松江城の内堀の幅の狭くなった樹間を堀川遊覧船が巡って行きます。 その途中、遊覧舟一艘がやっと通れる様な場所がある事から、屋形船の屋根は、その都度低くすることが出来る様になっています。 そんな個所を通過する際には観光客も「わぁ~」と、一斉に声を上げたりしています。 かつてこの堀川沿いの家には、作家、志賀直哉が父親と深刻に対立して、創作活動にも悩みを抱えていた青年期、ひと夏を過ごした借家がありました。 それは城の裏手の亀田橋の近くであったようです。 同じく大正初期、芥川龍之介が相次いで松江を訪れ、この内中原町で暮らしたことあるそうです。 明治大正期の画家や作家等は、地方の旧家などに逗留しながらこうして全国を旅して、秀作を書き(描き)残したと言います。 ~また、志賀直哉と里見が一緒に山陰で遊んだのは、1914年であった。松江に来て大橋から宍道湖を眺望した里見は、『ある年の初夏』のなかで、「やっぱり出掛けてきてよかった」と印象を記している。 「騒々しい停車場を出て、陽炎のユラユラ揺れている駅前の広い砂利場に立った時には、いかにも新開地といった風なひどくザラついた印象を受けてうんざりしてしまったが、車があの名高い大橋にかかって、左に渺々たる宍道湖を、右に船舶や橋の河岸の家々が映った大川を眺めた時には、“ああやっぱり出掛けてきてよかった”と思った。」 松江で志賀と里見は別に家を借りて3か月を過している。 志賀直哉は、松江での暮らしは心の安まる毎日であったようで、『濠端の住い』のなかで、その暮らしぶりを次のように描いている。 「一ト夏山陰松江で暮らした事がある。町はづれの濠に臨んだささやかな家で独り住まいには申し分なかった。庭から石段で直ぐ濠になっている。 対岸は城の裏の森で大きな木が幹を傾け、水の上に低く枝を延ばしている。水は浅く真菰が生え寂びた工合、濠と云ふより古い池の趣であった。」 「私は此処で出来るだけ簡素な暮らしをした。人と人との交渉で疲れ切った都会の生活から来ると、大変心が安まった。虫と鳥と水と草と空と、それから最後に人間との交渉ある暮らしだった。」 山陰のおだやかな空と雲、水、そして虫と鳥と魚、志賀と里見にとっては、思いもかけない贈りものであったようだ。もともと松江を訪れることにしたのも、ヘルンが気に入った町という理由だけであるから、水郷松江のたたずまいは新しい発見であった。 こころで旅の楽しみ方は各人各様であるが、事前にそんなことまでリサーチした上で、旧跡などを訪ねる若者もいる様ですが、残念ながら「この旧跡」の表示は私の知る限りではありません。
Lionel Richie - I Call It Love