長崎への原子爆弾投下から、75年目の暑い暑い夏
8月9日午前11時02分・・・ただただ、黙とうを捧げました。
長崎の鐘
『長崎の鐘』は、松江市出身の永井隆博士がその体験をもとにが執筆した随筆。その内容は、長崎医科大の助教授であった永井が、原爆爆心地に近い同大学で被爆した時の状況と、右側頭動脈切断の重症を負いながら被爆者の救護活動に当たる様子を記録したもの。 被爆時に大学をはじめとする長崎の都市が完全に破壊された様子、火傷を負いながら死んでゆく同僚や、市民たちの様子を克明に描いている。 永井は、この時妻を亡くした。 また、救護の際には、頭部の重症と疲労から自らも危篤状態におちいるが、同僚医師や看護婦たちの努力により一命を取り留める。
「長崎の鐘」とは、廃墟となった浦上天主堂の煉瓦の中から、壊れずに掘り出された鐘のこと。 作品は昭和21年8月には書き上げられていたが、GHQ)の検閲により、すぐには出版の許可が下りなかった。 精神科医の式場隆三郎が創刊に関った『東京タイマズ』に「原爆病患者の手記」の連載を始めると大いに話題になり、1948年、永井隆の『生命の河』がやはり式場隆三郎の経営する日比谷出版社から出版された。 『長崎の鐘』は、GHQ側から日本軍によるマニラ大虐殺の記録集である『マニラの悲劇』との合本とすることを条件に、昭和24年1月、同じく日比谷出版社から出版され、紙不足の当時としては空前のベストセラーとなった。 永井自身は、「なかなか出版してくれる出版社がなく、式場隆三郎氏などの尽力により出版にこぎつけた」と本書序文に書いている。 同年7月に同書をモチーフとした歌謡曲が発売されて大ヒットした。
(出典:ウィキペディアより)
作詞 サトウ ハチロー、作曲 古関 裕而
1、こよなく晴れた青空を
悲しと思うせつなさよ
うねりの波の人の世に
はかなく生きる野の花よ
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
2、召されて妻は天国へ
別れてひとり旅立ちぬ
かたみに残るロザリオの
鎖に白きわが涙
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
3、つぶやく雨のミサの音
たたえる風の神の歌
輝く胸の十字架に
ほほえむ海の雲の色
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る
4、こころの罪をうちあけて
更け行く夜の月すみぬ
貧しき家の柱にも
気高く白きマリア様
なぐさめ はげまし 長崎の
ああ 長崎の鐘が鳴る