今年も桜の季節に訪れられなかった吉野山
梅雨の晴れ間に、歩きにやってきました
近鉄橿原神宮前駅から吉野線に乗り換えて
急行に乗ったはずなのに
神宮前からは各駅停車、小一時間の旅
岡寺→飛鳥→壷阪→市尾→葛→吉野口→薬水→福神→
大阿太→下市口→越部→六田→上市→吉野神宮→吉野
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コトコト揺られながらこの歌を思い出しました
『倭は 国の真秀ろば たたなづく
青垣 山籠れる 倭しうるわし』
「倭建命」が亡くなる前に故郷大和を思って詠んだ歌
大和は緑が美しい 特にこの季節は最高
そして目的地である吉野山
ここも歴史に上る話題がいっぱい
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/82/d62948d09352343ad8e519c3a05ceff9.jpg)
吉野の桜の由来は『役行者』で
修行によって日本独自の仏『金剛蔵王権現』を
祈り始めた時その姿を山桜の木で刻まれた事にあり
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金峯山寺蔵王堂、金剛蔵王権現
その後 信者たちにより献木として
植えつづけられ花の吉野ができたと
平安時代には桜の名所に
西行も吉野に籠り
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西行庵
西行を慕う芭蕉も二度も訪れた苔清水・・・
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左に「松尾芭蕉」の句碑がある。
「春雨の 木下(こした)につたふ 清水哉」芭蕉(笈の小文より)
「春雨の 木下(こした)につたふ 清水哉」芭蕉(笈の小文より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/55/d4/1c3101e7377d8af8ea72b7462f66d912.jpg)
古代においては「大海人皇子」が吉野に潜行
"大海人皇子が勝手神社の社殿で琴を奏でたところ、
天女が舞い降り、袖を振りながら舞を披露したと
勝手神社の背後の山は「袖振山」です。
義経と静御前のつかの間の逢瀬も・・・
金峰神社左奥の方にある『義経隠れ塔』がある
追手から屋根を蹴破り逃げたことから
『蹴破りの塔』という別名もあるが
時間の都合上、今回は訪れていない
一人静御前は吉野山で捕らえられ、
勝手神社・神楽殿で舞った「舞塚」も境内にある。
謡曲「二人静」の筋書きは
謡曲「二人静」の筋書きは
「勝手神社」で 静御前の霊が、菜摘女に取り憑いて
舞を舞い、回向を頼んで消えて行くと・・・
二人静・フタリシズカの花の名の由来はこの謡曲からと
フタリシズカの花言葉は「いつまでも一緒に」
静御前の切ない思いが・・・
吉野水分神社境内から奥の千本にかけたくさん見られた。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/04/74/65a985604c86095411b5ddd5da9ca23a.jpg)
大塔宮護良親王が鎌倉幕府倒幕のため挙兵し
楠木正成と吉野を城塞化のため堀を築いたとされる
一万の敵の軍勢を3000人で一週間持ちこたえたが
高野山へ落ち延びられ、その後討幕するも・・・
足利尊氏に捕らえられ、鎌倉で亡くなっている
ケーブル吉野山駅の近くにその堀跡がある
現在は朱塗りの橋が架けられていた
その先に高野山と伊勢への分かれ道になる
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/1f/56/42d0be6b423fd786fc5006d374b2f9ff.jpg)
吉野山を訪れれば、日本史の勉強にもなりますね