「間・遊び」があるかどうか。
通常では判り難い。
人は口では嘘をつける。
心は誤魔化せる。
態度も作れる。
本人が言っても信用できない。
本来、人は信用する対象じゃない。
人は自分でも気づかぬまま、嘘を言う。
自分で信じても、間違いは常にある。
心を誤魔化すのは日常茶飯事なのだ。
自分だって信じられないのだ。
信用するのは無茶というものだ。
人は常に間違う。
故意に、あるいは無意識に嘘も言う。
だから、人は信じる対象でない。
人は・・・愛する対象だ。
未完成品だから、愛する対象なのだぞ。
ところが、ギリギリの「場」になる。
ギリギリの「時」に出会う。
すると「間・遊び」の有無が判るのだ。
崖っぷちでは本性が現れる・・・。
片足しか地に着けない状態。
「間・遊び」があれば、先に進める。
ここで駄洒落が言えれば、何とかなる。
目を瞑り、屁が出れば、笑える・・・。
笑えれば、何とかなるもんだ。
この世はヒネクレている仕組みだ。
大平原で作られた余裕は消えてしまう。
余裕での「遊び」は儚いモノなのだ。
だが崖っぷちの「遊び」は消えない。
「遊び」が道を切り開く。
余裕のない場・時の「遊び」は豊かになる。
今、崖っぷちの諸君。
君達はラッキーの真っ只中だ。
綱渡りの諸君。
君達は豊かな人生を手にしている。
手にした「間・遊び」。
離すも活かすも自由だ。
キリちゃん(イエス)は言った。
「貧しい者はラッキーだぜ。
一番天国(充実した幸せの人生)に近いぞ」
(本館は 「氣の空間・氣功療法院」