★ジェラード・ラッセル(臼井美子・訳)『失われた宗教を生きる人びと 中東の秘教を求めて』(亜紀書房 3,700円+税)
(1)中東の宗教はイスラム教だけではない。本書は、イラクなど中東の複数の国における駐在経験を持つイギリス人外交官が、中東に存在する少数派の宗教共同体を自らの足で訪ね歩き、教義や文化を記したもの。登場するのは、マンダ教徒、ヤズィード教徒、ゾロアスター教徒、ドゥルーズ派、サマリア人、コプト教徒、カラーシャ族の七つ。教義は複雑で、外には一切漏らさず秘儀として伝承されてきたものもある。筆者はジャーナリストのように世界中を飛び回って彼らへの取材を重ね、学者のように知的な分析を行う。やはり大英帝国の外交官は凄い。
「イスラム国(IS)」の誕生以来、中東の地政学は大きく様変わりした。彼らはイスラム教スンナ派の自己の教理を唯一絶対とし、それ以外の宗教を厳然と認めないため、故郷を追われ、滅亡に瀬している宗派もある。本書でも、米国やカナダ、イギリスに亡命した人が登場するが、自らの宗教を大切に思う一方で、現代の米国社会で育つ自分の子どもたちに厳しい教義を守らせることは難しいと悩むなど、貴重な証言も紹介されている。
(2)ユダヤ教の一種の祖型とも言えるゾロアスター教。さらにもっと古い信仰を伝える宗教。それらが生きた宗教だというのだから、イスラム一色という中東のイメージを一新させる本だ。これだけ多様な少数派が生きてきた地域と思えば、彼らをイスラム教の下に一元化できるというようなISの無茶さ加減もよく分かってくる。アクチャルな啓蒙書だ。しかも宗教学的解説ではなく、優れたフィールドワークにもなっている。
(3)山内教授は、イスラエルでドゥルーズ派の男たちに会った。彼らはイスラエルのスパイで、アサド父政権下のシリアで諜報活動をしていた。それが明らかになってしまい、部族が皆殺しにされると全員でイスラエルに逃げ込み、国境でレストランを経営していた。山内教授にとって、あの食事は思い出深い。
(4)なぜ現在のイスラム世界はこんなに暴力に支配されているのか。読み終えても、なかなかその答えは浮かんでこない。
〈例〉ヤズィード教徒の女性がイスラム教徒の男性との結婚を望んだために親戚に殺されたことが引き金となり、死者800人という自爆テロが起こる。こうした事象が成立する世界を理解するのは、やはり難しい。溜息をついて本を閉じるしかない。
(5)中東などイスラム圏では、家族間・家族内トラブルは比較的簡単に殺人に発展してしまう。家の名を汚すことは死に値する罪だと考えられ、血の繋がった親族から罰せられるケースが多い。非常に残虐な制裁や復讐もあり、聞くたびに嫌な気持ちになる。
(6)本書が出版された2014年は、まだ欧米社会の寛容が保持されると信じてられていた時代だ。イスラム圏の混乱がエスカレートするなか、少数派は居場所を失い、欧米を目指して故郷を去った。ところが数年のうちに世界は激変。イギリスが移民に「ノー」をつきつけ、トランプ大統領も登場した。寛容は世界的に失われつつある。少数派はどこに逃げればいいのか。
(7)日本でもシリア難民を300人ほど受け入れると決まったが、継続的定住となるとなかなか難しい。厳しい戒律を持つ彼らは、日本での生活は朝から晩まで気を抜けない。食事ひとつとっても、どこに豚肉が入っているか、調味料にお酒は使われていないか・・・・心配の種は尽きまい。
(8)日本人でその種の問題を痛切に感じているのは、食物アレルギーのある人だけかもしれない。宗教と結びつく徹底さを社会で広く理解し受け止めるにはハードルが高い。
(9)コミュニティという問題もある。ここに出てくる教徒たちは、たいてい同じ宗教間での結婚を義務としている。米国に住むドゥルーズ派は、バラバラにならないよう6、7世帯が近所で暮らせるように仕事を探すそうだが、これも日本ではなかなか簡単ではない。
(10)日本ほど世俗化と平準化を徹底させたい国は稀だろう。少数派は生きづらい。
(11)筆者の分析によれば、国を治める政府の力が強くなって少数派に対する弾圧が進めば、少数派はますます内向きに団結し、外への憎悪を募らせる。すると政府はさらに弾圧を強めるという構造が生まれているが、このスパイラルを止める権力はどこにも存在しない。
(12)よく「日本は何かできないのですか」と尋ねられるが、答えようがない。残念ながら外交を動かす時に必要な梃子(てこ)を、中東において日本は持っていない。
(13)私たちは西欧の理性で世界を眺めることにあまりにも慣れているので、すべてを理解し解決しようとするが、限界があるとこの本に教えられる。命がけで国境を突破したものの、子どもと数十年間生き別れになったケースも登場した。なんとかならないのかと思うが、世の中には解きほぐせる複雑さと、解きほぐせない複雑さがある。
(14)唯一できることがあるとすれば、中東問題を考える多面的視座を獲得することだろうか。世の中には自分とは異なるパラダイムで動いている世界があることを理解する。援助はそうした不条理に生きる人びとへの共感から始まる。多くの日本人に手にとってほしい1冊だ。
□山内昌之×片山杜秀×村田沙耶香「鼎談書評39 ~文藝春秋BOOK倶楽部~」(「文藝春秋」 2017年4月号)
↓クリック、プリーズ。↓

(1)中東の宗教はイスラム教だけではない。本書は、イラクなど中東の複数の国における駐在経験を持つイギリス人外交官が、中東に存在する少数派の宗教共同体を自らの足で訪ね歩き、教義や文化を記したもの。登場するのは、マンダ教徒、ヤズィード教徒、ゾロアスター教徒、ドゥルーズ派、サマリア人、コプト教徒、カラーシャ族の七つ。教義は複雑で、外には一切漏らさず秘儀として伝承されてきたものもある。筆者はジャーナリストのように世界中を飛び回って彼らへの取材を重ね、学者のように知的な分析を行う。やはり大英帝国の外交官は凄い。
「イスラム国(IS)」の誕生以来、中東の地政学は大きく様変わりした。彼らはイスラム教スンナ派の自己の教理を唯一絶対とし、それ以外の宗教を厳然と認めないため、故郷を追われ、滅亡に瀬している宗派もある。本書でも、米国やカナダ、イギリスに亡命した人が登場するが、自らの宗教を大切に思う一方で、現代の米国社会で育つ自分の子どもたちに厳しい教義を守らせることは難しいと悩むなど、貴重な証言も紹介されている。
(2)ユダヤ教の一種の祖型とも言えるゾロアスター教。さらにもっと古い信仰を伝える宗教。それらが生きた宗教だというのだから、イスラム一色という中東のイメージを一新させる本だ。これだけ多様な少数派が生きてきた地域と思えば、彼らをイスラム教の下に一元化できるというようなISの無茶さ加減もよく分かってくる。アクチャルな啓蒙書だ。しかも宗教学的解説ではなく、優れたフィールドワークにもなっている。
(3)山内教授は、イスラエルでドゥルーズ派の男たちに会った。彼らはイスラエルのスパイで、アサド父政権下のシリアで諜報活動をしていた。それが明らかになってしまい、部族が皆殺しにされると全員でイスラエルに逃げ込み、国境でレストランを経営していた。山内教授にとって、あの食事は思い出深い。
(4)なぜ現在のイスラム世界はこんなに暴力に支配されているのか。読み終えても、なかなかその答えは浮かんでこない。
〈例〉ヤズィード教徒の女性がイスラム教徒の男性との結婚を望んだために親戚に殺されたことが引き金となり、死者800人という自爆テロが起こる。こうした事象が成立する世界を理解するのは、やはり難しい。溜息をついて本を閉じるしかない。
(5)中東などイスラム圏では、家族間・家族内トラブルは比較的簡単に殺人に発展してしまう。家の名を汚すことは死に値する罪だと考えられ、血の繋がった親族から罰せられるケースが多い。非常に残虐な制裁や復讐もあり、聞くたびに嫌な気持ちになる。
(6)本書が出版された2014年は、まだ欧米社会の寛容が保持されると信じてられていた時代だ。イスラム圏の混乱がエスカレートするなか、少数派は居場所を失い、欧米を目指して故郷を去った。ところが数年のうちに世界は激変。イギリスが移民に「ノー」をつきつけ、トランプ大統領も登場した。寛容は世界的に失われつつある。少数派はどこに逃げればいいのか。
(7)日本でもシリア難民を300人ほど受け入れると決まったが、継続的定住となるとなかなか難しい。厳しい戒律を持つ彼らは、日本での生活は朝から晩まで気を抜けない。食事ひとつとっても、どこに豚肉が入っているか、調味料にお酒は使われていないか・・・・心配の種は尽きまい。
(8)日本人でその種の問題を痛切に感じているのは、食物アレルギーのある人だけかもしれない。宗教と結びつく徹底さを社会で広く理解し受け止めるにはハードルが高い。
(9)コミュニティという問題もある。ここに出てくる教徒たちは、たいてい同じ宗教間での結婚を義務としている。米国に住むドゥルーズ派は、バラバラにならないよう6、7世帯が近所で暮らせるように仕事を探すそうだが、これも日本ではなかなか簡単ではない。
(10)日本ほど世俗化と平準化を徹底させたい国は稀だろう。少数派は生きづらい。
(11)筆者の分析によれば、国を治める政府の力が強くなって少数派に対する弾圧が進めば、少数派はますます内向きに団結し、外への憎悪を募らせる。すると政府はさらに弾圧を強めるという構造が生まれているが、このスパイラルを止める権力はどこにも存在しない。
(12)よく「日本は何かできないのですか」と尋ねられるが、答えようがない。残念ながら外交を動かす時に必要な梃子(てこ)を、中東において日本は持っていない。
(13)私たちは西欧の理性で世界を眺めることにあまりにも慣れているので、すべてを理解し解決しようとするが、限界があるとこの本に教えられる。命がけで国境を突破したものの、子どもと数十年間生き別れになったケースも登場した。なんとかならないのかと思うが、世の中には解きほぐせる複雑さと、解きほぐせない複雑さがある。
(14)唯一できることがあるとすれば、中東問題を考える多面的視座を獲得することだろうか。世の中には自分とは異なるパラダイムで動いている世界があることを理解する。援助はそうした不条理に生きる人びとへの共感から始まる。多くの日本人に手にとってほしい1冊だ。
□山内昌之×片山杜秀×村田沙耶香「鼎談書評39 ~文藝春秋BOOK倶楽部~」(「文藝春秋」 2017年4月号)
↓クリック、プリーズ。↓


