今日は彼岸の中日で各寺院では彼岸の法要が行われたことと思う。我が家にも寺から案内が来ていたが意義を感じないから行かなかった。
ところで、私はこの彼岸という言葉は佛教の教えにそぐわないように思うのである。
我々凡夫は此岸、つまりは迷いの世界にいて、いずれ理想の世界である悟りの世界、あるいは佛の世界である彼岸にたどり着きたいと思っている。
つまり、今いる世界から向こう岸に移動し、そこの人間になるというようなイメージである。
そういうイメージで佛道修行をするならどうせ中途半端なことになってしまうことは間違いない。
何となれば自己は自己の世界を持っていて、いつだってその中心にいるのであるから、本来どこへ行くということはないのであるからである。その世界を佛的世界とするか、はたまた凡夫的世界を現出するかという話なのである。
つまり、今ここにおける心のモードの切り替えの話なのである。地獄、餓鬼、畜生、修羅、人間、天上、声聞、縁覚、菩薩、佛の十界というモードを切り替える。モードを切り替えればそこにその世界が浮かび上がってくるのである。
人間なら10モードを持っていてそれを切り替えつつ生きているのである。人間が一つのモードで生きるなんてことはあり得ない。勿論、理想的には佛モード、菩薩モードで生きるのが願わしいのは当然と思うところだが・・・。