学芸員のちょっと?した日記

美術館学芸員の本当に他愛もない日記・・・だったのですが、今は自分の趣味をなんでも書いています

2024/02/22

2024-02-22 18:59:00 | 展覧会感想
 先日、栃木県立美術館の「春陽会誕生100年それぞれの闘い」展を見てきました。春陽会は今なお続く美術団体です。展覧会は、その始動から1970年代くらいまでの活動をたどるものでした。
 数多くの作品が展示されていましたが、三岸節子の《自画像》は小さいながらも、その存在感がとても強かったですし、萬鐡五郎のユーモアは何度見ても心地よく、また、鳥海青児や中川一政の作品は圧倒的な存在感でした。そのなかでも、岡鹿之助の6点はいずれも良かった。風景や静物を主題とし、アンリ・ルソーを思わせる世界に仕上げる。油絵ながら、画面の印象はとてもやわらかく、見ていて飽きない魅力がありました。帰りに岡の絵葉書を買って帰りました。しばらく部屋に飾って、展覧会の余韻を楽しみたいと思っています。

栃木県立美術館「印象派との出会い」展を観る

2022-12-22 21:43:14 | 展覧会感想
師走にしては珍しく、しとしとと雨が降りしきるなか、栃木県立美術館で開催されている「印象派との出会い」展を観て来ました。

この展覧会は、ひろしま美術館のコレクション、例えばルノワール、モネ、セザンヌ、マティスなどの作品を一堂に展示したもので、そうした作家たちが名を連ねていることもあってか、肌寒い雨の日だというのに、館内には多くの来館者が居ました。作品は基本的に制作年順で並べられており、そのときどきに同時代の日本の作家、すなわち浅井忠や黒田清輝たちを入り込ませることで、当時のフランスと日本の表現方法を比較でき、それぞれの現在地を確認できるようになっています。

1点ものの作品としては、ポール・シニャックの《パリ・ポン=ヌフ》が私の好み。これは川岸から橋や街並みを描いた絵で、それらは平筆による緑や黄を主体にした点描によって構成されています。その色彩が何とも美しく、ひとつひとつの点描がまるで生命を持っているようでした。また、ラウル・デュフィの《エプソム、ダービーの行進》は横に長い画面で、パドックを行進する馬たちが列をなして中央を横切り、それらを遠目に眺める紳士・淑女の群衆がシンプルな線によって描かれています。線を抑えた分、色彩が際立ち、まるでガラスに描いたような透明感のある画面でした。競馬というと、賭け事の一種であり、そこに人間の悲哀を観るような印象がありますが、この作品にあるのはただフェスティバルを楽しむ人間たちの姿であって、もしかすると、それが本来の競馬のあり方だったのかもしれません。日本の作家で良かったのは、藤島武二の「音楽六題」。楽器を奏でる女性を描いた小さな水彩6図で、それらは現代のイラストレーションとしても十分通用するように思えました。

最後に展覧会を周って気づいたことがひとつ。それはヴラマンクと佐伯祐三が同じ壁面に並べて展示してあったことで、これには思わずクスっとしてしまいました。この2人の関係性を振り返ったときに、すなわち、ヴラマンクに「このアカデミックめ!」と叱責された佐伯祐三のエピソードを思い出してしまったわけです。そういう意味ではとても面白い展示の配置をしています。

この展覧会は今月25日まで開催しています。おススメの展覧会です。

茨城県近代美術館「辻永」展を観る

2022-12-19 22:28:07 | 展覧会感想
師走に入っても、まだ暖かな初旬、茨城県近代美術館で「辻永 ふたつの顔を持つ画家」展を観て来ました。辻永(1884-1974)は水戸で少年時代を過すと、東京美術学校で油彩を学び、初めは白馬会の作家として、その後は文展などで創作活動を展開した作家です。

展覧会は辻の生涯に渡る画業を紹介する構成になっていました。若い頃の辻は、自宅で飼って居た山羊をモチーフにした作品をいくつも制作していて、その姿は自宅に鶏を飼い一日中観察していた伊藤若冲と重なるよう。それはともかく、それらの、例えば《無花果畑》や《夾竹桃と山羊》などは平面的で色彩が柔らかく、日本画を観ているようで心地が良いものでした。その後、辻は1年ばかり渡欧していて、そのころの作品は以前とがらりと変わるのですが、満開の桃色の花々の咲く高台から街を望む《サンジェルマンの春》を観ていると、技法以前の問題として、絵を描くこと、しいては人生の喜びや楽しみが存分に感じられ、渡欧したことが辻にとって最良の選択であったことがわかります。

展覧会の副題の「ふたつの顔」のひとつが、それらの油彩であって、もうひとつの顔は「植物画」でした。若い頃、植物学者にもなりたかったという辻。植物を徹底的に観察して数多くの植物画を描いているのですが、私のなかで辻の画業における植物画の位置づけがどうもよくわかりませんでした。というのは、油彩ほど真剣に取り組んでいない、と感じたのです。その謎を頭に置いたまま展覧会を見終え、館内のレストランで食事をしているときに、私のふと思いついたことは、何かと新しい表現が求められる作家の世界において、植物画は辻にとって気分転換、すなわち清涼剤のような役割を果たしていたのではないかということ。悩んだり、苦しんだりしているときに、若い頃から好きだった植物と向き合うことで自分の原点に返ることができる。それが辻にとっての植物画だったのではないでしょうか。

現在、辻はそれほど知られた作家ではないかもしれませんが、こうした作家の再発掘を意図した展覧会は地元の美術館ならではの活動で、とても素晴らしいと思いました。この展覧会が観られたことに感謝です。(この展覧会はすでに12月11日で終了しました)


足利市立美術館「リアルのゆくえ」展を観る

2022-07-17 22:50:00 | 展覧会感想
栃木県の足利市立美術館で「リアルのゆくえ」を観てきました。その大きな目的は安本亀八が制作した生人形を観ること。木下直之さんの著書『美術という見世物』を読み、ぜひ本物を観たいと以前から思っていたのでした。

展示されていたのはパーツごとにバラバラになった明治初期の生人形の姿。それでも迫力は充分です。木に彩色されたまさにリアルな作品で、頭部の毛の縮れ具合や力んだ時の飛び出すような目玉の表現、さらに右足の肌はこげ茶で泥の濃淡を表し、細い毛、さらに浮き上がるような血管までが筆で緻密に描かれていました。また、左手首に注目すると爪の間に入った泥まで再現している。まさに生人形という名前にふさわしい作品で驚かされました。

展覧会会場には、生人形が西洋の由来ではない写実性とあり、であるならば、鎌倉時代の一時期に見られた写実的な仏像や肖像の系譜と何か関係しているのかなと思ってみたり。想像が膨らみます。

生人形の話ばかりになってしまいましたが、会場で観た高橋由一の焼豆腐のリアルさ、本田健さんの実在感のある作品の一群、横山奈美さんの岸田劉生風であるけれどモチーフがユニークな最初の物体シリーズ、秋山泉の鉛筆による静物画など、リアル、すなわち物の本質をどう掴むか、作家ごとの答えを観るようで、とても勉強になる展覧会でした。

栃木県立美術館「題名のない展覧会」を見る

2022-04-25 13:58:24 | 展覧会感想
現在、栃木県立美術館で開催している「題名のない展覧会」展を見て来ました。

同館は今年で開館50周年を迎えるそうで、収蔵作品をメインに、これまでの調査研究の成果や過去の展覧会を振り返るという企画でした。いわゆる全国的に著名な作家、というよりは、地元栃木県で活躍した作家たちの作品が並びます。なかでも、爽やかな風が吹き抜けるような刑部人の《写生》、木版に「はつなつのかぜとなりたや」の詩が流れる川上澄生の《初夏の風》、人を昆虫に見立てたユーモアのある古川龍生の《昆虫戯画巻》のシリーズ、写実的な雲海が見事な小泉斐の《富嶽全図巻》など、見ごたえのある作品を観ることができました。ちょっと変わったところでは斎藤清の《ランプ》。黒い背景の中央に巨大なランプ(というより洋燈)を置いた図で、いわゆる斎藤清らしくなく、その絵の背景に何があったのか、ちょっと気になるところ。

また、作品ばかりではなく、過去の展覧会を企画した学芸員の声をパネルにして展示していたり、コレクション総選挙と題してお気に入りの作品に投票を呼び掛けたりと、来館者が楽しめるような工夫も凝らされており、とても勉強になりました。

展覧会の内容が充実していたのはもちろんですが、私個人としてもおよそ2年ぶりに他の美術館へゆっくり出かけることができ、とても楽しい時間を過ごすことができました。新型コロナウイルス感染症はまだ終息しそうにありませんが、少しずつこうした日常を取り戻していきたいところですね。

南画の潮流展

2021-03-04 18:50:39 | 展覧会感想
先日、宇都宮美術館で「ジョルジュ・ビゴー展」を見たあと、栃木県立美術館へも立ち寄りました。県立美術館で開催していたのは「栃木における南画の潮流展」です。南画の中でも「栃木」と限定したところが、県立らしい企画ですよね。

展示されている作品は、おおよそ江戸後期から昭和の中頃までの南画です。南画全盛期だった江戸後期は、やはりとてもいいものがあります。谷文晁の《富嶽図》、小泉斐の《輞川図》(一見、どこかの城跡でも描いたのかと思いました)の迫力がお見事。また、渡辺崋山、高久靄厓、吉澤松堂の竹図を比べて楽しむことができるのも面白い。きれいにまとめた吉澤、墨の濃淡を効かせた高久、その高久の上を行き、さらに筆先のかすれやねじりを加えた自由奔放な筆力の崋山。3人の特徴が際立って見ることができます。近代に入ると…南画というジャンルにとっては難しい時代になったのかな、という印象です。前衛的な表現をうまく取り入れた、当時の日本画や油画を思い浮かべると、南画は主題が主題だけに新しい表現方法の開拓が厳しかったのかもしれません。そのなかでも、小杉未醒の《石切山》や《雨》はかなり健闘しているな、と感じました。

その後は常設展へ。清水登之の《父の庭》がとても面白い絵でした。植木職人が庭先の巨木の枝を全部切り落とし、はしごの上でどうだと言わんばかりのジェスチャー、それを家の主人である父が背を向けて眺めている。「いくらなんでもやりすぎだろ」と父が背中で語っている感じがして、思わず、にやりとしてしまいました。

企画展も常設展もゆっくりと楽しむことができました。やはり、絵を見ることは楽しいですね。


ジョルジュ・ビゴー展

2021-02-27 16:11:51 | 展覧会感想
久しぶりに遠出をして、栃木県の宇都宮美術館で開催されている「ジョルジュ・ビゴー展」を観て来ました。

ビゴーといえば、日清戦争での風刺画が有名ですね。朝鮮を巡って対立する日本と清国が、魚(朝鮮)を狙って釣り糸を垂らし、その様子を中央の橋からロシアが虎視眈々と狙っているという絵です。中学校時代、私も学校の教科書で初めて見て、それからずっと記憶の中に残っています。ビゴーの名前は受験勉強や部活動が忙しくて、すぐに忘れてしまいましたが(笑)

展覧会は、ビゴーの作品をテーマ別で紹介しており、彼の画業を知ることができます。そのなかでも、明治期の日本を描いたもので、水彩やペンで描かれたものがいいですね。特に《京都 鴨川のほとりの祭りと花火》や《染屋》は、人物たちの表情がとても豊かで、私の好きな作品です。また、面白かったのは、ビゴーの絵は記録画として捉えられやすいけれど、作品によっては光の影を調整していて、全体のバランスを考えながら描いているということ。やはり自分の目にしたものをそのまま描いたわけではないのですね。私の中でビゴーのイメージが変わりました。ちなみに、展覧会では先の風刺画も展示されていました。大きさはA4版くらいでしょうか。本の挿絵くらいの大きさと思っていたので、私にとっては意外でした。

コロナ禍でなかなか美術館を訪れる機会も少なくなっていましたが、やはり絵を見るのは楽しいことです。思う存分、リフレッシュができた1日となりました。

メスキータ

2020-08-20 21:50:31 | 展覧会感想
ときどき、どう捉えていいのかわからない絵に出くわすことがある。栃木県の宇都宮美術館で見たメスキータの絵が、まさにそういう性質のものであった。

メスキータは、19世紀末から20世紀初頭のオランダで活躍した作家で、1944年にアウシュビッツ強制収容所で亡くなった。展覧会は、彼の木版を中心に紹介している。日本で木版、といえば、まず浮世絵があるし、メスキータと同時代なら新版画や創作版画があった。そういうものを頭で思い浮かべながら、楽しませてもらおうと思ったのだが、これが見事に失敗した。なぜなら、日本の版画を見る際の私の基準が全く当てはまらなかったからである。例えば、主題の扱いはどうか、彫りの巧みさはどうか、摺りの技術はどうか、そういう見方があまり通用しなかった。そもそも、この多くの絵を木版で表現しなければならない理由がどこにあるのか、という根本的なところまで考えたが、結局わからずに会場を後にした。

こうして家に帰り、メスキータ展のチラシを逆さにしたり、横にしたりしてみたが、一向にわからない。ただ、絵の残像だけが妙に頭に残っている。人間というのは面白いもので、物事に合点しなかったときのほうが気になるのかもしれない。気が付けば、この数日間、寝ても覚めてもメスキータのことばかり考えている。私に相当なインパクトを与えたことは間違いない。

竹久夢二のスタイル

2019-10-12 18:00:00 | 展覧会感想
時代を象徴する絵というものがある。例えば、安土桃山時代の豪華絢爛な《唐獅子図屏風》や江戸時代の情緒的な名所絵、とりわけ葛飾北斎の『富岳三十六景』と歌川広重の『東海道五拾三次』がそのイメージとして挙げられよう。では、近代へ進み、大正時代はどうか。おそらく、誰しもが彼の名前を挙げるに違いない。竹久夢二である。彼は「夢二式美人」なるスタイルを確立し、さらにその精錬されたデザインは、多くの若い女性や一部の美術学生にとても支持された。現に大正時代の土産物の絵葉書には、よく夢二風の絵が見られ、他者から真似をされるほどに一世を風靡した。

現在、茨城県近代美術館で「憧れの欧米への旅 竹久夢二 展」が開催されている。若き日のコマ絵から肉筆の軸物、屏風、そして雑誌や楽譜の装幀の仕事まで、彼の画業をほぼ網羅した内容である。時代を風靡するほどに人気を博した彼であるが、美術学校を出たわけでもなければ、特定の師についたわけでもなく、特定の団体にも所属せずに、自らの道を歩いて行った。49年の人生において、比較的自由に多くの仕事ができたことは、こうした縛りがなかったこととも関係しているのかもしれない。展覧会を見る限り、私としては装幀こそが彼の本領であったように見受けられる。もっぱら主となるのは女性であり、多彩な表情と、衣装やスタイルにおいて時代の要素をうまく取り入れて描くのが彼の特徴だ。それらは、ビアズリー風の細いペン画によるときもあれば、表現主義風のやや抽象がかった前衛美術を吸収したものも見ることができる。そうした彼の手による雑誌や楽譜は、国内における印刷技術の向上に伴って、数多くの人の手元へ渡ったことだろう。

アマチュア、という言葉を使うと、プロフェッショナルと比較して一段低く見られがちである。美術学校において、専門的な美術を学んでこなかった竹久夢二は、作家として扱うならアマチュアなのかもしれない。「夢二式美人」の細くて崩れてしまいそうな女性の姿は、アカデミックな視点で見れば素人の絵のように見えてしまうに違いない。だが、彼の仕事ぶりを見ていると、アマチュアとプロフェッショナルを比較すること自体がすでにナンセンスに思えてくる。どちらにしろ、最も重要なことは、世の中で生き残るには自分自身のスタイルを確立できるかどうかの1点にあるのかもしれない。彼の膨大な作品の数々がそれを物語っているように思える。

志野と瀬戸黒

2019-10-04 18:08:36 | 展覧会感想
学生時代、何気なく入ったお店の棚に、湯呑が大切に飾られているのを見かけた。それは燃え上がるような真っ赤な色をしていて、私が普段使いをしている湯呑とは明らかに違うものだった。値段を見ると2万円とある。私は家に帰ってからも、翌日になってからも、その湯呑のことがどうしても忘れられなかった。その湯呑を何としても手に入れたい。それから、せっせとアルバイトをして、数か月後ようやくその湯呑を買い求めることができた。学生の買い物にしては不相応なものだと思ったし、湯呑にそれだけのお金を使ったことで親からも驚かれたが、以来、私の大切な湯呑となった。あとになって、それは志野焼という焼物であることを知ったのである。

いまサントリー美術館で「黄瀬戸、瀬戸黒、志野、織部 美濃の茶陶」展が開催されている。主に16世紀から17世紀にかけ、美濃で作陶された焼物がずらりと並んでおり、十分に見ごたえがある。見ごたえがある、というのは、茶器1点1点に言葉に尽くせない素晴らしさを感じることのほかに、その茶器がどういう歴史をたどってきたのか、という物語性にまで追及しているところにある。人間の寿命は長くても100年、だがこれらの茶器は400年、500年の長い道のりを歩み、その間、茶器に魅了された多くの人たちが大切に守り続けてきた。本当に良いものというのは時代を越えると言われる。今日でも通用する造形と装飾、そこに歴史の重みが加わるとき、これらの茶器に自然と頭を下げたくなる。

かつて私は真っ赤な志野焼に心が惹かれた。だが、人間の趣向は移り変わるものである。この展覧会を見てから、瀬戸黒の言い知れぬ美しさに魅了されている。家に帰ってからも、翌日になってからもどうしても忘れられない。これは学生時代とまるで同じである。瀬戸黒のことをもっとよく知りたい。展覧会をきっかけにして日頃の楽しみなことがひとつ増えた。これは嬉しいことである。