学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

涼しげな夜

2007-07-31 21:25:53 | Weblog
最近、夜になると随分涼しくなりませんか?日中はひどく暑いのに、夜も9時を過ぎると、ひんやりとした風が吹き抜けます。熱帯夜とはおさらば・・・になって欲しいけれど。

夏の夜といえば、何を想像するでしょう。私は蛍ですね。残念ながら、私の住むところには蛍は居ませんけれど、少し山の中に入ると、せせらぎの中にほんのりと明るい光を観る事が出来ます。あの幻想的な姿に思わず酔ってしまいますね。

夏休み、山形の祖父母の家へ遊びに行くと、いつも蛍に会うことが出来ました。おぼろげな記憶ですから、あまりあてにもなりませんが、随分沢山居たような気がします。私は虫かごを片手に、草に止まった蛍を捕まえて、かごの中に入れてゆくのでした。でも、なぜか蛍は次の日まで生きることはなく、すぐに死んでしまうのです。こんなに綺麗なのに、どうしてすぐに死んでしまうのか。少し疑問に思ったこともありました。

私が中学生になったころ、もう祖父母の家には蛍が居なくなってしまいました。開発によって、あれほどたくさん居た蛍はどこかへ消えていってしまったのです。今まであったものが無くなってしまうときほど、悲しいものはありません。以来、蛍を見ると、私は祖父母の実家を思い出すのです。

そんな夏の蛍の小話。
明日も晴れると良いですね。
そして夜も涼しいと、なおさら良いですね。

コナン・ドイル「ウィステリア荘」を読む

2007-07-30 22:25:23 | Weblog
今日は朝からずっと雨。そして、お昼頃から急速に雨音が強くなり、前日に引き続き滝の如き強雨。加えて、雷鳴がすさまじく轟きて、もううんざり。午後2時くらいから眠気を催し、少し横になったら、すっかり寝入ってしまって、時すでに午後6時。雨もいつの間にか止んでおり、ヒグラシゼミが鳴いていました。ヒグラシゼミの声を聞くと、夏の夕暮れ時であることを実感します。

さて、名探偵といえば、いわずと知れたシャーロック・ホームズ。私が小学校の時分、NHK海外ドラマで今は亡きジェレミー・ブレット演ずるシャーロック・ホームズの冒険が放送されており、それを見てから、ホームズがとても好きになりました。今日は、『シャーロック・ホームズ 最後の挨拶』の「ウィステリア荘」を読みました。

「ウィステリア荘」、ホームズシリーズではどのような位置づけになるのかは存じませんが、少なくとも有名な作品ではないでしょう。シャーロック・ホームズのもとを、ある男性が訪れます。誰が見ても、あわてて出てきた御様子。彼は自分が体験したあまりにも不思議な事件を語りだします。ホームズは、早速ワトソン君と事件の調査に着手。殺された主人、居なくなった使用人、そして謎の暗号。事件の背後には、すさまじいほどの復讐劇が・・・。

ちょっと気味の悪い描写も出てきますが、これも事件を謎めいたものとして強調させます。また、ホームズの推理も面白いのですが、ホームズと別の路線で調査をするベインズ警部にも注目。スコットランドヤードのレストレイド警部とは、一味違った人物。それはラストシーンのお楽しみ。

シャーロック・ホームズのシリーズの面白さは、まず作品タイトルの付け方が上手い点にあるでしょう。「技師の親指事件」、「ノーウッドの建築業者」、「まだらのひも」、「恐怖の谷」など、なんとも不思議で、どんな事件なのか読みたくなります。また、依頼人が持ち込む、一見何気ない事件が、大事件につながることも多いのが特徴。「赤毛連盟」はその最たるものといえるでしょう。そのほか、ホームズとワトソンのやり取り、ホームズの哲学的な意見など、沢山の魅力はあるのですが、とても書ききれないので、この辺りにしておきます。子供から大人まで楽しめるミステリー小説。ホームズシリーズは、今後も永遠に支持されてゆくことでしょう。


雨と選挙と疲労

2007-07-29 20:07:18 | Weblog
戸外は滝のような雨。東京23区では、大雨洪水警報も出された模様である。窓を開けてテレビを見ても、雨音が強くて音声が全く聞こえない。そうかといって、窓を閉めると今度は暑くてしょうがない。前にも進まぬし、後にも引けぬ。だから、テレビを消すことにした。

今日は開票所の設置業務に追われた。蒸し暑い体育館の床に、傷防止のロールを引いてゆく。その後、机を設置したり、投票用紙のボックスを作ったりして・・・言葉で書くと大して忙しくもなさそうであるが、実際は忙しい。私はとにかく走り回って、作業に従事した。額から汗が流れて、目に入る。汗が目に入ると、ものすごくしみる。少し痛いがしょうがない。

もう今日は選挙結果を見届ける体力はない。
大雨警報が発令中なので、万が一のために少し仮眠をします。


暗い瞳の自画像

2007-07-28 21:04:35 | Weblog
今日は少し早めの朝ご飯を食した後、飽きもせず読書に耽っていました。午前中、殊に朝は頭が一番冴えているから、本の中身がよく理解できます。

その後、当市で開かれている美術協会の展覧会を見に出かけました。中学生からベテランの作家さんまで、数多くの作品が陳列されていましたが、なかでも準大賞を受賞した高校一年生の作品が圧巻。背景は、レンブラント並の暗さ。画面中央に、自画像が描かれています。そのうつろな目が・・・。高校生が悩むことと言いましたら、進路、恋愛、友人関係と思い浮かびますが、それよりももっと深い「人生」について苦悩しているようにさえ見えました。

帰宅した後、再び読書に耽りましたが、とにかく暑い!私はクーラーをかけませんので、自然の風と団扇の頼りない風で頑張っていましたが、しだいに眠気を催し、ついに昼寝に至りました。怠惰な私・・・。

明日は注目の参議院選挙ですね。私も開票所設置作業などで、臨時ではあるものの、選挙の手伝いです。

それではまた明日!!

夏雑感

2007-07-27 20:14:01 | Weblog
昨日は体調不良もいいところ。肝心なときに限って、持病の頭痛に苦しめられます。右目の奥がえぐられるように痛くて、それがこめかみに波動するのです(泣)一昨日のブログにも書きましたとおり、午前中は現職教育で作品鑑賞の講義に行きましたが、きちんと話をする以前に頭痛が酷くてたまらず、出来としては60点。せっかくの貴重な場であったのに、残念でなりません。社会人になると、自己管理(二日酔いで頭痛がしたわけではないのですが)も問われますから、頭痛の予感がしたら早めに薬を処方しておくべきでした。午後に幾分良くなりましたが、こんなときに限って、出勤している学芸員は私一人。午後もバタバタして、昨日は疲れと大事をとってすぐに寝てしまいました。

今日は、朝から多くの中学生、高校生が美術館に来てくれました。今は夏休みですものね。学生たちの姿を見ると、心なしか、街の雰囲気も緩やかな気がしてきます。夕方の涼しい時間になると、親子連れが河原を散歩する姿もよく見かけ、大変ほほえましい様子です。これから当市では、夏祭りがありますから(私もほぼ強制的に盆踊りに参加です・・・)子供たちにとっては、楽しみな日々が続きますね。

明日、私は休みとなります。特にさしたる用事もなし。部屋の掃除なり、読書なりして過ごそうかと思っています。久し振りにまたブログに読書感想でも記載するかもしれません。少し早いですが、ゆっくり休ませていただきます。

私の読書術

2007-07-25 20:52:58 | Weblog
今日はいよいよ現職教育の日。前に申し上げていた通り、鑑賞教育の指導のため、小学校へ伺いました。講師の先生による実技指導のあと、いよいよ私の出番。とても緊張しました。同じ人前で話しをするギャラリートークは大得意ですが、やはり講義となると要素が違いますね。段取りを組んできた内容は全てこなせましたが、上手に行ったのかどうか・・・。なんと明日も現職教育で鑑賞指導。人間が日々成長を続けるのなら、今日よりも明日の方がうまくいく!ことになるのですが、いやはや。何はともあれ、明日もベストを尽くして頑張って来たいと思います。

さて、ここ数日は読書感想を載せていましたが、今日はちょっとお休み。でも、ただお休みでは、せっかくブログを見てくださった方に申し訳なく思うので、本にちなんで私の読書術についてお話をしたいと思います。

読書術は人によりけりですが、私の場合は、いわゆる速読はしません。速読をすると、なんだか新幹線に乗って景色を眺めているようで、感動が味わいにくいためです。ですから、ゆっくりと、味わいながら読みます。

また、私はカバーをはずして読みます。これはくせです。大学時代の先輩が、カバーをはずして本を読んでいるのを見てから、自分もなぜかカバーをはずすようになりました。これは別に読書術でもなんでもありません。

上記の2点は、別段たいしたことではありません。たいしたことがあるのは、これからで、実は私、7冊を同時進行で読み進めていくという方法で読んでいるのです。まず、この7冊の内訳を書くと哲学、日本文学、海外文学、詩または戯曲、哲学(復習)、日本文学(復習)、海外文学(復習)、啓蒙の本(主にスマイルズの「自助論」や新渡戸稲造「武士道」など)です。本を読むからには、なるべく知識の偏りがあるのは良くないと思ったので、わざわざ日本文学や海外文学に分けたほか、一度読んだ本をさらに味わい尽くすべく、過去に読んだ本を2冊選んで読んでいます。一冊の本にどっぷりつかると、読書に息切れが生じてきます。ですから、自分なりの読むページ数を決めておいて、そこに到達したら、次の本に着手するというやり方で読み進めているのです。この方法、良いのか悪いのかわかりませんが、飽きっぽい性格の私にはかなり合っています。

本を読んでおしまい、ではあまりにも寂しい。そこで、本を読み終えたあとは必ず考えてみることを欠かさないようにしています。やはり考えてこそ、自分の知識になるような気がします。考えることは何だっていいのだと思います。物事を考えることは、人間に与えられた特権ですから、それを充分に活かさねばしょうがないですよね。

以上、何の脈絡もない、私の読書術でした。読書術でも何でもなかったですね(笑)読書は、少しの余暇でも楽しめるものですし、知識?も付きます。読書の苦手な方も、どんな薄い本でも良いですから少しずつ読んで見るとよいですよ!

芥川龍之介「歯車」を読む

2007-07-24 21:21:47 | Weblog
今朝は、少し肌寒くて目が覚めました。天気は上々ですが、川に沿って流れてくるやや冷たい風が、私の部屋の中を占めていました。なんだか、どうも七月の朝とは思われない快適な朝から今日はスタート。午前中は書類整理、午後は展示作業に追われました。広い会場を使っての特別展示ですので、大変な作業でした。パネルを出して、壁面に糸を張って(作品の高さを均等に展示するためです)、作品を配置して、常に走り回って・・・。何とか頑張ったかいがあり、ほぼ展示が完了して、明日ライティング(照明調整)を残すのみとなりました。よかった!

さて、7月24日は芥川龍之介の命日です。一応、私の弟の誕生日でもあるのですが、それはこの際どうでもよろしい。彼(芥川)がこの世を去って、ちょうど今年は80年。まだ80年か、それとも、もう80年か。私は「まだ80年」であるような気がします。

今日は、芥川最晩年の作品「歯車」を読みました。正しく申せば再読です。精神的に追い詰められてゆく芥川。ときどき右目の奥に現れる「半透明な歯車」に悩まされます。文中の至るところに張り巡らされた「死」の影。死神を想像させる「レエン・コオト」、死体を印象させる「小さい蛆(うじ)」、警告の意か「赤光(しゃっこう)」など・・・。まるで遺書を読んでいるかのような文章が続いていきます。

私は、これまで様々な本を読んできましたが、この「歯車」ほど、背筋が凍るような、それでいて、不気味な魅力すら感じさせる本に出合ったことはありません。私が「歯車」に出会ったのは、就職して2年目。毎日の仕事が忙しくて、心身ともに疲労度が高く、私は神経症になりかけていました。毎日がつらい、けれど、それは言葉にはならない苦しみだったのです。そんなとき、ふとしたきっかけで「歯車」を読みました。私の言葉にならない苦しみは、芥川が全て代弁してくれている・・・。(同じく太宰治「人間失格」を読みましたが、同じ気分にはなりませんでした)以来、私のカバンやポケットには常に「歯車」が入っており、暇さえあれば(もちろん仕事中は読みませんけれど)読み直しました。私にとって、そんなつらい時期の思い出の一冊なのです。

私は、芥川が亡くなって「まだ80年」と述べました。私個人として、上記のような経緯があるので、遠い昔の作家というイメージがありません。まだ80年しか経っていないのか、の意識です。現在、日本では年間約3万人の自殺者がいるそうです。なかには「ぼんやりとした不安」などで自殺する若者も少なくないとか。そういう面からみても、没後80年を経た今日も芥川が生きているような気がしてきませんか。(もちろん、芥川の自殺と近年の若者の自殺の関係に就いてはもっと熟考せねばならないとは思いますが)

ちなみに、最近芥川龍之介の次男多加志(たかし)についての本が出版されたようです。最も父の文才を受け継いだとされ、そして若くして戦死した多加志。これまであまり文章に書かれてこなかった人物ですが、私も時間があれば、この本を読んでみたいと思っています。

夏目漱石「三四郎」を読む

2007-07-23 19:16:31 | Weblog
今日は休日です。戸外は、朝からどんより曇り空。梅雨の時期だからしょうがないとはいえ、あまり気分のいいものではありませんよね。そのうえ、少し霧雨も降っていました。部屋の中にいると、なんだか陰鬱になりそうだったので、駅ビルへ出かけました。土曜日曜はにぎやかなデパートも、平日となるといささか閑散。にぎやかなところが苦手な私は、デパートの気も知らずに、すこし気が楽。書店へ行ったり、ラーメンを食べたりして、のんびりと過ごすことができました。

さて、ここのところは随分読書三昧が続きます。今日は、夏目漱石「三四郎」です。本当は「草枕」を読みたかったのですが、お気に入りのブックカバーとともにどこかへ紛失したので、「草枕」をとばして「三四郎」です。こんな理由で読まれた「三四郎」が気の毒ですけれども。

「三四郎」の主人公小川三四郎は、大学入学のため熊本から上京してきます。異郷の地、東京で出会った人々との関わりが、多感な青年期である三四郎の心に大きく響いてきます。繰り広げられる学問と恋の世界。特に三四郎が思いを寄せる美禰子の口から洩れる「迷える子」(ストレイシープ)が、なんとも意味深な言葉で、三四郎だけでなく、読者をも戸惑わせます。そして、同時にこの美禰子という女性の心に探りを入れてみたくなる、ところが、探ってみたところが何だかまるでわからない。一青年の青春物語に終わらない、なんとも妙な味の深さが、この本にはあるようです。

このブログを読んでくださっている方は、おそらく私が「迷える子」の意味に就いてどう解釈するかを臨んでいることと思います。結論から申し上げると、どうにもよくわかりません。この言葉は、具合の悪くなった美禰子を三四郎が河原まで連れて行き、みんなが心配しているから帰りましょうと言った時に、彼女がつぶやいた言葉です。単純に考えると「私たちは、みんなからはぐれてしまった迷える子」だから、という解釈が出来ると思います。ただ、しかし、これは単純すぎるような気もします。あるいは、もっと大きな視点で持って混沌とした明治という時代をどう生きたらいいのかわからず、戸惑っているから「迷える子」としたのか、それとも、物語の最後に三四郎がなぜか「迷羊」(これもストレイシープ)と述べているので、キリスト教に関連した寓意なのか。様々な解釈が出来そうです。もしかすると、決まった答えはなくて、これら考えられる全てが答えなのかもしれません。卑怯ですが、そう濁しておきましょう。

私が最も好きな場面は、最後に近いところ。文章の休みの部分と申しますか。三四郎が風邪で寝込み、熱にうなされながらも与次郎と会話する場面です。しいて申せば、その数日後にお世話になっている野々宮さんの妹よし子が見舞いに訪れたときの場面も好きです。与次郎が意外に友達思いの人間であることがわかり、温かさを感じましたし、なによりその会話が、大変のんきで、三四郎を現実の世界へ一気に引き戻したようでもあります。そして、数日後に訪れたよし子との会話。もしかしたら、よし子は三四郎のことが好きなのでは、と気ままに解釈をしてみました。これらは何気ない場面ですけれども、私の興味を惹くものです。

「三四郎」は、もっと若い頃に読んでおくべきだったな、と思いました。今でも充分楽しめますが、よく言えば高校生、あるいは大学生で一読しておくべきでした。そうすると三四郎の心が、自分の心と存外うまくつながっていったのではないかと。名作は読んだ年齢ごとに感じ方が違うと申しますが、もし自分が学生時代に読んでいたらどんな感想を持ったのか、これもまた興味のあることです。

ブッツァーティ「七階」を読む

2007-07-22 21:06:41 | Weblog
今日は新しいネクタイをして、気分一新で出勤。午前中は展覧会の反省点をまとめ、来週から始まる現職教育(学校の先生方が夏休みに受講する研修のこと)で私が恐れ多くも「作品鑑賞の方法」について指導することになったので、その原稿をまとめていました。こうした試みは、今回が初めてなので、少し戸惑い気味ですけれども、楽しく、そしてわかりやすくを心がけて、講義(そんな大それたものではないけれど)に臨みたいと思います。午後からは収蔵庫整理。前回展示した作品たちを、丁寧に保存箱へ収納していきます。お疲れさまでした、の心をこめて。

さて、今日はブッツァーティの「七階」について御紹介したいと思います。ブッツァーティ(1906~1972)は、イタリアの作家。解説によれば「幻想文学の鬼才」と呼ばれているそうです。私はこれまで、イタリアの作家とはあまりなじみがありませんでした。せいぜい、ボッカチオの「デカメロン」ぐらいでしょうか。(古い!ルネッサンス期です)そんな、余り馴染みのない国の小説。でも・・・読んでみると結構面白い。

主人公のコルテは病気持ち。ある町の療養所で治療に当たることになりました。一日目、コルテは七階に案内されます。七階はとても快適な部屋でしたが、窓から下を見ると、一階のブラインドのほとんどが閉ざされているのに気づきます。コルテは、病状が重くなった人から、下の階へどんどん回されていくことを知ります。つまり、下になればなるほど重い病気を治療しているということ。一階は死を待つ人ばかりがいる階層なのです。コルテは恐ろしくはなったものの、自分は七階。医者の話によれば、すぐに全快するそうだから、一階なんて関係がない・・・そう思いきや・・・。

「幻想文学の鬼才」と呼ばれるだけあって、すこぶる怖くて、面白い作品です。読み進めていくうちに、自分もコルテと同化するのを感じて、医者の言葉になぜ?と思わず問いかけたくなります。巧妙な医者の話術は、なかなかにして曲者です。死への階段。ひょんなことからどんどん落ちてゆくさまは、人間が死に向かって生きていることを訴えかけているかのようにも読むことが出来ます。ドイツのホフマンやノヴァーリスなど幻想的な小説がお好きな方には、より楽しめる作品ではないかと思いました。

※「七階」は、光文社古典新訳文庫「神を見た犬」に収録されています。

夏目漱石「坊っちゃん」を読む

2007-07-21 18:18:37 | Weblog
今日は、昨日の予定通り、ネクタイを買ってきました。申し遅れましたが、私の職場でも夏場はノンネクタイが認められています。ノンネクタイは、もちろん涼しくていいのですけれど、私は毎日ネクタイをして出かけます。ネクタイを締めると、気も引き締まって、仕事のモチベーションが上がるのです。それに普段スーツばかりだから、ちょっとしたオシャレのために、せめてネクタイくらいはしたいのです(笑)もちろん、多少は暑いですけれど、だからといって事務室のクーラーをガンガンかけるようなことはしません。明日は仕事ですので、早速新しいネクタイで出勤しようと思います。

さて、今日は夏目漱石「坊っちゃん」を読みました。「坊っちゃん」には、ちょっとした、それもあまり良くない思い出があります。私が高校生の時分、いやみな現代文の先生が「夏目漱石の本を何か読んだことはあるか」と私を指名しました。私は「坊っちゃん」を読んだことがあると答えました。すると、先生はフンとかるく鼻をならし、いやらしい笑みを浮かべながら、私に言うのです。「坊っちゃん」を読んで漱石を読んだつもりかと。私はあんまりくやしいから、「こころ」を熟読して、次に同じ質問をしてきたら論破してやろうとたくらみましたが、二度と同じ質問はきませんでした(笑)

主人公坊っちゃんの性格は、「親譲りの無鉄砲で子供の時から損ばかりしている」の小説冒頭の一文に全てが集約されてます。そんな無鉄砲な坊っちゃんには、両親も愛想を尽かしますが、ただ一人、お手伝いの清だけが温かく見守ってくれるのでした。やがて、坊っちゃんは四国へ数学の教師として赴任し、そこで教頭赤シャツの陰謀(陰謀というほどおおげさでもありませんが)に憤慨し、山嵐(本名は堀田)とともに天誅を食らわすのです。そして、赤シャツ、野だを倒した後、再び東京へ戻り、清と感動の再会?を果たすのでした。

さて、この作品の大一番と言えば、主人公と山嵐が策士赤シャツと野だを成敗するラストシーン。主人公は、野だの顔に生卵6個をぶつけたうえ、ぽかりと何度も殴ります。山嵐は、赤シャツと対峙し、やはりぽかりと何度も殴ります。なぜ、我らが主人公が、悪玉赤シャツと戦わなかったのか。おそらく、山嵐の方が赤シャツへの恨みが強かったためと思われます。主人公も赤シャツには何度も罠にはめられていますが、山嵐は罠に加え、同僚うらなり君を救えなかった自責の念、そして赤シャツの策謀で辞表を提出させられるなど、積年の恨みがあったのでしょう。対決シーンで、主人公がやや目立たなくなるのも面白いところです。

「坊っちゃん」は、「吾輩は猫である」よりも娯楽要素が強い作品。確かに現代文の先生が言った「漱石を読んだつもりか」の言葉もわからなくはありません。でも、これから漱石を読んでみようと思う方には良い作品だと思います。内容もさることながら、比較的文章が短いので、とっかかりやすいものがあります。(「吾輩は・・・」も面白いのですが、初心者にはちょっと長すぎます)それに、なにより堅苦しい漱石のイメージもはがれてくることでしょう。漱石を読んでみたいと思う方はぜひ「坊っちゃん」から♪