語られる言葉の河へ

2010年1月29日開設
大岡昇平、佐藤優、読書

【心理】沢村賞選考委員による、「マー君に“ガッツポーズ禁止令”」の時代錯誤

2011年11月22日 | 心理
 11月14日、野球で活躍した投手OB5人による沢村賞選考委員会によって、楽天・マー君の沢村賞が決定した【注】。
 メデタシ、メデタシなのだが、その後がいけない。

 <ただし、その後に付け足された注文には首をひねらざるを得ない。5人の選考委員全員が田中将のマウンドでの立ち居振る舞いを問題視し、「派手なガッツポーズや雄叫びを控えるように」との要望を出したのである。>
 <確かに田中将は感情が表に出るタイプの投手だ。しかし、それが大きな魅力でもある。試合の序盤で相手打線を抑えている時は、クールに淡々と投球する。だが、絶対に打たれてはいけない勝負どころになると表情が一変。目はつり上がり鬼の形相になる。横浜やMLBマリナーズのクローザーとして活躍した佐々木主浩氏はその活躍度や姿かたちから「大魔神」と呼ばれたが、勝負どころで見せる田中将の表情は大魔神以上の迫力がある。>
 <そしてその鬼の形相から、「打てるもんなら打ってみろ」とばかりに渾身の力でボールを投げ込み、打ち取るとガッツポーズをし雄叫びを上げる。テレビ中継でこの姿を見れば、楽天ファンでなくても、画面に引き込まれるはずだ。>
 <また、スタジアムで観戦しているファンにしてもガッツポーズを否定する人はほとんどいないだろう。ファンは勝敗や好プレーを観るだけでなく、選手と感情を共有することを望んでいる。今では殊勲打を打った選手の名前をコールし、選手がそれに応えるとファンが大歓声を上げるという“儀式”が慣例化しているが、これはファンが選手と気持ちを通じ合わせたいからだ。ガッツポーズもそれと同様で、ファンにとっては選手の気持ちをくみ取り、盛り上がるために欠かせないものとなっている。このどこがいけないのだろうか。>

 どこがいけないのだろうか?

 今の沢村賞選考委員は、土橋正幸委員長以下、堀内恒夫、平松政次、村田兆治、北別府学の4氏。
 彼らがガッツポーズを問題視するのは、野球に日本古来の武道に見られる精神性を求めているからではないか。剣道・柔道・合気道・空手道・相撲道など、「道」がつく競技は礼に始まり礼に終わる。相手に対する礼儀から、勝利の喜びを露わにしてはいけない、と指導される。
 だが、野球は武道とは性格の異なるスポーツだ。盗塁、かくし球などがあって、「道」に通じる精神性を求めるのはそもそも無理だ。
 何よりも、プロ野球は娯楽なのだ。娯楽である以上、観客に満足してもらわなければならない。ガッツポーズは選手本人の感情表現に止まらず、スタジアムを盛り上げるのには欠かせないパフォーマンスだ。

 選考委員の現役時代は、国民の多くがプロ野球に関心を持ち、選手がパフォーマンスをしなくても中継を見た。選手はプレーに集中していればよかった。また、5人が投げていた頃は、上下関係がうるさかった。スタンドプレーは先輩から剣突を食らったのかもしれない。
 そんな感覚が残っているから、ガッツポーズが気に入らないのだろう。
 時代の変化とともに選手のあり方やファンとの関係が変わってきていることを察知できていないらしい。

 このたび、田中は、満点の対応をした。受賞を喜びながらも、ガッツポーズ禁止令にはノーコメントを貫いた。
 来季も、田中は変わらずガッツポーズや雄叫びを見せてくれるはずだ。それでこそ現在の球界を代表する投手だ。

 【注】「【心理】楽天・マー君に凄みが出た秘訣 ~変わる人は変わる~
    「【心理】祝! 楽天・マー君の沢村賞初受賞

 以上、相沢光一 (スポーツライター)「沢村賞受賞のマー君に“ガッツポーズ禁止令” 球界OBは古い考え方を改め、プロ野球人気回復に貢献を」(DIAMOND online)に拠る。
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【震災】原発>事故が明らかにした権力構造 ~街頭の民主主義~

2011年11月22日 | 震災・原発事故
 福島第一原発事故が明らかにしたのは、日本政治における民主主義の欠乏だ。
 従来、自民党と官僚による長期支配の中で、政官財(業)の鉄の三角形が各領域の政策形成を壟断した、と言われてきた。<それでも、私のように日本政治に批判的な批評をしてきた者さえ、鉄の三角形がここまで犯罪的なことを国策の名のもとに行ってきたとは、原発事故までわからなかった。>

 この事態を民主主義の欠乏と呼ぶ理由は、次のとおり。
 リンカーンの定義によれば、民主主義とは「人民の(of)、人民による(by)、人民のための(for)政治」を意味する。
 ここで問題となるのは、バイとフォーの関係だ。戦後日本では、バイの契機は封じ込められ、もっぱら官僚がフォーの中身を定義してきた。原発推進がその典型例だ。
 フォーには○○のために、という意味と並んで、○○に代わって、という意味もある。
 官僚支配においては、国民のために、という看板の下に、官僚が国民に代わって政策を立案、実行してきたのだ。
 そこでは、異論は徹底的に無視、封殺された。学者、専門家、メディアも動員され、「国民のため」の政策宣伝に加担してきた。
 官僚や専門家は、福島第一原発のメルトダウンを「想定外」と言い訳したが、これはまったくの虚偽だ。
 良心的な専門家は地震や津波に対する不備があることを指摘してきた。官僚や専門家は、こうした警告を作為的に無視し、あえて想定しなかっただけだ。
 このような構図は、丸山真男がアジア太平洋戦争について指摘した「無責任の体系」から一歩も抜け出していない。
 
 政策立案の当事者は、それぞれ、これこそ国のためと信じて政策を立案した。その善意ゆえに、異論を邪論として退け、あらゆる異議に耳をふさいできた。あまつさえ、国民を洗脳し、国策を受容させてきた。
 政策が破綻すると、自分は一生懸命やったとか、その時はみんな同じ方向を向いて政策をつくる空気が支配していた、と言い訳する。満州事変以来80年、この国の政策決定は何も変わっていない。

 このような近代日本の宿業から抜け出すためにこそ、民主党は力を振り絞らなければならない。自民党政権ではできないであろう情報公開と責任追及こそ、民主党の使命だ。
 野田政権は、瓦解寸前の民主党が緊急避難として選んだ政権だ。この政権で税・社会保障改革やTPPについて大規模な政策を決定するのは無理だ。むしろ、3・11以降の眼前の問題について、徹底的に対症療法を重ねるべきだ。
 特に問題となるのは、脱原発の具体化だ。しがらみにからめとられて電力業界の既得権を守るようなら、民主党など解散した方がよい。

 最後に訴えたいのは、市民としての能動性だ。民主主義は、国会の中や選挙の時だけ存在するのではない。街頭にも民主主義はある。社会運動と政権与党の政策形成が連動してこそ、世の中を変える政策を実現できる。
 自然災害や人為的な政策の失敗は、この世につきものだ。大事なことは、そうした問題が生じた時に、被害を最小限に食い止めること、そしてなるべく早く方向転換することだ。民主主義とは、そのための仕組みだ。多様な議論、市民の自由な意思表示。そのような世の中こそ、自己修正能力、復元力をもつ民主政体だ。

 以上、山口二郎(北海道大学公共政策大学院法学研究科教授)「政治的意思のない民主党が抱いていた大きな錯覚とは」(「朝日ジャーナル」2011年10月25日発行 緊
急増刊号)に拠る。

 【参考】「【震災】原発事故にみる戦後デモクラシーの欠落 ~for the peopleの二重性~
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