学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

夏も終わり

2008-08-26 21:03:31 | その他
そろそろ8月も終わりですね。とても暑いと思いきや、ここ数日は涼しい…寒い日もあり、あの蒸し暑さはもう戻っては来ないようです。

今は夜。窓を開けると、虫の音が聞こえてきます。何時の間に鳴き始めたのでしょう。

美術館では博物館実習生の受け入れが終わり、やや落ち着きを取り戻した調子。ただ、私だけは次回展示の準備でバタバタとしている毎日です。

今日はちょっと眠くてこれ以上筆が進まず。

ではまた明日お会いしましょう。…ブログで何を言いたいのかわかりませんでしたね(苦笑)

祖父

2008-08-24 08:47:51 | その他
電車から降りると、空にはぼんやり満月が燈っていた。祖父は満月の夜に亡くなった。89歳の誕生日の夜だった。

祖父はとにかく穏やかで優しい人であった。仕事に対しても真面目だった。

「古い写真が見つかったから」といとこは私をテーブルに呼んだ。小さな箱にセピア色の写真が乱雑に詰め込まれていた。祖父の若い頃をほとんど知らない私は、写真に祖父の歩みを見ようとして、一枚一枚熱心にめくっていった。

最も古い写真は軍服をまとった祖父の姿だった。軍服の威厳のわりに、幼い表情がどこかおかしかった。

祖父は若い時分、東京で秘書をしていたという。秘書時代の頃を知る人は、もう誰も居ない。祖父もあまり話をしたがらなかった。父が、私の曽祖父に当たる人が早く亡くなったために、実家に急遽呼び戻された。祖父は本意ではなかったらしい。けれども、長男である祖父に他の選択肢はなかった。祖父は農家を継ぐと、米だけでなく、りんごやさくらんぼの栽培を始めた。また、秘書時代の習慣からか、毎日日記をつけていた。農業は本意ではなかったが、それでやけになる人ではなかったようだ。

祖父が亡くなった、今はその悲しみを通り越して、感謝の心持で一杯である。私の父方も母方の祖父母も長寿で、これまでずっと健在であった。けれど、初めてそのうちの祖父を亡くした今、私のなかで、いわゆるひとつの時代が終わった気がする。これからは祖父との想いを胸にしっかりと生きていきたいと思うし、生きるべきだと思った…。

萩原朔太郎『秋と漫歩』

2008-08-18 09:51:01 | 読書感想
私が大学生の時分、「この教室の窓から」というタイトルで随筆を書けと試験問題が出た。講義のメモをしっかりと頭に叩き込んでいた私は、やや面食らった覚えがある。その頃はあまり読書もしていなかったから、私は随分適当に答案用紙を書いた気がする。

皆さんは四季を通じて、最も好きな季節はいつだろうか。私は夏が好きである。しかし、私が夏を好きな理由をここに書いてもしょうがない。主役は萩原である。萩原は散歩に適する秋が好きだという。なぜか。私なぞは紅葉を見たり、虫の音が美しいためかと思ってしまうが、萩原はそうではない。歩きながら、瞑想にふけり、停車場のベンチに腰掛けて人間観察をするためである。当然のことだが、小説家にしろ、詩人にしろ家に閉じこもり、机に向かって創造してばかりいると思ったら大間違いなわけである。そんなことをしていれば、でたらめで、生活のない文章になるに決まっている。

この姿勢は学芸員にも言えることだろう。私のように家に閉じこもっていては何も書けないし、ひらめきもしない。今日はどの美術館も閉まっている。けれどもギャラリーの門は開いている。これからグループ展を見に出かけよう。先日、私の夏も終わったことであるし。

長重之《破局》

2008-08-17 17:50:09 | 展覧会感想
うすい灰色の空は私の心持であり、雨は涙に、煉瓦に落ちた雫は血に見える。心境の変化によって、物の見方も変化する。人間は、良くも悪くも。

栃木県立美術館の「長重之展 時空へのパッセージ」を見た。しかし、私はいつの間にか長の絵に死神の影を探していた。そうして《破局》の前に立ち止まった。天井から見下げる構図。画面全体は黒で覆われ、極めて暗い。椅子に腰掛けた男性が朱色のテーブルに手を伸ばしている。テーブルには頭くらいの大きさの拳銃がある。銃口は男性とは逆方向に向けられている。男は拳銃で何をしようというのだろう。自らを撃つのか、それとも彼女を撃つのか。それとも私自身を撃とうとしているのか。キャプションのタイトル下に小さく「The end」と英文表示がされていた。「end」はいい。もう先がないという結論が保障されているのだから。

静かに美術館を出る。雨音が一層増している。私は独り歩き出した。あるべきはずの苦味を感じながら。

芥川龍之介『海のほとり』

2008-08-16 08:32:20 | 読書感想
夏もお盆を過ぎるといささか秋の気配を感じる。うだるような暑さは相変わらず続くものの、蝉の鳴き声がしだいに静まり、木々の葉も次第に茶を帯びてくる。季節の変わり目に哀愁を感じるのは、私だけではあるまい。

『海のほとり』は過ぎ行く夏への哀愁を滲ませる。弘法麦、海水浴、幽霊話、そうして夏の別れ。哀愁の感じ方は人それぞれ異なるものだが、芥川のそれはあくまで淡々としている。が、いわゆる自然の美をことさら強調したものでもない。人の存在を絡めてくる。独りではなく、「僕」を何人かと絡ませ、最後に人との別れを描写することで一層哀愁感を引き出している。我々は人との別れほど哀愁を感じるものはないのだから。

今日は夏の終わりに、栃木県の鬼怒川へでも湯治に出かけようかと思う。無論、私独りではない。友人とともにである。彼との別れが、私にとって夏の哀愁となるだろう。

関根正二《自画像》

2008-08-15 21:38:16 | 展覧会感想
先日、福島県立美術館で関根正二の《自画像》を見た。まだ幼さの残る関根正二20歳の自画像である。

私は絵に食い入るように見ていた。私の背後を何人かが素通りしていく気配を感じた。私が鑑賞の妨げになっていたからか、あるいはこの男の肖像には興味がないのか、それとも?

画面全体は深い苔のような緑に包まれている。下方にやや赤みがある。関根の顔は左を向きながら、視線は右にずらし、それはまるで鑑賞者との対話をこばむかのようである。画面は重苦しい雰囲気に包まれている。

私の勤務する美術館では、ある作家の21歳時の自画像を展示している。全体を黄土色で塗りたてて、若さと自信、自負にあふれた力強い表情からは輝かしい未来を感じる。

だが、一方の関根には未来がない。魂が朽ちようとしている。生への渇望というものでもない、ただあるがままに魂が朽ちようとしているのだ。私は関根の姿にどうにもならぬ人の世のはかなさをひしひしと感じた。

休みはあっという間

2008-08-12 19:36:47 | その他
実家から無事戻ってきました。連休ではあったのですが、休みはあっという間ですね。時間が経つのは早いものです。

アパートに戻ってくると、すさまじい暑さ。実家のほうは、随分と秋めいていたものですが、こちらはまだまだ夏本番のよう。この暑さだけはいかんともしがたし。

部屋の中でぼんやりしていると、眠気に誘われてついついうとうと。眠ると、あっという間に仕事ですものね。今日の一日は大事にしたい…。

これから…大事にするとは言ったものの、何をするあてもなく、ただやはりぼんやりとしたいと思います(笑)しょうのない自分です。

明日からまた仕事。頑張ります。

古書めぐり

2008-08-11 20:58:20 | その他
連休は2日目。

今日の午前中は古本めぐり。ぶらぶらと仙台の街なかを歩いて、懐かしい雰囲気を楽しむ。やはり故郷は良いものです。自分の知らないうちに、街並みは変わっていくけれど、それはしょうのないこと。そう最近割り切れるようになりました。

古本は中勘助『蜜蜂』と倉田百三『父の心配』を購入しました。これから早速読んでみたいと思います。

お昼まで古写真めぐり。私は明治や大正期の洋館が好きなので、そんな古い絵葉書を買ってきました。旧岩手県庁、水沢緯度観測所、北海道庁などなど。

短いようで充実した一日。

明日は早くも戻らねばなりません。今日は最後の夜をのんびりすごしたいと思います。

小高城

2008-08-10 21:09:34 | その他
近頃、バタバタしてしまっていて、更新が出来ませんでした。

実は今日から3連休です。久しぶりに実家へ帰ってきました。

帰ってくる途中に福島県白河市の小高城へ行ってきました。


小高の城は若くて美しい。どこか可憐な気がする。

アブラゼミが鳴いている。セミの鳴き声は郷愁を誘う。城には、桜よりもセミのほうが似合う。

もうしわだらけになって、ところどころ茶色に変色したあじさいがあった。一ヶ月前にはきれいな白と桃色だったのだろう。どこか悲しい色に見えた。

本丸御殿跡から南をのぞむ。下の公園でキャッチボールやバトミントンで楽しむ家族連れの姿がある。もうここには昔日の侍たちはいない。けれど、平和がある。平和はいいことだ。

帰り際、植え込みにいくつかのくもの巣が張ってあるのを見かけた。きれいなものだ。霜のようにも見える。

思いつるままに、筆ですらすらと書いてみた次第です。

花火

2008-08-06 20:19:52 | その他
こう暑くては、頭がぼんやりして、ブログの短い文章でさえも、なかなか書くのが大変です。この湿気はどうにかならないものか…。

ブログに向かっていると、戸外から花火の音が聞こえてきます。近くの河原で、誰かが花火をやっているよう。わいわいと騒ぐ声が聞こえます。子供たちも夏休みですし、家族で楽しんでいるのかもしれません。

「花火」の言葉が出てきたので、私の記憶に残る「花火」の思い出はないかと、ちょっと考えてみましたが、さほど「花火」にまつわる思い出などなし。

子供の頃は、祖父母の家へ行って、近くの河原で花火をしたものでした。河原にはホタルがたくさんいて、それはもう綺麗でした。あの幻想的な風景も今はなく、全てが住宅地に変わり果て、趣はなにもなし。

中学生の時分は、夜中遅くまで花火をしていて、近所の人に注意された覚えあり。そんなに怒らなくてもいいじゃないかというほど怒鳴られたり。仲間の誰も時計を持っていなくて、家に戻ったら12時すぎ。それは怒られるわけだと妙に納得してみたり。

大学の時分は、サークルのみんなで草草が手入れされていない公園で花火。恐れていた通り、蚊に襲撃にあいて、散々な目にあいました。

思えば、あのとき以来、花火はやっていない気がします。思えば、ちょっとさびしいことです。そうだといって、独りで花火をするのも余計にさびしいので、もうしばらく花火をすることはなさそうです。

今日は筆が進まぬといいながら「花火」の話になりましたね。