学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

『檸檬』の絵画的なイメージ

2014-12-31 12:26:03 | 展覧会感想
 実家のクローゼットから梶井基次郎のアンソロジーが出てきたので、年末の時間を利用して『檸檬』を読んだ。幾度も読んだ小説だが、改めて読み直したら絵画的な小説であることに気づいた。己の錯覚を「想像の絵具を塗りつけてゆく」と書き、花火の色彩、びいどろの色硝子、丸善に並ぶ壜の品々、果物屋の電燈、アングルの画集…特に山積みにした画集とてっぺんに乗せた檸檬の構図はまさに静物画である。そして、もし主人公が望むように、画集の上の檸檬が爆発したら、空に紙片の花火が舞い上がり、さぞかし華やかになるだろう、と読者は想像する。筆と絵筆が交錯するような小説だ。
 梶井が友人たちへ寄せた手紙の中身を読むと、絵画への関心が高かったことがわかる。国府津駅周辺の車中から見えた梨畑からピサロを思い浮かべ、独逸版画展覧会でデューラーらの作品を見、シャガールへの言及もある。また、梶井自身もデッサンを試み、「小説をかく苦心などよりももっと甘い楽しい苦心だ」と述べている。さらに巻末の年譜には、梶井がセザンヌをもじった筆名「瀬山極」も用いていたことが記されている。(セザンヌの静物画にはリンゴが描かれることが多いが、ときどき檸檬があったことも思い出す)ふれられているのはヨーロッパの作家ばかりだが、彼はなかなかの絵画好きであった。
 この絵画好きの性分が良く出ているところが檸檬の「レモンエロウ」である。レモンイエローは目立つが、レッドほど主張が激しくなく、画面を澄んだ調子に整える作用がある。この澄んだ調子を、梶井は「カーン」という言葉で表現した。色の性質を、ここまでうまい言葉で表現した小説家は他にいるだろうか。少なくとも私は知らない。
 今年最後の1日、とても楽しい小説の読み方ができた。

●「梶井基次郎 ちくま日本文学」筑摩書房 2008年

今年1年間をふりかえって

2014-12-30 10:45:04 | その他
今年も残すところ、あと2日となりました。先日から実家に帰省して、のんびりとした時間を過ごしています。

ふりかえれば、変化の多い1年でした。職場は変わり、住居の環境も変わり、体調も変わり(悪い方に…)。特に体調の変化は非常に厄介で、1年間、体調と相談しながらの日常は苦痛そのもの。具体的には原因不明のフラフラ感と眩暈です。いつも、この症状が起こるわけではなく、日常で突然やってくるから困りもの。特にモノを凝視したり、白い壁などを見ていると誘発されやすいらしく、博物館や美術館で資料や作品を見るのがつらくて、せっかく土日が休みの環境になっても、あまり足を運べなくなったのはつらい限り。異常を病院で診てもらいましたが、人間ドックでは異常なし、その後は脳外科、耳鼻科、心療内科まで行っても、異常なし。健康体そのものとの診断でした。原因不明というのは、どうも不気味で嫌なものですね。仕様がないので、症状が起こっても死にはしないと思うようにして、あまり症状にとらわれることがないように心に言い聞かせることで1年間を乗り切りました。

このように体調面では不安を抱える生活だったのですが、悲観的なことばかりでもありませんでした。新しい職場では古文書の歴史分野や自然分野の仕事に関わることができ、美術とはまた違う学問の広さを改めて思い知ったこと。体調面での不安から、これまであまり考えてこなかった宗教の本を読み漁ったり、神社仏閣、仏像彫刻に興味を持つことができたこと。弘前でお城を見たり、草津温泉に入ってきたり、横浜トリエンナーレで現代美術を思う存分堪能してきたり…。(ここまで書いて来て、体調が悪いわりには、結構出かけてたことに自分で驚かされる)

何はともあれ、今年も恵まれた1年だったのだと思います。さて、来年はどんな年になりますやら、とても楽しみです。

オチのあるはなし

2014-12-24 19:55:54 | 読書感想
初めに申しあげておきますと、今日のブログの文章にオチがあるのではありません(笑)

オチのある話は痛快です。例えば落語。私はそれほど落語を見聞するわけではありませんが、あっと驚くオチの上手さには思わずうなります。さて、文章ではどうか。

私がベッドで眠る前に読んでいる本。それは薄田泣菫の『茶話』です。薄田泣菫といえば詩集『白羊宮』が著名なのだそうですが、私は読んだことはありません。薄田泣菫は、人生の前半を詩人として、後半はコラムニストとして仕事をこなしました。私が知っているのは、後半の人生のみで、それが『茶話』なのです。

『茶話』は新聞紙上で掲載された小話で、紙上というからには短文。その限られた行を使って、日本から欧米まで古今東西の著名な人物たちの隠れたエピソードを紹介して、そこから得られる教訓めいた薄田泣菫のオチが付くという話。岩波文庫の『茶話』には、ぜんぶで154編の物語がつめられています。どのエピソードもとても面白く、薄田泣菫の人間に対する温かいまなざしが感じられますし、人生をこよなく愛していたことがうかがい知れます。

昨今の新聞のコラム、ときどき面白いものがあるけれど、そうそうぶつからない。昨年だったか、今年だったか、日経新聞に作家の片岡義男さんがコラムを掲載していましたが、さすがに文章のプロだけあって、楽しみにしていた覚えがあります。

さて、実は岩波文庫版の『茶話』。薄田泣菫の短文もさることながら、坪内祐三さんの筆による解説もすこぶる面白い。岩波文庫の解説なのに違う文庫の心配話や、岩波の編集に対して『茶話』の話のセレクトや登場人物のイニシャルに注文をつけるなど、ざっくばらんな解説は痛快です。こんな面白い文庫の解説はそうそうないでしょう。2つの楽しみがある珍しい書籍です(笑)

今宵はクリスマス…、特にどうとしたこともない私の読書感想でした。

泉鏡花の紀行文

2014-12-22 19:20:23 | 読書感想
先日から泉鏡花の『鏡花紀行文集』(岩波文庫)を少しずつ読んでいます。近年、泉鏡花の復刊がやたら多いですね。泉鏡花は随分前に『高野聖』を読んで以来。紀行文は好きなので、さて読んでみようと思ったら、思うように前に進まない。文語体、というのか、文体がなかなかに厄介。すらすらとは読ませてくれず、何を言っているのかわからないところさえある…(笑)

もっとも初めの紀行文は、ちょうど今ぐらいの年の瀬の神奈川県の小田原。小田原は私も行ったことがあるので、なんとなく親しみがわきます。年の暮れの馬の鈴の音、笛の音、神社のすす払いなどが描写されていて、気ぜわしい街の様子が伝わってきます。前述したように泉鏡花の文語体はなかなか厄介ではあるのですが、そのぶん一文字一文字丁寧に読めますので、ゆっくり読書を楽しみにはちょうどいいのかもしれません。

紀行文の地図を見て思ったのは、鏡花は結構旅行に出ているんだなあということ。神経質だったという鏡花。あまり東京から動かないイメージがありましたが、東は青森、西は京都付近まで足を運んでいるようです。新しい発見でした。

寒い夜は読書に限る。今日もこたつに入って、読書を楽しむことにします。

夢の中の出来事

2014-12-21 20:29:32 | その他
謎めいた夢を見ました。

舞台は終末。環境破壊が進んで、地球には人が住めなくなった。私と友人(夢では友人なのですが、一向に知らない男性です)は飛行機の最後尾に乗って、どこかへ飛び立つ準備をしています。窓から見えるのは、木がほとんどなくなった山の連なり、そして広い湖。湖面には大きな木製の舟が一隻あって、そこに男性が一人でさびしそうに乗っていました。

いざ、飛行機が出発。しかし、その飛行機は空高く飛んだと思ったら、突然滑空して地面スレスレにしか飛びません。街の中を飛行機が行く。街の中はすっかり荒廃してしまっていて、商店や病院などの窓ガラスが割れ、とても人が住んでいる様子はありませんでした。

そんな街中に飛行機は着陸。私と友人が下りると、背後に人の気配がする。ふりかえると、それは人ではなく、かつて人だった…つまり、死人たち。彼らは私たちに襲い掛かる。ところが、私たちは不思議な力を持っていて、死人たちを殴ったり、蹴ったりすると、彼らは氷のように溶けていくのです。荒木飛呂彦さんの漫画『ジョジョの奇妙な冒険』の波紋疾走(オーバードライヴ)のようなイメージで。

私たちは、とあるビルを目指して走る。途中、やはり不思議な力を持つ男性2人が仲間になって、ビルに突入。その最上階まで来ると、ようやく生きた人間に出会います。そこの女性から、この先へ行けば、我々は助かるといい、ある扉を指さします。私が扉を開けると、どうも不思議な世界が広がっているのです。女性は「厳島神社」、と一言述べました。

扉の向こうは雲一つない真っ青な空。太陽はないけれど、とても明るい。そして遥かなる地平線。地面は茶色い土ではなく、透き通るような白さでした。地面に唯一、経っているのは赤い鳥居。そこに向かって蟻のように一列になって女子高生が歩いている。(女子高生は明らかに遠い過去の人たちでした)

私は何とも奇妙で不思議な光景を目の当たりにし、足を踏み入れようか踏み入れまいか迷っているうちに目が覚めました。

何とも不思議な夢でした。友人に話をしたら、そのまま扉の向こうに行っていたら、現実世界であの世にいってしまってたんじゃないかと(笑)「厳島神社」に私は呼ばれたのでしょうか。どうも鮮明に残る夢の話でした。

銀の刷り

2014-12-13 20:24:25 | 展覧会感想
先日、栃木県は栃木市にある「とちぎ蔵の街美術館」で「歌麿と栃木」展を見てきました。歌麿、とは、もちろん江戸時代の浮世絵師喜多川歌麿のこと。歌麿は、栃木市の豪商善野家とつながりを持っていて、ときおり栃木市に訪れていたそうです。この展覧会の目玉は、パンフレットの表紙にもなっている歌麿の肉筆浮世絵《女達磨図》でしょう。達磨の赤い法衣を女性が身にまとう、ちょっと不思議な絵です。この《女達磨図》については、また後日ご紹介します。

さて、《女達磨図》もいいなあと思いましたが、なかなかどうして岳亭春信の《枋木連十番の内 傾城見立列仙伝》シリーズの4、5点もよかった。女性の着物のデザインがとてもモダン。何より、少し角度を変えると銀で刷った花や扇の模様が輝いてくる。銀、という色は好きです。金色ほどにぎらぎらした感じがなく、上品にまとまる感じがします。そういえば、酒井抱一の『夏秋草図屏風』の銀も美しいですね。

今年も年末。そろそろ木版画で年賀状を作ろうかと思案していたところですが、思案してばかりで未だ作らず。年賀状は銀を活かしたもので作ってみようかな、と思いつつある今日この頃です。

霧からはじまる

2014-12-11 21:52:01 | その他
霧の街、といえばロンドンですが、残念ながらロンドンのことを書くにはあらず。今宵、私の住む街は濃い霧で覆われているのです。今年はどうも霧が多い。理由はわからないけれど、日中と夜の気温差が関係しているのかもしれません。

私は車で通勤しているのですが、駐車場は戦国時代の古城跡。しかも、取ったり取られたりしたお城なので、当然のことながら戦で命を失った武士たちがいるわけで…。そこは夜になると明かりがほとんどなくて、すこぶる怖いのです。今宵は濃霧のせいで格別の怖さ。勘弁してもらいたいものです。

幽霊、あるいは妖怪といえば、漫画家の水木しげるさん。私は子供のころから水木さんの漫画が好きでよく読んでいたのですが、最近もまた夢中になっています。特に南方熊楠の生涯を描いた『猫楠』、世界中の奇人をセレクトした『神秘家列伝』シリーズなど、人間にスポットを当てた作品を読んでいます。水木さんの世界観は、不思議で、不気味で、どこか愛らしい。何度読んでも飽きません。

今夜のような霧の夜には水木さんの漫画はぴったりかもしれませんね。霧に包まれた街のなかで、今夜は水木さんの漫画を読みながら寝ることにいたしましょう。

古文書を取り扱う

2014-12-10 21:38:52 | 仕事
時節は師走。今年の日数も残りわずかになってきました。時が流れるのは早いものです。

今年は新しい職場に変わって、多種多様なジャンルの仕事に携わっています。春は美術、夏は自然(昆虫、植物、鳥類など)、秋は内規作成、そして今は古文書です。

私、古文書はまったくの素人です。せいぜい、大学時代に古文書学を受講したくらい。しかし、大学を卒業して数十年、時が経つというのは残酷なことで、その間に講義で教わったことはすっかり忘れてしまいました。ひとつ覚えていることは、古文書の折り方を実際にやってみる授業があって、私はうまく折ることができず、先生に「君は不器用だな」と言われたことくらいでしょうか。…人間はどうでもいいことは覚えているものですね。

古文書は絵画と似ている、なぜなら、そこに書き手(描き手)の息遣いが感じられるから。字なのか絵なのかの違いだけで、相手に何かを伝えたい想いは変わらないのではないかな、と古文書を目の当たりにしたときに感じました。

さて、ここ数か月、私は古文書所有者への聞き取り調査を行っています。緊張はするけれど、所有者の方々から様々な話をお伺いすることができます。古文書の話はもちろん、その家に代々言い伝えられている話、所有者の方が幼かったころの街の様子(所有者は高齢の方が多いのです)など、生の歴史とふれあっている気持ちがします。それは仕事でありながら、私にとってはとても楽しい時間です。美術館にいたときは、その世界にどっぷりと浸かっていたわけですが、一度そこから離れてみると、世の中はもっともっと広いことに気付きました。

久しぶりにブログを書いたせいか、文章がなかなかつながらず、いつにもまして脈略のない近況報告となりました。前述しましたように、寒い日が続いています。みなさま、お風邪など召されませんようお気を付けください。