水上陽平の独善雑記

水上陽平流の表現でいろいろな事を書いています。本館は http://iiki.desu.jp/ 「氣の空間」

遊・12

2005-12-17 22:58:08 | Weblog

「間・遊び」があるかどうか。
通常では判り難い。
人は口では嘘をつける。
心は誤魔化せる。
態度も作れる。

本人が言っても信用できない。
本来、人は信用する対象じゃない。
人は自分でも気づかぬまま、嘘を言う。
自分で信じても、間違いは常にある。
心を誤魔化すのは日常茶飯事なのだ。
自分だって信じられないのだ。
信用するのは無茶というものだ。

人は常に間違う。
故意に、あるいは無意識に嘘も言う。
だから、人は信じる対象でない。
人は・・・愛する対象だ。
未完成品だから、愛する対象なのだぞ。

ところが、ギリギリの「場」になる。
ギリギリの「時」に出会う。
すると「間・遊び」の有無が判るのだ。
崖っぷちでは本性が現れる・・・。

片足しか地に着けない状態。
「間・遊び」があれば、先に進める。
ここで駄洒落が言えれば、何とかなる。
目を瞑り、屁が出れば、笑える・・・。
笑えれば、何とかなるもんだ。

この世はヒネクレている仕組みだ。
大平原で作られた余裕は消えてしまう。
余裕での「遊び」は儚いモノなのだ。
だが崖っぷちの「遊び」は消えない。
「遊び」が道を切り開く。
余裕のない場・時の「遊び」は豊かになる。

今、崖っぷちの諸君。
君達はラッキーの真っ只中だ。
綱渡りの諸君。
君達は豊かな人生を手にしている。

手にした「間・遊び」。
離すも活かすも自由だ。
キリちゃん(イエス)は言った。
「貧しい者はラッキーだぜ。
一番天国(充実した幸せの人生)に近いぞ」


(本館は 「氣の空間・氣功療法院」
コメント
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