詣は初めてではなく久しぶり、というのも三十数年前まで、
近くに住いしていたからです。
今日は5日なのに表参道の一の鳥居から両側に出店がずらり、

そして子供も含め参拝される方々の多さにびっくり!
実は恒例の書き初め大会が催されていたからで、北参道や
県立体育館付近も混んでいたのですね。
相方もその昔、五十数年前に参加したそうですが、
あんな悪筆なのに驚きです。
二の鳥居の奥に一の鳥居が望めます。
反対側から一の鳥居を 
手水舎でお参りの前に身を清めます。

振り返り、畝傍山を背に南神門から境内へと

外拝殿の上に畝傍山が

通常は外拝殿で参拝なのですが、
初詣期間中は、幣殿前まで入っての参拝になります。
幣殿の奥にある本殿に向かって、
・・・二礼二拍手一礼・・・
塗り替えられてきれいな幣殿は、屋根に千木、
棟の上には鰹木が置かれております。
境内から
そして参拝を済ますと、外拝殿右横に巨大な大絵馬の前で、
皆さん順番待ちで写真を撮られておりました。

この大絵馬は、高さ4.5m、幅5.4mで畳14枚分だそうで、
「開運」の文字と鶏の夫婦が仲良く並んでおり描かれており、
原画は日本画家、藤本静宏さん(61)の制作になるそうです。

参拝を済ませ、ハクチョウがいる深田池に

あれっ、白鳥はいません。鳥インフルエンザの影響?
でもカモたちはのんびりと泳いでおります。
数日はのんびりと静養してください。
来週からもアクセルは徐々に踏んでくださいね。