![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/56/b4/e858f04208947df4181899977f6f02d8.jpg)
玄関の色紙です。
薬師寺管主、山田法胤さん
「見てござる 聞いてござる
佛は皆 知って ござる」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/27/ad/5c4e11f9b864e108dc81e249377b1dfa_s.jpg)
このところ、また『政治と金』の問題が・・・
政治家の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」も
考えさせますね。
家に一冊、白洲正子さんの『明恵上人』
現代日本のエッセイ、講談社文芸文庫本がありました。
本の解説は、河合隼雄さん
どちらもなかなかすっと頭の中にはいってきません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3b/d2/9213dd1901932aae1448e5bce5cf2327_s.jpg)
『あるべきようわ』を
もう少し委しく語ったものが、伝記の中にあり、
主観的に感じていただければと思い、
抜書きいたします。
『或時上人語て曰く、我に一の明言あり。
我は後世を資からんとは申さす。
只現世に有べき様にて有んと申成。
聖教の中にも行ずべき様に行じ、
振舞べき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。
現世には左之右之あれ、後生計り資かれと
説かれたる聖教は無きなり。
仏も戒を破て我を見て何の益かあると説給へり。
仍て阿留辺畿夜宇和と云七文字を持つべし。
是を持つを善とす。
人のわろきは、態とわろき也。
過ちにわろきには非ず、悪事をなす者も、
善をなすとは思はざれども、
あるべき様にそむきて、まげて是をなす。
此の七字を心にかけて持たば、
敢て悪き事有べからずと云々』
また明恵上人は、六波羅探題(後の三代執権)の北条泰時との
二人の最初の出会いは、不審者としてであったが、以後
上人を敬う泰時は、度々高山寺を訪れ法談に及んでいます。
「我不宵蒙昧の身にありながら、
辞するに理なく、
政を務りて天下を治めたることは、
一筋に明恵上人のご恩なり」と語り、
そして泰時には
『只太守一人の心に依るべし。天下の欲深き訴えが来らば、
我が欲心の直らぬ故ぞと知りて、我が方の心を返して、
我が身を恥しめ給うべし。
彼を咎に行い給うべからず。
たとえば我が身のゆがみたる影の、
水に映りたるを見て、我が身をば正しく成さずして、
影のゆがみたるを怒りて、影を罪に行わんとせんが如し』
と説いたそうです。
明恵上人が泰時に教えたのは、政治の技術ではなく、
政治の「あるべきようわ」についてであり、
末法思想が流布している中にあり、
いかに生くべきかという現実的な問題だったようです。
なお明恵上人は生涯の持仏として
「仏眼仏母」の掛け軸を持っておられ、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/35/a5/30bf176fbee063f20b32b89c4fbe920a_s.jpg)
「もろともに あわれとおぼせ み仏よ
きみよりほかに しるひともなし」
と詠まれております。
薬師寺管主、山田法胤さん
「見てござる 聞いてござる
佛は皆 知って ござる」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/27/ad/5c4e11f9b864e108dc81e249377b1dfa_s.jpg)
このところ、また『政治と金』の問題が・・・
政治家の「阿留辺畿夜宇和(あるべきようわ)」も
考えさせますね。
家に一冊、白洲正子さんの『明恵上人』
現代日本のエッセイ、講談社文芸文庫本がありました。
本の解説は、河合隼雄さん
どちらもなかなかすっと頭の中にはいってきません。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/3b/d2/9213dd1901932aae1448e5bce5cf2327_s.jpg)
『あるべきようわ』を
もう少し委しく語ったものが、伝記の中にあり、
主観的に感じていただければと思い、
抜書きいたします。
『或時上人語て曰く、我に一の明言あり。
我は後世を資からんとは申さす。
只現世に有べき様にて有んと申成。
聖教の中にも行ずべき様に行じ、
振舞べき様に振舞へとこそ説き置かれたれ。
現世には左之右之あれ、後生計り資かれと
説かれたる聖教は無きなり。
仏も戒を破て我を見て何の益かあると説給へり。
仍て阿留辺畿夜宇和と云七文字を持つべし。
是を持つを善とす。
人のわろきは、態とわろき也。
過ちにわろきには非ず、悪事をなす者も、
善をなすとは思はざれども、
あるべき様にそむきて、まげて是をなす。
此の七字を心にかけて持たば、
敢て悪き事有べからずと云々』
また明恵上人は、六波羅探題(後の三代執権)の北条泰時との
二人の最初の出会いは、不審者としてであったが、以後
上人を敬う泰時は、度々高山寺を訪れ法談に及んでいます。
「我不宵蒙昧の身にありながら、
辞するに理なく、
政を務りて天下を治めたることは、
一筋に明恵上人のご恩なり」と語り、
そして泰時には
『只太守一人の心に依るべし。天下の欲深き訴えが来らば、
我が欲心の直らぬ故ぞと知りて、我が方の心を返して、
我が身を恥しめ給うべし。
彼を咎に行い給うべからず。
たとえば我が身のゆがみたる影の、
水に映りたるを見て、我が身をば正しく成さずして、
影のゆがみたるを怒りて、影を罪に行わんとせんが如し』
と説いたそうです。
明恵上人が泰時に教えたのは、政治の技術ではなく、
政治の「あるべきようわ」についてであり、
末法思想が流布している中にあり、
いかに生くべきかという現実的な問題だったようです。
なお明恵上人は生涯の持仏として
「仏眼仏母」の掛け軸を持っておられ、
![](https://blogimg.goo.ne.jp/thumbnail/35/a5/30bf176fbee063f20b32b89c4fbe920a_s.jpg)
「もろともに あわれとおぼせ み仏よ
きみよりほかに しるひともなし」
と詠まれております。
[魂]と⦅自然数⦆を【あるべきようわ】で観て観る。
[天竺]に行きたいと[切望]する明恵上人の「魂」は、この地で生ませた[零(0)]を【あるべきようわ】で呼び込んで来たようだ。
幼く、『(わけのわかる ちゃん)(まとめ ちゃん)(わけのわからん ちゃん)(かど ちゃん)(ぐるぐる ちゃん)(つながり ちゃん)』と戯れで【あるべきようわ】の[零(0)]に逢いたい「夢の記」を・・・
[絵本]「もろはのつるぎ」で・・・
≪…日本文化の面影を見つける…≫で、数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】に託す。
「初めて語られた科学と生命と言語の秘密」に出てくる用語【ヴィークル】に[絵本]と[歌謡の本歌取り]を捧げる。
もろはのつるぎ (有田川町ウエブライブラリー)
「愛のさざなみ」の本歌取りで
[ i のさざなみ ]
この世にヒフミヨが本当にいるなら
〇に抱かれて△は点になる
ああ〇に△がただ一つ
ひとしくひとしくくちずけしてね
くり返すくり返すさざ波のように
〇が△をきらいになったら
静かに静かに点になってほしい
ああ〇に△がただ一つ
別れを思うと曲線ができる
くり返すくり返すさざ波のように
どのように点が離れていても
点のふるさとは〇 一つなの
ああ〇に△がただ一つ
いつでもいつでもヒフミヨしてね
くり返すくり返すさざ波のように
さざ波のように
[ヒフミヨ体上の離散関数の束は、[1](連接)である。]
(複素多様体上の正則函数の層は、連接である。)
数学の基となる自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))を大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】の平面・2次元からの送りモノとして眺めると、[岡潔の連接定理]の風景が、多くの歌手がカバーしている「愛のさざなみ」に隠されていてそっと岡潔数学体験館で、謳いタイ・・・
「八木節」(江利チエミ)の本歌取りで
[ ヒフミヨは△廻し□なる ]
アー
ちょうと出ました 三角野郎が
四角四面の櫓の上で
音頭取るとは 恐れながら
しばし御免を こうむりまして
何か一言 読みあげまする
稽古不足で覚束ないが
平にその儀は お許しなされ
許しなされば ヒフミヨかかるで
オーイサネ
大和言葉のヒフミヨは
度胸すぐれた△野郎
〇泣かせの回転体で
取っておさえて三点ふかせ
今宵かぎりと〇から消える
ここにあわれはπと一よ
〇の形見のnを背負い
ひふみよいむなやこと
オーイサネ
聞いておくれよのろけじゃないが
逢うた初めはひと目で惚れて
思い込んでる〇の一
昼はまぼろし夜は夜で夢に
見ると云うても覚めればπ
一生他人にならないように
早いところで都合をつけて
そわせたまえや 〇と△
オーイサネ
「北空港」の本歌取りで
[ 円周率 ]
〇の一 □に逢えて
カオスな一に 灯りがともる
〇と▢は一緒だよ もう引っ付いている
なぞり逢おうよ
カオスを捨てて 時間さえ捨てて
i(アイ)が飛び立つ 一のi(アイ)
〇の一 □に惚れて
ヒフミヨ渦に πが見える
信じてもいいですね ヒフミヨ放射だけ
数え尽くすわ
カオスを捨てて 時間さえ捨てて
i(アイ)が飛び立つ 一のi(アイ)
〇の一 舞い散る数も
ヒ(〇・π)とヨ(□・i⁴)で 咲く花になる
どこまでも一緒だよ もう離れずに
夢(√・平面)を探そう
カオスを捨てて 時間さえ捨てて
i(アイ)が飛び立つ 一のi(アイ)
大和言葉の【ひ・ふ・み・よ・い・む・な・や・こ・と】へのエールとしタイ・・・
自然数(数の言葉ヒフミヨ(1234))のキュレーション的な催しがあるときの[応援歌]になるといいなぁ~
Posted by 「比叡おろし」(汚れちっまた悲しみに…)
もろはのつるぎ
わかっているようでわかっていない事は山ほどある。自分は知っていると思っていても実は見当違いの理解をしている事もおそらく山ほどある。
(1) ---------------------------------------
サン=テグジュペリの「星の王子さま(Le Petit Prince)*1」の冒頭で主人公が6歳の頃に書いた絵のエピソードが出てくる。〔*1 内藤濯の訳語〕
もろはのつるぎ_f0171581_22395522.png
主人公がこの絵を大人に見せて「こわいでしょう?」と聞いてまわると、大人は皆、「どうして帽子がこわいの?」
〔以下の引用は青空文庫「あのときの王子くん(Le Petit Prince)大久保ゆう訳」から〕
「この絵は、ぼうしなんかじゃなかった。ボアがゾウをおなかのなかでとかしている絵だった。だから、ぼくはボアのなかみをかいて、おとなのひとにもうまくわかるようにした。あのひとたちは、いつもはっきりしてないとだめなんだ。」
「おとなのひとは、ボアの絵なんてなかが見えても見えなくてもどうでもいい、とにかく、ちりやれきし、さんすうやこくごのべんきょうをしなさいと、ぼくにいいつけた。というわけで、ぼくは6さいで絵かきになるゆめをあきらめた。さくひんばんごう1と2がだめだったから、めげてしまったんだ。おとなのひとはじぶんではまったくなんにもわからないから、子どもはくたびれてしまう。いつもいつもはっきりさせなきゃいけなくて。」
「すこしかしこそうなひとを見つけると、ぼくはいつも、とっておきのさくひんばんごう1を見せてみることにしていた。ほんとうのことがわかるひとなのか知りたかったから。でもかえってくるのは、きまって「ぼうしだね。」って。そういうひとには、ボアのことも、しぜんの森のことも、星のこともしゃべらない。むこうに合わせて、トランプやゴルフ、せいじやネクタイのことをしゃべる。するとおとなのひとは、ものごとがはっきりわかっているひととおちかづきになれて、とてもうれしそうだった。」
(2) ------------------------------------------
下の数字列の中に「3」はいくつあるでしょう?
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
普通の人は目がチラチラしながら数えて、数秒から十秒近くはかかるのではないだろうか?見落としたりカウントを間違えてしまうかもしれない。
「数字に色がついて見える」共感覚の持ち主なら正解をほぼ瞬時に答えることができる。彼(彼女)には、例えば次のように見えるから
555553555553555555553555555555555555355555555553
555555555555555355555555535555553555555555555555
(3) ------------------------------------------
NHKのチコちゃんで四つ葉のクローバーを探すのを放送していた。簡単に見つける人はあっという間に手にいっぱい集められるのに、そうでない人は場所を変えても見つけられない。私は後者で、悔しいことに今までトライして見つけたことが一度もない。20cmや30cm四方の緑の群落を目でサーチしたとき前者には特別な見え方がするのだと思っている。
(4) ------------------------------------------
ラマヌジャンというインド人の数学の天才がいた。
病床の彼をケンブリッジ大学のハーディが見舞ったときのエピソード。
ハーディが
「乗ってきたタクシーのナンバーは1729だった。さして特徴のない数字だったよ」と言うとラマヌジャンは即座に次のように答えたという。
「そんなことはありません。とても興味深い数字です。それは2通りの2つの立方数の和で表せる最小の数です」
実は、1729は次のように表すことができる。
1729 = 123 + 13 = 103 + 93
ラマヌジャンは1729が
A = B3 + C3 = D3 + E3
という形で表すことのできる数Aのうち最少のものであることを即座に指摘したのである。ラマヌジャンにとって「すべての数字は友達」のようなものだった。
(5) ------------------------------------------
数学者の岡潔は随筆集「春宵十話」のなかで書いている。
「人の中心は情緒である。(中略)数学とはどういうものかというと、自らの情緒を外に表現することによって作り出す学問芸術の一つであって、知性の文字板に、欧米人が数学と呼んでいる形式に表現するものである。」
「数学上の発見には、それがそうであることの証拠のように、必ず鋭い喜びが伴うものである。この喜びがどんなものかと問われれば、チョウを採集しようと思って出かけ、みごとなやつが木にとまっているのを見たときの気持ちだと答えたい。」
「大学三年のときのこと、お昼に教室でべんとうを食べながら同級生と議論をして、その終わりに私はこういった。『ぼくは計算も論理もない数学をしてみたいと思っている』すると、傍観していた他の一人が『ずいぶん変な数学ですなあ』と突然奇声を上げた。私も驚いたが、教室の隣は先生方の食堂になっていたから、かっこうの話題になったのであろう、あとでさまざまにひやかされた。ところが、この計算も論理もみな妄智なのである。私は真剣になれば計算がどうにか指折り数えることしかできず、論理は念頭に浮かばない。そんなことをするためには意識の流れを一度そこで切らなければならないが、これは決して切ってはならないものである。計算や論理は数学の本体ではないのである。」
(6) ------------------------------------------
和歌山県には昨年初めて行った。初めて耳にするクマゼミの騒音のような鳴き声にビックリした。和歌山市と有田市の往復だったが山頂まで広がるミカン畑とその傾斜には驚いた。何十年も「Arita」と読んで疑わなかったが「Arida」と濁ることを知って愕然とした。十代の頃たしか田辺だったか全く見知らぬ同世代の男性から手紙をもらった。数学についての内容だったと記憶している。返事は出さずじまいだった。
有田川町は有田市の東南東に位置し有田川の上流になる。明恵上人の生誕地でもある。有田川町では絵本コンクールを実施していて、2019年(第9回)のコンクールの作品がネットで読めるようになっている。
(7) ------------------------------------------
「もろはのつるぎ」はそのコンクール受賞作品の1つ。
私は大人になってから、見ている「漢字」が字画ごとにバラバラに分解するというイメージが強くなって困ったことがある。たとえば「字」という漢字はそれはそれで読めるのだが、ふとした瞬間に「ウ」と「子」に分解するという奇妙な感覚である。
「奇」が「大」と「可」に。「妙」が「女」と「少」に、という具合。それぞれが自己主張をし始めるような感覚。
だらか「もろはのつるぎ」の内容は感覚的に何となく理解できる。
線をひっぱったり曲げたりつなげたりするのはAdobeの「Illustrator」のベジェ曲線の「アンカーポイント」や「コーナーポイント」「クローズパス」などの操作に似ています。「Illustrator」は見かけは「お絵かきツール」、でも奥では膨大な数学的な処理が行われている。
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