「遊び」は「間」だ。
中身は何も無い「間」だ。
世間の固定概念の「遊び」とは違う。
世間でいう「遊び」も中身は無い。
だが「間」のある「遊び」は少ないぜ。
世間的な「遊び」もいいだろう。
そんなの好きにすればいい。
だが遊びの醍醐味は「間」にある。
「間・余裕」の無い「遊び」は遊びにならない。
「間」は回復力になる。
何も無い「間」が大切な力になる。
それは自他に同時に働く力だ。
同時に働く回復力を「癒し」ともいう。
本体の「遊び」部分は「癒し」となる。
どんな行為にも「癒し」の可能性がある。
「遊び」があるなら「癒し」となる。
役に立たない部分は「癒し」になる・・・。
(・・・そ、そうかなぁ・・・
あぁ・・・自己弁護という単語が・・・)
「疲れ」は「間」が無くなると起こる。
「間・余裕」が有る時は「疲れ」の状態にならない。
「遊び」の少ない人は疲れやすいのだ。
マジメな人は疲れやすい・・・。
その「疲れ」は相手まで巻き込む。
遊びの無い人は・・・迷惑をかけている。
誰でも赤ちゃんだった。
誰でも幼児だった。
誰でも童子だった。
誰でも「遊び」の生き方をしていた。
社会的という固定概念。
「遊び」が反社会的という固定概念。
ある時代に国民を動かす為に意図的に作った。
「遊び」は「心を自由」にしてしまうから。
各自が自由になると・・・国がまとまらない。
戦争に「遊び心」は不向きなのだ。
今・・・「遊び」が少ない時代になった。
一見「遊びだらけ」のようにも思える。
だが「間・余裕・愛」が無い「偽遊び」だ。
誰かが・・・意図しているとしたら・・・
この国や世界は再び三度、キナ臭い。
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」