5月29日まで開催されていた栃木県にある小山市立博物館の「戦国時代の小山」展を観てきました。
小山、に限らず、戦国時代の下野国は各勢力が拮抗するなかで、小田原に本拠を構える後北条氏の動向に左右される状況であったようです。特に下野国でも南に位置する当地を治める小山氏は、動乱を切り抜けるための難しい舵取りを迫られることになりました。
小山氏といえば、歴史に詳しい方であれば「小山義政の乱」を思い浮かべるかもしれません。時代は室町。当時の下野国は宇都宮氏と小山氏がライバル関係にあり、当主の小山義政は鎌倉府が止めるのも聞かずに宇都宮基綱を攻撃して死に至らしめます。これを受けて、鎌倉府は近隣の勢力に命じて小山氏への総攻撃を開始。義政は一度は降伏するものの、再び抵抗して、最後は城を落とされて自害したと伝えられています。
小山氏はこうしたギラギラとした野望を持つ人物を輩出した家柄なのですが、その後は家系断絶の影響や関東の勝ち馬に乗りきれないこともあって、戦国期の小山氏はなかなか勢力を拡大することができなかったようです。
戦国期の小山氏は古河公方と連携して動くことが多かったようで、会場には古河公方とのやり取りに関する文書が展示されていました。私は文書は読めないのですが、そのやり取りの多さに小山氏と古河公方の親密な関係が伝わってくるようです。また、戦国期の小山氏と良好…だったのが最終的に決裂するのですが、結城家の当主結城晴朝の肖像画(茨城県指定文化財)が展示されていました。モチーフとなっている結城晴朝像は、体の大きさの割に顔が小さくて、表情もどこかおかしな感じなのですが、戦国の世を生きた武士らしい無骨な印象を受けます。
さて、戦国期の小山氏は本拠地祗園城を中心に高朝、秀綱親子が生き残りをかけて奔走するのですが、勢力を拡大する後北条氏に圧倒されて敗れます。降伏することで再び祗園城に戻るものの、豊臣秀吉と後北条氏の戦いで、後北条氏サイドに付いたことで没落。子孫は水戸藩に仕えたといいます。
中世の小山義政が持っていた爆発的なエネルギーに比べると、戦国期の小山氏はなかなか勢力が拡大できずに苦戦します。しかし、あるひとつの家が戦国レースにおいて生き残りをかけて戦う姿は、結果的に敗北したとはいえ、どこか私たちに共感を与えてくれます。機会があれば、ぜひ小山氏の拠点であった祗園城跡も見てみたいものです。
小山、に限らず、戦国時代の下野国は各勢力が拮抗するなかで、小田原に本拠を構える後北条氏の動向に左右される状況であったようです。特に下野国でも南に位置する当地を治める小山氏は、動乱を切り抜けるための難しい舵取りを迫られることになりました。
小山氏といえば、歴史に詳しい方であれば「小山義政の乱」を思い浮かべるかもしれません。時代は室町。当時の下野国は宇都宮氏と小山氏がライバル関係にあり、当主の小山義政は鎌倉府が止めるのも聞かずに宇都宮基綱を攻撃して死に至らしめます。これを受けて、鎌倉府は近隣の勢力に命じて小山氏への総攻撃を開始。義政は一度は降伏するものの、再び抵抗して、最後は城を落とされて自害したと伝えられています。
小山氏はこうしたギラギラとした野望を持つ人物を輩出した家柄なのですが、その後は家系断絶の影響や関東の勝ち馬に乗りきれないこともあって、戦国期の小山氏はなかなか勢力を拡大することができなかったようです。
戦国期の小山氏は古河公方と連携して動くことが多かったようで、会場には古河公方とのやり取りに関する文書が展示されていました。私は文書は読めないのですが、そのやり取りの多さに小山氏と古河公方の親密な関係が伝わってくるようです。また、戦国期の小山氏と良好…だったのが最終的に決裂するのですが、結城家の当主結城晴朝の肖像画(茨城県指定文化財)が展示されていました。モチーフとなっている結城晴朝像は、体の大きさの割に顔が小さくて、表情もどこかおかしな感じなのですが、戦国の世を生きた武士らしい無骨な印象を受けます。
さて、戦国期の小山氏は本拠地祗園城を中心に高朝、秀綱親子が生き残りをかけて奔走するのですが、勢力を拡大する後北条氏に圧倒されて敗れます。降伏することで再び祗園城に戻るものの、豊臣秀吉と後北条氏の戦いで、後北条氏サイドに付いたことで没落。子孫は水戸藩に仕えたといいます。
中世の小山義政が持っていた爆発的なエネルギーに比べると、戦国期の小山氏はなかなか勢力が拡大できずに苦戦します。しかし、あるひとつの家が戦国レースにおいて生き残りをかけて戦う姿は、結果的に敗北したとはいえ、どこか私たちに共感を与えてくれます。機会があれば、ぜひ小山氏の拠点であった祗園城跡も見てみたいものです。