2008年に下記のような文章を書いたが、若干手を加えてみた。
元薬師寺管長 橋本凝胤はなかなか面白い昭和の傑僧の一人である。断言坊主とあだ名されるほど断定的にものをいう、つまり「決定(けつじょう)の説」の吐く和尚だった。
秀逸なのは「
ある時、ある新聞のインタビューで受けた質問は「仏教は地動説をどう考えるか」というものだった。彼の回答は「地動説は中学時代に習ったので知っている。しかし、仏教は天動説だ。人はどうあれ、オレは天動説だ。それで何の不都合もない」と嘯いていたとのことである。
しかし、仏教の世界観は違うのである、仏教僧としてその世界観で彼は生きて来たというわけである。
私も天動説をとる。もちろん、地動説を否定するわけはない。が、天動説と地動説の違いは、視点の違いに過ぎないのである。地動説を確認するためには太陽系の外に視点を持っていかなくてはならない。現実にはそんなところに視点を持っていけないから頭で計算して想像するしかない。要するに頭の中で作られた物の見方の一つに過ぎないのである。
一方、我々はその動く地球に乗っかって視点をそこにおいて、そこでいろいろ体験していて生きている、視点はいつも自分のいるところに固定されている、それが現実なのである。
朝、日が昇る、これは地球が東の方向に回転しているのだと実感するであろうか。日の出、日の入りで生活のリズムを刻んで生きているのである。何万年も人間はそれで生きてきたのである。地動説なんかで生きてはいないのである。
世界の中心は視点のあるところである。天も地も自分を中心として動いているのである。カーナビ付きの自動車に乗っているように。
「行き先に我が家ありけり カタツムリ」
客観を考えるのも我が主観である。