四季・めぐりめぐりて

近隣の城館跡・古墳などの史跡めぐりなどをぼちぼちながらやっています

青いだるまの勝ち運神社「日本神社」を訪ねて

2023年03月21日 | 神社仏閣


国内で唯一日本の名を冠した神社である『日本神社』を参詣してきました。
日本と付くことから大きな由緒ある神社かと思いそうですが、旧社格が無格社であった小さな神社です。
しかし、小さな神社であるものの神社名と共に「青いだるま」で有名な神社
です。
「青いだるま」の起こりはは、本庄市がサッカー日本代表チームを応援する神社としてサムライブ
ルーの「青いだるま」を作り贈ったのが始まりと言われ、なでしこジャパンは見事優勝しそのお礼
として、贈られた青いだるまに監督・選手のサインが入れられて帰ってきたとのことです。
この話の前後にも色々な経緯があるようですが、そこまで触れると長くなってしまいますので簡単
な説明にしました。
そして今ではサッカー選手に限らずスポーツ関係者が必勝祈願で日本神社を訪れているそうです。
これはあくまで私的見解ですが 、 日本神社 ⇌ 日本 ⇌ 日本代表 といったこんな関係が
成り立つのではないでしょうか。

社 号:日本神社( にほんじんじゃ)
旧 称:桓武神社・合社様
御祭神:神武天皇
(じんむてんのう)
御神徳:武運、国土守護、災難除け ※武運・・・勝ち運
創 建:伝・延暦10年(791年)
社 格:旧無格社 
例 祭:10月17日  例大祭
指 定:なし
鎮座地:埼玉県本庄市児玉町小平1578(旧児玉郡児玉町)





「日本神社」参道はこの新井商店の脇から始まります
新井商店さんは【商店】とあるものの、現在はお店としては営業しておらず、日本神社の青だるまを展示
しているほか、ミニだるま・お守り・絵馬・御朱印などが置かれて販売されているようです。但し、土日
などの休日のみ開けられるようで、この日は平日ののため閉まっていました。




新井商店の角(参道入口)にある「日本神社 入口」の標柱と写真の看板




参道  【奉納 日本神社】と染め抜かれた神社幟が並んでいます




車がとまっている辺りに神社の社殿があるのかと思っていましたらさに非ず




ここから更に山道の石段を登っていきます




石段が続きます 体力のある人にはこの程度の石段(坂道)苦ではないのかもしれませんが・・・




やっと鳥居が見えました




「鳥居「と「社殿」




【日本神社 御由緒】
神社の歴史を読むと中々興味あることが記されています。
「無格社」というのはある意味では屈辱ですよね。
社名の改称に当り、例えば黒岩神社や稲荷神社とかにせず「日本神社」(明治14年〔1881)改称)としたこ
とには驚きです。
失礼な言い方も知れませんが、神社としては一番格下の無格社が”大きな神社が欲しい”という思いから、
大きな建物(社殿)ではなく最も大きな名である「日本」を名乗ったのですから驚きでもあります・・・
まあ、そのお陰で知名度は上がったようですが。
(現在、社格制度は廃止されています)




「社殿」
拝殿の左右の建物(覆屋)に境内末社が鎮座しています




ちょっとアップで




「狛犬」



「拝殿」
拝殿の幔幕には社紋である「左三つ巴」が入っています




日本神社と揮毫された「扁額」




拝殿に向って左側の建物(覆屋)には
右から 石上神社 駒形神社 天神社 白山神社 山上神社  の五社が鎮座




覆い屋に掲げられた日本神社の説明板




拝殿に向って右側の建物(覆屋)には
左から 琴平神社 黒岩神社 稲荷神社 稲荷神社 稲荷神社 櫻木神社 の六社が鎮座




沢山の「青いだるま」が奉納されています




右側の建物(覆屋)の外に鎮座する 八坂神社
なぜこの一社だけ外なのでしょうか ほかの神社より後から合祀されたのでしょうか?




拝殿を斜めから




「神楽殿」




「絵馬」は勿論「青いだるま」




「社務所」




拝殿前から鳥居方向を




登ってきた石段の坂道を見下ろして




石段を下り切った所から参道を

参詣日:令和5年(2023)3月15日(水)

福正寺 勢至堂の狛ウサギ

2022年12月15日 | 神社仏閣


今年もあと半月。来年令和4年の十二支は「卯(う)」=「うさぎ年」

そんなウサギの狛犬(狛ウサギ)がある埼玉県滑川町月輪の 福正寺 『勢至堂』(せいしどう)を参詣してき
ました。
福正寺は、天台宗の寺院で月光山勢得院(聖徳院)と号す。福正寺の創建年代等は不詳ながら、慈覚大師
が開創したと伝わる。
勢至堂は、当地名の由来ともなった月輪殿藤原兼実(九条兼実)が建久年間(1190~1199)に当地へ下向
した際、藤原兼実の守護仏勢至菩薩を奉安するために建立したとされます。
この勢至堂は勢至菩薩をお祀りしてあるとのことで、本来、勢至菩薩は午年年まれの守り神とされるよう
です。そして、卯年生れの守護神は文殊菩薩とのことですから、なぜ勢至堂に「うさぎ」という不思議?
難しいことは分かりませんが、『月輪』という地名に大いに関係ありそうです。
下掲の勢至堂説明板にも記されているよう、月輪殿と呼ばれた平安末期の摂政関白太政大臣九条兼実との
関係。ウサギ=月輪




福正寺




福正寺山門




山門を抜けると右手に庚申塔、地蔵菩薩、如意輪観音などの石仏




山門の正面に本堂があります




勢至堂説明板
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   勢至堂
                             滑川町大字月輪
勢至菩薩は阿弥陀仏にお仕えし智恵の光を与え下さる菩薩で三夜様ともいわれている。
この勢至菩薩はその昔、月輪大納言藤原兼実公が常に尊崇礼拝していたと伝えられ、午歳生れの守り本尊として
福徳円満開運出世、又安産や火防などに霊験があるといわれる。
堂の創建は建久七(一一九六)年と伝えられ、文禄に再建され今の建物は嘉永二(一八四九)年に再興、昭和五
十年屋根等を改修現在に至る。
格天井は彩色の花鳥図で、優雅な天女と力強い龍の絵は藤原梅秀筆による。
須弥檀の四方には勢至菩薩にお仕えする卯の彫刻が施され、郷の人は兎を食べないといわれ、縁日には精進して
信仰すると伝えられる。
      磨きぬる智恵のかがみや勢至堂
        迷いを照らす 月の輪の里

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勢至堂は本堂の右斜め前に建立されています




狛ウサギ 平成17年建立のようです




阿形の狛ウサギ




吽形の狛ウサギ




吽形の駒兎の前斜めに説明板にも書かれていた歌
 『磨きぬる智恵の かがみや勢至堂 迷いを照らす 月の輪の里』
を刻んだ石碑が建立されています。




大棟の鬼には ウサギの顔 が




『勢至堂』と揮毫された扁額




「二十三夜大勢至菩薩」
裏面に  創業十年記念 昭和二年十月吉辰 入間郡坂戸町 建具蚕種 名前(判読できず)
と刻まれています




板碑 高さ約3.5m
阿弥陀一尊と御真言が彫られている

参詣日:令和4年(2022)12月14日(水)

慶徳寺の四天王像

2022年12月10日 | 神社仏閣


ほとんど毎日拝見させていただいているSさんのブログで滑川町中尾の慶徳寺四天王像の写真が
掲載されていました。
ブログネタも底を衝いてしまい更新できずにいましたので、これをSさんからのヒントととして、
慶徳寺四天王像をアップしたいと思います。
かつて城館跡巡りの一環として、徳川家康旗本岡部太郎作の陣屋跡と推定されているこの慶徳寺を
訪ねたものの、ブログ記事にすることなくお蔵入りになってましたが、その際の写真何枚かを載せ
て生存証明にしたいと考えまして・・・訪問日は何と5年前の平成29年(2017)11月6日です。
慶徳寺は曹洞宗のお寺さんで、山号を醫王山・院号を薬王院と号し、釋迦牟尼佛を本尊としていま
す。




『四天王門』
本来は薬師堂の門であったようですが、今は寺の総門となっているようです。
この総門に安置されている四天王像は寄木造りで江戸時代中期の作と思われるとのことで、滑川町
指定有形文化財となっています。




山号『醫王山』と揮毫された扁額
※各像の位置と向いてる方向を入れてみました




『持国天』   名札等がありませんので自信ありませんが・・・以下同様




『増長天』




『多聞天』




『広目天』




『本堂』




『鐘楼』
写真左側が薬師堂への石段登り口




薬師堂への石段




薬師堂  中武蔵寅薬師72番札所
古くから「加田(がだ)のお薬師様」として近隣の信者を集める。(字加田 旧加田村)




向拝の天井絵




寺沼




「第一關 慶徳寺」とある石碑の右側が参道 ここから慶徳寺までは約250m
左にある祠の石仏は不動明王」か?

畠山重忠と鬼鎮神社

2022年02月03日 | 神社仏閣


本日は節分祭。例年、「福はうち 鬼はうち 悪魔そと」と言って豆まきがされる比企郡嵐山町の
『鬼鎮神社』(きぢんじんじゃ)では、コロナの影響で神事のみを行い、豆まきは行わなかったよ
うです。
全国でも珍しい鬼を祀るこの鬼鎮神社の創建は、寿永元年(1182年)で、今年の大河ドラマ「鎌倉
殿の13人」の主要登場人物の一人である畠山重忠が、「菅谷館」築造の際に鬼門除けとして建立さ
れたのが始めとされるようです。




向拝柱の貫に上には、「鬼鎮神社」と入った赤鬼青鬼の奉納額 
幔幕の「五三の桐紋」は畠山重忠の家紋・鬼鎮神社の社紋
幔幕の上にある扁額には旧社号である「鬼鎮社」とあります




地図を見ていただければわかる通り鬼鎮神社は菅谷館跡の北東にあり、まさに表鬼門の方角である
「艮(うしとら)」に位置しています。直線距離にして約1.7㎞です。
これからしても、畠山重忠が菅谷館の鬼門除けとして建立したというのも納得材料になりますね。
今回、神社に行っておりませんので不確かですが、多分、「鎌倉殿の13人」にちなんで畠山重忠の
幟旗が立っているでしょう。

大河原氏館跡 浄蓮寺(埼玉県東秩父村)

2021年12月25日 | 神社仏閣


『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』が発行するリーフレット「鎌倉殿を支えた
 武士の故郷 比企の史跡マップ」に掲載されている史跡めぐりも取敢えず最後となりました。
秩父郡でありながらも生活圏は比企郡の東秩父村の『浄蓮寺』です。

最後も、リーフレットにある浄蓮寺の説明文から始めます。
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浄蓮寺は、松山城主上田氏の菩提寺です。鎌倉時代末、大河原神治太郎光興の創建と伝えられています。
寺伝によれば、大河原神治太郎光興が屋敷内に道場を開くため、日蓮の弟子日朗を招いたといわれていま
す。

豆知識:大河原神治太郎光興は、比企能員の子で鎌倉妙本寺を開いた比企能本と親交があったと伝わっています。
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もう少し鎌倉・比企氏とのかかわりはないかと調べてみたところ、比企氏15代則員は松山城主上田朝広に
仕えていた武将とあった。これだと戦国時代末期の話になりますから「鎌倉殿の13人」には結び付きませ
んね。





山門脇の塀にしっかりポスターが貼られていました。
この浄蓮寺では、「鎌倉殿の13人」に対してどのように向き合っているのかを知りたいとこともあ
って、何度も行っている浄蓮寺に出かけてみたわけでした。




左から 「祖師堂」・「鐘楼堂」・「本堂」
この写真には写っていませんが、本堂の右隣に「庫裡」があり、庫裏にもポスターが2枚貼られて
いました。




中央の建て直ししたお堂が「妙栄稲荷堂」




「上田氏墓所」

『大河原氏館跡・上田朝直墓』 ← 過去記事

リーフレット「鎌倉殿を支えた ・・・ 」には掲載されていない鎌倉時代関連の史跡がまだあり
ます。しかし、平等に9市町村1か所づつ(東松山のみ2か所)にしているために仕方ないですね。
また、私的には納得のいかない説明文もありましたが、そのまま載せました。
折を見て未掲載の史跡(指定史跡とは限りませんが)再訪して何か書いてみたいと考えています。

参詣日:令和3年(2021)12月24日(金)

国宝のある寺 慈光寺(埼玉県ときがわ町)

2021年12月24日 | 神社仏閣


『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』が発行するリーフレット「鎌倉殿を支えた
 武士の故郷 比企の史跡マップ」の④は慈光寺(ときがわ町)です。慈光寺には数度行っていま
すが、今回は、「鎌倉殿の13人」に関連しての小散策をしてきました。

まずはリーフレットにある慈光寺の説明文です。
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武蔵武士の畠山氏の経済的・政治的な基盤を背景に「一山七十五坊」を擁する一大山岳寺院として北関東一帯に
絶大なる寺院勢力を誇示していました。その後、源頼朝などの篤い信仰もあり、より一層の隆盛を誇りました。

豆知識:慈光寺に伝わる法華経一品経は「慈光寺経」とも呼ばれ、広島県厳島神社の「平家納経」、静岡県鉄舟寺の「久
能寺経」とともに日本三大装飾経として国宝に指定されています。

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慈光寺(じこうじ)は、埼玉県比企郡ときがわ町にある天台宗の寺院で、山号は都幾山、院号は一乗法華院。坂東
三十三観音の第九番札所です。
鎌倉幕府を開いた源頼朝は、慈光寺に崇敬の念あつく、文治5年(1189)奥州の藤原泰衡追討に際し、戦勝祈願の
ため愛染明王像を当山に贈りました。また、寺領として1200町歩を寄進した建久2年(1191年)の源頼朝寄進状が、
今に残っています。
慈光寺 27 世の住持厳耀は畠山重忠の大伯父です。
観音堂には重忠の念持仏であったと伝わる十一面観音菩薩立像があり、像高八尺余で重忠の身長と同じ 180cm と
言われます。





本堂(阿弥陀堂)
慈光寺は、推進協議会が、比企地域の源氏・比企一族関連史跡に上げているお寺であることから、幟が立
てられたり、ポスターが貼られているかも知れないと。しかし残念ながらどこにもありませんでした。




本堂の大棟には、天台宗菊輪宝(てんだいしゅうきくりんぽう)を挟んで「笹竜胆」紋が配されています。
源頼朝(源氏)の紋ですね。




土蔵にも「笹竜胆」紋  源頼朝(源氏)との関係を表していますね




「般若心経堂」
国宝の「法華経一品経」の現物を見ることはできませんが、「般若心経堂」に模写(陶器)が展示されて
います。




上:重文「尾張徳川家伝来装飾法華経観世音菩薩普門品」  平安時代後期 徳川美術館蔵
下:国宝「慈光寺経 妙法蓮華経 授記品第六」  鎌倉時代 慈光寺蔵
の模写(陶器)




慈光寺の麓にある郵便局の局舎両側に幟が立っていました。
慈光寺には無くてなぜ郵便局に?
その理由は見当がついていますがここには書けません・・・

『都幾山 慈光寺』 ← 過去記事

散策日:令和3年(2021)12月24日(金)

滅びていなかった比企一族 金剛寺(埼玉県川島町)

2021年12月23日 | 神社仏閣


2022年NHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」には、埼玉県比企地域にゆかりのある武将・人物なども描かれ
るようです。
比企地域9市町村(東松山市、滑川町、嵐山町、小川町、川島町、鳩山町、吉見町、ときがわ町、東秩父
村)では、この放映を契機として地域の活性化につなげようと、令和2年(2020年)12月に『大河ドラマ
「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』
を立ち上げ、さまざまな取り組みをしています。
12月に入ってから、【比企一族と武蔵武士 大河ドラマ「鎌倉殿の13人」ゆかりの地】の幟旗やポスター
が立ったり、貼られたりするよになり、また、リーフレット「鎌倉殿を支えた 武士の故郷 比企の史跡
マップ」も配布されています。
リーフレットにはアクセスマップ、比企地域の源氏・比企一族関連史跡の写真と説明文が掲載されていま
す(各町村一つの史跡、東松山市のみ二つの史跡)

 ① 小川町  仙覚律師遺跡(県指定・旧跡) ② 嵐山町  菅谷館跡           
 ③ 吉見町  岩殿山安楽寺(吉見観音)   ④ ときがわ町  慈光寺          
 ⑤ 鳩山町  笛吹峠(鎌倉街道上道)    ⑥ 川島町  金剛寺            
 ⑦ 東秩父村 浄蓮寺            ⑧ 滑川町  三門館跡           
 ⑨ 東松山市 扇谷山宗悟寺   巖殿山正法寺         

今回は、このうちの 《⑥川島町 金剛寺》を訪ねてみました。  
リーフレットにある説明は次の通りです。
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金剛寺は真言宗智山派の寺院で、大僧都満恵和尚によって開山され、天正年間には比企能員の末裔である
比企左馬助則員が中興したと伝えられています。妙本寺(鎌倉)同様、比企一族の菩提寺です。この金剛
寺には「比企系図」及び比企家15代則員、16代久義、17代重久、18代久員を含む歴代の墓があります。

豆知識:境内の東に位置する大日堂の天井には「龍」が描かれています。この龍は、田んぼで稲を食い荒らし、被害はあ
ちこちに広がったそうです。やむを得ず龍を鎮める方法として、喉元に杭を打ち込み、その杭を隠すために天井を設置し
たと伝えられています。 (※17代重久は重員の間違いではないでしょうか?)
 
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比企氏一族は、建仁2年(1203)の『比企氏の乱 』で北条方に敗れ一族がことごとく滅ぼされたとされて
いました。しかし 能員の子 円顕 (当時2歳・俗名 能本 ) と、能員の孫 員茂 は母のお腹の中にいたこと
から生き長らえていたのです。


   


『本堂』




『鐘楼』




『大日堂』
この大日堂は、2021年2月26日付で国登録有形文化財に登録されています。
山門にもこれに関する記事(文化審議会へ答申段階)を貼った立て札が置いてあります。




「比企氏と歴代墓地」説明板




この奥に比企氏の墓地があります




「比企氏と歴代墓地」




宝篋印塔などが並んでいます
左の方には現在の比企氏の墓や墓誌がありますが、敢えて写していません。




① 比企久員の墓   延宝8年(1680)3月5日没  比企家18代
② 久員の妻の墓   延宝8年(1680)7月14日没
③ 比企重員の墓   寛文11年(1671)10月6日没  比企氏17代
④ 比企義久の墓   寛永19年(1642)8月8日没  比企家16代
⑤ 比企則員の墓   元和2年(1616)3月19日没  比企家15代
⑥ 比企稚久の墓   元禄14年(1701)10月15日没

建仁2年(1203)の『比企氏の乱 』から400年余以上を過ぎた時代の末裔ですね

『金剛寺ー比企氏墓所―』 ← 過去記事

参詣日:令和3年(2021)12月9日(木)

岩殿山 安楽寺 -吉見観音-(埼玉県吉見町)

2021年12月04日 | 神社仏閣


2022年NHK大河ドラマは「鎌倉殿の13人」。埼玉県比企地域にゆかりのある比企能員、畠山重忠、
源範頼、木曽義仲、比企尼、丹後局などの武将・人物なども描かれる予定のようで、比企地域9市
町村(東松山市、滑川町、嵐山町、小川町、川島町、鳩山町、吉見町、ときがわ町、東秩父村)で
は、2020年12月に『大河ドラマ「鎌倉殿の13人」比企市町村推進協議会』を立ち上げて、さまざま
な取り組みをしています。
吉見町には、源頼朝の弟で蒲冠者と呼ばれた源範頼は、幼少のころの平治の乱後、岩殿山に身を隠
し、比企氏の庇護によって成長したと言われます。
その身を隠したという吉見観音として知られる
   坂東11番の札所・岩殿山安楽寺
   所在地:埼玉県比企郡吉見町御所374
を参詣してきました。




岩殿山安楽寺(吉見観音)への石段
右に「坂東十一番 岩殿山安楽寺」と刻まれた寺号標




石段の左側に建てられている「吉見観音(安楽寺)」説明板




寺号標の側面には「蒲冠者 源 範頼旧蹟」と刻まれています




石段を上り切ると『仁王門』
 埼玉県指定有形文化財(名称:安楽寺仁王門 平成7年(1995)3月17日指定)
 吉見町指定有形文化財(名称:安楽寺仁王像 昭和60年(1985)1月25日指定)




岩殿山安楽寺境内




『阿弥陀如来坐像(吉見大仏)』




『本堂』
 埼玉県指定有形文化財(名称:安楽寺本堂 昭和52年(1977)3月29日指定)




左甚五郎の作と言われる欄間の『野荒しの虎』




『安楽寺三重塔』
 埼玉県指定有形文化財(名称:安楽寺三重塔 昭和28年(1953)3月26日指定)
詳細については下5枚目に説明板の写真を載せておきますのでそちらで・・・

埼玉県内に現存する江戸時代以前に造られた三重塔はここ安楽寺のものを含め3基ありますが、
 安楽寺三重塔(吉見町) 建立年 1652年ころ 総高 24.3m 県指定
 西福寺三重塔(川口市) 建立年 1693年   総高 25.0m 県指定
 成就院三重塔(行田市) 建立年 1729年   総高 10.0m 県指定
となっています。安楽寺三重塔は古さでは一番、高さでは僅かの差で二番となります。





ほぼ正面から




本堂裏から




同上




同上
今回は三重塔と紅葉を主目的にした参詣でしたので、本堂以外の堂宇の写真の分も三重塔に・・。




『安楽寺三重塔』説明板




本堂裏の紅葉




坂東十一番納経所入口の紅葉




吉見観音参道にある『厄除だんご どびんや』

参詣日:令和3年(2021)12月2日(木)

桂木観音(埼玉県毛呂山町)

2021年03月28日 | 神社仏閣


桂木観音(かつらぎかんのん・入間郡毛呂山町滝ノ入814)を訪ねてみました。実に30数年ぶりなります
が、前回は参拝ではなく何か別の用事があってだったと記憶しています。
標高約280m(比高は?)の山の中腹に桂木観音はありますが、創建は、養老3年(719)と言われます。
この桂木観音のある滝ノ入地区はゆずの産地としても有名で、ゆずの木畑沿いの道を上がってきました。

【桂木】の地名は、奈良時代の高僧・行基菩薩が東国行脚をした時、大和(奈良県)の葛城山に似ている
ところからカツラキと名付けたと伝えられています。




桂木観音への石段を上がっていきますと仁王門の手前右側に鐘楼があります。
鐘楼の柱に「鐘は静かに撞いて 余韻をお楽しみ下さい」と書かれた木札が貼られています。
これは特別なことではありませんが、何と銅鐘の撞座の下に「やさしくネ」と書かれています。
これには驚きです。鐘に直接書いちゃうとは・・・




『仁王門』




『桂木観音堂』
桂木観音堂は「桂木寺」(けいほくじ)の境外堂として建立されたもので、現在のお堂は安政6年(1859)
に再建されたもの
背後の山が「桂木山」で寺号の由来となっている
桂木寺は桂木観音の道向かいにある展望台駐車場から少し下に行った場所にあるようです




斜めから『桂木観音堂』を




桂木観音堂の右隣にある『地蔵尊堂』




観音堂の裏の木にヒヨドリが止まりましたので遠かったのですが「パチリ」




仁王門越しに桜の花を




『桂木観音展望台』
この前に3台ほどの駐車場があります
桂木観音を訪ねたもう一つの理由はここからスカイツリーを観ることでした
天気がよかったのでもしやと思い・・・




丸印のところにスカイツリーが建っていますが、残念ながらこの写真では全くわかりません
晴れ切っていなかったのか、腕が悪いのか、カメラ・レンズが悪いのか・・・

散策日:令和3年(2021)3月23日(火)

渋沢栄一翁ゆかりの血洗島諏訪神社(埼玉県深谷市)

2021年03月05日 | 神社仏閣


社 号:諏訪神社(すわじんじゃ)
通 称:血洗島 諏訪神社(ちあらいじま すわじんじゃ)
御祭神:建御名方神(たけみなかたのみこと)
創 建:不詳
社 格:旧村社 
例 祭:10月17日
指 定:-
鎮座地:埼玉県深谷市血洗島117-6

深谷市血洗島に鎮座する諏訪神社を参拝してきました。
血洗島 諏訪神社は、大河ドラマ「青天を衝く」や2024年度に刷新される一万円札の肖像画にも
決定している近代日本経済の父と称される渋沢栄一の生家「旧渋沢邸・中の家(なかんち)」か
ら5分ほどの距離にあり、渋沢栄一とも非常に関係の深い神社です。
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 諏訪神社は血洗島の鎮守社で、古来より武将の崇敬が厚く源平時代に岡部六弥太忠澄は戦勝を
祈願したといわれ、また、この地の領主安部摂津守も、参拝したと伝えれれている。
 現在の拝殿は、大正五年(1916)渋沢栄一が喜寿を記念して造営寄進したものである。
 栄一は帰郷の際、まずこの社に額づいた。そして、少年時代に自ら舞った獅子舞を秋の祭礼時
に鑑賞することを楽しみとしていた。栄一が奨励したこの獅子舞は、現在も大事に受け継がれて
いる。
 境内には、栄一手植えの月桂樹と長女穂積歌子が植えた橘があり、その由来を記した碑がある。
 なお、村民は栄一への報恩のため、建立した喜寿の碑が境内にある。
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拝殿前に置かれている参拝者向けリーフレット「諏訪神社」から抜粋転記




参道入口  社号標『村社 諏訪神社』とあり  右の建物は『社務所・血洗島ふれあい会館』




『一の鳥居」 明神鳥居です




『澁澤父子道遺顕彰碑』




『参道』




『二の鳥居』 両部鳥居です




立派な彫刻が施された屋根付きの扁額『諏訪神社』 澁澤榮一謹書




『諏訪神社』由緒




『手水舎』




『拝殿』
大正5年(1916)、渋沢栄一翁が喜寿を記念して造営寄進したもの
※賽銭箱の左側に諏訪神社のリーフレットが置かれている




拝殿前左手の『橘』
長女穂積歌子が父栄一のために植えたもの 脇にある碑はその由来を記したもの




『本殿』 拝殿とは繋がっていません




本殿扁額『諏訪神社 正四位勲二等男爵澁澤榮一謹書』とある 
渋沢栄一翁の揮毫による




『天満宮』




拝殿・本殿・天満宮を右後方から




『渋沢青淵翁喜寿碑』
栄一翁の喜寿を祝って諏訪神社の氏子中の拠金によって建立された
徳川慶久 題額、萩野由之 撰、坂正臣 書   ※徳川慶久は徳川慶喜の七男


        
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 題 額
澁 澤 青 淵 翁 喜 壽 碑
      公爵 徳川慶久題額
 碑 文
男爵澁澤青淵翁、今年七十七の高齢に達せられたるを以て、郷里なる八基村字血洗島の人々、碑を立てゝ翁の
徳を頌せんとして、余に文を求めらる。余訝り問ひて、翁の功績は甚大なり、村人の私すべき所ならんやとい
ふに、人々首打掉りて否々、吾村は武蔵平野の小村ながら、翁の如き大人物を出したるを誇とすべし。翁や青
年の頃村を去りて国家の為に奔走し、今は世界の偉人として内外に瞻仰せらるれども、我等は尚翁を吾村の父
老として親しみ慕ひ、翁も亦喜びて何くれと村の事に尽すを楽となせり。翁は嚮に八基小学校の新築と、其維
持法とに就きて、多くの援助を与へ、一村の子弟をして就学の便を得しめたり。村社諏訪神社は、翁が幼少の
時境内にて遊戯し、祭日には村の若者と共に、さゝらなど舞ひたる事あれば、村に帰れば先づ社に詣づるを例
とし、社殿の修理にも巨資を捐てゝ父老を奨励したり。今年は翁の喜寿に当りたれば、翁を迎へて彼のささら
を催しゝに、翁は記念として拝殿を造りて寄進したり、村人は此後春秋の告賽にも、子女の婚礼にも其便を得
て、敬神の念嚮学の風と相待ちて風俗の益敦厚ならんことを喜び合へり。翁が尊貴を忘れて郷閭に尽せる功徳
と情愛とは村人の深く感謝する所なりと。余此言を聞きて感じて曰く、微賤より起りて富貴を一身に聚めたる
人の草深き故郷を疎かにするは世の常なり、翁や世界の偉人として其故旧を忘れず、父老を敬ひ青年を導く、
大人にして赤子の心を失はずとは翁の謂なり、翁の行は社会の模範となすべく、翁の徳は伝へて天下の風気を
如し。翁の寿の九十に躋り百歳に至るは言はんも愚なり、後世翁の徳を聞きて感奮し、翁に継ぎて興る者あら
ば、翁は千歳にわたりて長へに生くべきなり。
  大正五年九月        
                文学博士 萩野由之撰
                     坂 正臣書

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拝殿前に置かれている参拝者向けリーフレット「澁 澤 青 淵 翁 喜 壽 碑」碑文を転記




『宮城遥拝所』




参道入口付近から見た血洗島 諏訪神社

参拝日:令和3年(2021)2月19日(金)