この頃、書店へ行くと、やたらと「教養」を銘打ったタイトルが目につき、出版社はどうも私たちをずいぶん教養ある人間にしたいらしい。そうした中で、いつの間にか「美術」の知識もその教養とやらに入っていて、そもそも美術というのは楽しいから作ったり見たりするのであって、教養として身につけたところで何か利するところがあるのかがよくわからない、と思っていたら、先日『読める本』(1966年)のなかで、吉田健一の次のような言葉にバッタリとぶつかりました。
「教養というのが、精神を快活にするものであるならば、その間に眠った方が体にも、精神にもよさそうである。」
吉田の場合は、教養のなかでも文学について述べているのですが、これを美術と言い換えても、というよりも、教養のために何かを学ぶということ自体が目的としてどうなんだろうか、と言っているように感じます。これが書かれたのが50年以上前ですから、教養という言葉が何かと使われやすいのは昔から変わっていないのかもしれません。
さて、私はこういう社会や文明を意識した文章を書く吉田健一の批評がとても好きです。『読める本』の中にある「人生に就ての一切を本から学んだと芥川龍之介が書いているのは、先ずその言葉を疑って差し支えない」という言葉にニヤリとさせられ、「或る本が読めるか、読めないかを決めるのに一番確かな方法は、その本が繰り返して読めるかどうか験して見ることである」という言葉にハッと気づかされるものがあります。吉田の批評は、慣れるまでに何度かの再読を要求しますが、それだけの価値があると思っていて、私の場合は美術で論文を書いている途中で行き詰まったとき、吉田の文章を読んで、頭のなかを一旦整理する(書きたいことの原点に戻る)という使い方もしています。吉田の著作とそんな付き合い方をしているのは私だけかもしれませんが、『読める本』もその一冊で、私にとってはなくてはならない一冊です。
「教養というのが、精神を快活にするものであるならば、その間に眠った方が体にも、精神にもよさそうである。」
吉田の場合は、教養のなかでも文学について述べているのですが、これを美術と言い換えても、というよりも、教養のために何かを学ぶということ自体が目的としてどうなんだろうか、と言っているように感じます。これが書かれたのが50年以上前ですから、教養という言葉が何かと使われやすいのは昔から変わっていないのかもしれません。
さて、私はこういう社会や文明を意識した文章を書く吉田健一の批評がとても好きです。『読める本』の中にある「人生に就ての一切を本から学んだと芥川龍之介が書いているのは、先ずその言葉を疑って差し支えない」という言葉にニヤリとさせられ、「或る本が読めるか、読めないかを決めるのに一番確かな方法は、その本が繰り返して読めるかどうか験して見ることである」という言葉にハッと気づかされるものがあります。吉田の批評は、慣れるまでに何度かの再読を要求しますが、それだけの価値があると思っていて、私の場合は美術で論文を書いている途中で行き詰まったとき、吉田の文章を読んで、頭のなかを一旦整理する(書きたいことの原点に戻る)という使い方もしています。吉田の著作とそんな付き合い方をしているのは私だけかもしれませんが、『読める本』もその一冊で、私にとってはなくてはならない一冊です。