十方世界共生山一法寺

自己の世界を建設しよう
 日本のことも世界のことも自分自身のこともみな自己の内のこと。

「宇宙の真ん中に自分がいる」というのは思い込みか?

2025年02月28日 | 一法言

 下の文章は仏教学者 佐々木閑氏が著書「真理の探究」という本に書かれたものですが、私と考え方が逆なので長くなるが引用させてもらった。まず、それを読んでもらいたい。なるほど、大概の人は納得できる文章である。

 さて、天動説と地動説については、地動説が正しいというものではないと前に書いた。

 仏教は自己が根本。宇宙があってもそれを認識する自己の存在がなければそんな宇宙は意味がない。自己が生まれて宇宙の意味のあるものになる。

 もっと、端的に言えば私が生まれて宇宙も存在するのである。私の誕生以前の宇宙は過去であり既になくなってしまっている。私が生まれることによってそこから宇宙も新しく存在することになるのである。私あっての宇宙なのである。
 
 私は宇宙の中にあってはその中の一かけら、しかし、その一かけらがないと宇宙は崩壊、存在しえないのである。部分と全体、どちらも欠くことはできないのである。

 さて、そんな宇宙はどうなのか。私の周りに展開しているというほかはない。宇宙の外に視点を持っていくことはできない。それは頭の中で考えた宇宙でしかない。

 私の周りに宇宙が展開して以上私がその中心にいるのが理の当然である。

 仏教世界は自己を中心とする世界である。六根があって六境があって六識がある、つまり、十八界が仏教世界である。禅仏教はそれを尽十方界真実人体とかいう。

 内山興正老師の図を参考に見てもらうと理解し易いと思う。

 

 ーーー(引用文)ーーー
「宇宙の真ん中に自分がいる」という思い込み

 それでは、人間には生まれつきどんな偏見や先入観が刷り込まれているのか。
 
 いちばん根っこの部分にあるのは、「宇宙の真ん中に自分がいる」という思い込みです。自分が宇宙の中心にいて、そのまわりに世界が同心円状に広がっている。目に見えるのはそういう風景ですから、この発想はごく自然なものでしょう。そのため私たちは、自分のいる中心部分がいちばん濃密な世界で、遠くへ離れるほどそれが薄まっていくようなイメージを抱きがちです。「世界は自分を中心に動いている」という世界観です。 

 しかし、この世界をよく見れば、そんなイメージは錯覚にすぎないことが分かります。自分が中心に存在する宇宙などありえないのに、どういうわけか私たちは勝手に自分が真ん中にいるように思ってしまう。そして、そういう偏見に基づく形で自分の世界観を構築し、そこから苦しみを生み出しているのです。
  
 そんな刷り込みを自力で外すためのトレーニング方法を説いてくれるのが、仏教にほかなりません。そこに、科学との接点があります。
   
 自分を宇宙の中心に置く世界観と言えば、誰でもすぐに天動説を思い出すでしょう。夜空を見上げれば、無数の天体が回転しているように見えるのですから、天動説はごく自然なものの見方でした。現代人だって、何の知識もなしに夜空を見れば、私たちの住む地球が宇宙の中心にあると思うでしょう。
 
 しかし、科学はそういう思い込みを引きはがして、地動説に到達しました。もちろん地動説にも、当初は、惑星の軌道を「完全なる円である」と見なすような思い込みがありましたが、それものちの研究によってあらためられています。 

 そうやって、科学は私たち人間が当たり前のものとして信じ込んできた世界観を次々と書き換えてきました。とりわけアイザック・ニュートン以降の近代科学は、人間が錯覚や思い込みを一枚ずつ引きはがし、想像もつかなかったこの世の真の姿を明らかにしてくれています。

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成仏とは?

2025年02月25日 | 一法言

ヤフーの知恵袋で「成仏できるか?」と質問があり、次のとおり回答した。参考までに。

ーーー
 「一切衆生 悉有仏性」 ですから、成仏できます。

 お釈迦さんのような仏になるのは難しいでしょうが、道元禅師の説くような仏なら誰にでも簡単になれます。

 彼は言います。 「修証一如」 修とは坐禅のこと、証とは悟りです。 「(衆)生も時なり 仏も時なり」 ただ坐るだけの只管打坐の坐禅を行じる時、もうそこに仏が現成しているということです。

 「一寸坐れば一寸の仏」です。一寸とは線香の一寸燃える時間のことです。 座から立った後もどれだけその心境でいられるかが問題ですが・・・。

 念のために申し上げておくと、今流行りの瞑想では悟れません。 瞑想は八正道の正念のレベルです。悟りは無念無想無観の正定です。 只管打坐の禅定でなければなりま
せん。

 

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天動説か地動説か 三つの視点

2025年02月16日 | 宇宙

1月21日に「天動説か地動説か」で記事を書いたが、一部を転記して書き直したい。

「私も天動説をとる。もちろん、地動説を否定するわけはない。が、天動説と地動説の違いは、視点の違いに過ぎないのである。地動説を確認するためには太陽系の外に視点を持っていかなくてはならない。現実にはそんなところに視点を持っていけないから頭で計算して想像するしかない。要するに頭の中で作られた物の見方の一つに過ぎないのである。」

「私も天動説をとる。もちろん、地動説を否定するわけはない。が、天動説と地動説の違いは、視点の違いに過ぎないのである。地動説を確認するためには太陽に視点を持っていかなくてはならない。現実にはそんなところに視点を持っていけないから頭で計算して想像するしかない。要するに頭の中で作られた物の見方の一つに過ぎないのである。さらにもう一つの視点がある。それは太陽系の外に視点を持っていくことである。そうすると太陽も地球も動いている。天体が全て動いていることになる。天動説となるのである。」

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紀元節を祝う

2025年02月10日 | 世相

 明日、紀元節に当たり、去年、書いた文章を若干手直しして掲出する。

 

「神話をなくした民族は命をなくす」(フランス神話学者 デュメジル) 

 先ほど「海道東征」を先程聞いてみたところである。

 交声曲「海道東征」は昭和15年(1940年)皇紀二千六百年祝福のために作られた。北原白秋作詩、信時潔作曲、による交声曲で神武天皇東征の神話を題材としている。

 https://www.youtube.com/watch?v=8UqGPJA0PHA

 このレコードが作られのが、昭和16年11月、ちょうど私が母親のお腹の中にいた時期である。

 

今年は皇紀2685月年である。西暦に660年加えたものである。そんな古い時代に神武天皇が即位したのか、その後百歳を超える天皇が何人も出てくる、おかしい。
 それで神話にしてしまって架空のことにされてしまっている。

 私なんかも勝手に国ができたわけではないし、誰かが造ったに違いない、似たようなことがあってそれが神話として残っているのだろうと思っていたが、古代史研究家 長浜浩明氏の説でぐっとその実在性が信じられるようになった。

 彼の説によると当時春秋暦が用いられていたというのである。春分の日、秋分の日で年が変わり今の1年が2年に数えられていたというのである。天皇の歳も普通の歳になる。

 それで換算してみると、神武即位の日はBC70年となるということである。当時の大阪は東大阪市日下(くさか)まで舟で行くことができる地勢だったという。

 まあ、どこの国も建国の神話はある。話が盛られたり、盛って受け止められたりしている。新しくできた国はそうであろう。そうでないと国という形は作れない。
 それは、権力闘争だから血なまぐさいドロドロしたものが必ずあるはずだが、美しいものにしてしまっている。
 それも仕方がない。国の始まり、国民のアイデンティティとなるものだからである。

 その点日本はBC70年にしても国としては世界最古の国である。大事に守っていきたいものである。

 前にも紹介したが長浜浩明氏の話を聞いてみられたい。

https://www.youtube.com/watch?v=-qwim83ScRY
https://www.youtube.com/watch?v=IQUJxqCoAjk
https://www.youtube.com/watch?v=yyumrh9Z83s

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