鉛筆画 高倉健
一昨日の夜、夜も更けてから電話のコール音に飛び起きました。 「今の時間に一体なんだろう?」と。。。私は21歳で結婚しましたが、その時に仲人を務めて頂いた方の訃報でした。 私の年齢を考えれば、あってもおかしくない高齢の方、しかし人生の節目に於いて大きな縁を頂いた人です。 寂しい限りです。 そんな訳で、朝までうとうとしながら、一夜明けて、昨日は告別式に参列して来ました。 告別式で読経を聞きながら、いつも思い巡らすのは、;人生とは儚いものだと記された浄土真宗・御文章「白骨の章」です。
<白骨の章:意訳>
「さて、人間の内容の無い生活の様子をよく考えて見ますと、およそ儚いものは、人間の生まれてから死ぬまでの間のことで、それは幻のような生涯です。 それゆえに、いまだ一万年の寿命を授かった人がいたなんてことを聞いた事がありません。 人の生涯は過ぎ去りやすいものです。 今までに誰が百年の肉体を保ったでしょうか。〔人の死とは、〕 私が先なのか、人が先なのか、今日かもしれないし、明日かもしれない、人より後であろうが先であろうが、草木の根元に雫が滴るよりも、葉先の露が散るよりも多いといえます。 それゆえに、朝には血色の良い顔をしていても、夕には白骨となる身であります。 もはや無常の風が吹いてしまえば、即座に眼を閉じ、一つの息が永く絶えてしまえば、血色の良い顔がむなしく変わってしまい、桃やすもものような美しい姿を失ってしまえば、一切の親族・親戚が集まって嘆き悲しんでも、どうする事もできない。 そのままにはしておけないので、野辺に送り荼毘に付し、夜更けの煙と成り果ててしまえば、ただ白骨だけが残るだけです。 哀れと言っただけでは言い切れない。人生の終わりは、年齢に関わりなくやってくる。 だからどのような人も「後生の一大事」を心に留めおき、心から阿弥陀仏に頼み申上げて、念仏申すべきであります。」と言うものです。
即ち、死は、年齢を問いません。 だから、その日暮らしの生活ではなくて、これからの生き方を考えてください。と言う事。。。。宗教・宗派に関係なく噛み締めるべき御文章ではないでしょうか。(これは、私の偏見なのかもしれませんが)
告別式からの帰り道でのこと、宍道湖沿いに国道を東進中、松江市内に入った地点で見付けた、あの白鳥(かつて、松江市浜佐陀町の漁港でよく撮っていた、あのコブハクチョウのつがいです。)に出会えました。 多分このまま周年、宍道湖周辺で過ごすのでしょう。
雛を連れていないところを見ると、今年は繁殖しなかったのでしょうか。