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沖縄平和運動のリーダー・山城博治氏らの長期勾留に国際環境NGOが声明文を発表!

2017-01-13 | ウチナー・沖縄
「環境破壊、人権侵害、民主主義の破壊に他ならない」〜環境保全活動への弾圧は「世界的な流れ」との指摘も
岩上安身責任編集 - IWJ Independent Web Journal-2017.1.12
 公務執行妨害などの容疑で逮捕・起訴され、すでに70日以上も勾留され続けている沖縄平和運動センター議長・山城博治氏。2015年には悪性リンパ腫で入院。闘病生活を経て復帰を果たしたが、現在も体調に不安を抱えている。
 大きな事件でもない限り、起訴後は釈放されるのが常だが、今も弁護士以外の接見さえ認められておらず、長期勾留が続いている。現在、「山城博治さんらの釈放を!」と題した署名も呼びかけられている。
(参考サイト https://www.change.org/p/%E5%B1%B1%E5%9F%8E%E5%8D%9A%E6%B2%BB%E3%81%95%E3%82%93%E3%82%89%E3%82%92%E6%95%91%E3%81%88)

▲集会「山城博治さんらを救え!」で掲げられた山城博治氏釈放を求めるポスター(2017年1月12日)
 那覇地裁はIWJの取材に対し、「山城氏を保釈するかどうかは裁判の中で判断していくので、現段階では何とも言えない」と回答。健康状態を考慮して保釈する可能性については、「総合的に考慮した上での判断になる。現状のままではおそらくそのまま勾留が続く」と話している。
 76か国にネットワークを持つ環境NGO「FoEインターナショナル」(本部:オランダ)が2017年1月9日、山城氏の釈放を求める声明を発表した。2017年1月12日、IWJのインタビューにこたえたFoE Japanの理事・満田夏花氏は、声明の主旨について次のように述べている。
 「なぜ環境NGOがそんな声明を出すのか、と思われるかもしれないが、今、世界的に、先住民族の使っている森を守る運動や、あるいはダム建設に反対する運動のリーダーたちが弾圧を受けています。そうした世界的な流れがある中で、日本では、米軍基地建設に反対する地元の運動への威嚇が行われています。環境というのは地域の資源でもあります。これを守るのは民主主義、草の根の運動ですから、環境NGOの立場としても放置できません」
■全編動画
https://www.youtube.com/watch?v=-WjyMc4miY8
FoE Japanは高江の市民運動を弾圧する機動隊などの活動について、その法的根拠や不当性を問う行政交渉も行っている。
以下、FoEインターナショナルの声明文を転載する。
FoE インターナショナル 声明
 沖縄の米軍基地建設に反対する人々への連帯を表明し、山城博治さんの解放を求めます
 FoE インターナショナルは、最近の沖縄での米軍基地建設に反対する人々の逮捕、長期拘留に深い懸念を抱いていることを表明します。
 沖縄平和運動センター議長であり、抗議活動のリーダーでもある山城博治氏は70日以上に及び拘留されており、他にも抗議者が拘留されています。抗議に参加する地元のグループや個人は、故郷の森と平和な生活を守るため、非暴力のルールに従いながら、沖縄における米軍軍事施設の建設に長年反対してきました。
 山城氏の状況は特に懸念されます。過去に大病を患った山城氏には定期的な検診が必要ですが、弁護士以外、家族でさえ接見が制限されています。
 FoE Japanは現在、山城氏やその他の拘束された人々を解放するためのキャンペーンをサポートしています。
 FoEインターナショナルは抗議者に対する長期拘留と不当な扱いに非常に強い懸念を抱いています。沖縄現地の人々が新基地建設に反対しているにもかかわらず、日本政府は強硬に建設を推し進めています。これは環境破壊、人権侵害、そして民主主義の破壊に他なりません。
 FoEインターナショナルは、平和や正義を求めて米軍基地建設に反対する人々への連帯をしめし、山城博治氏を含む抗議者の即時解放を求めます。
▼原文はこちらから
http://www.foei.org/news/solidarity-peaceful-protest-us-military-construction-okinawa-requesting-release-hiroji-yamashiro
http://iwj.co.jp/wj/open/archives/356115

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「樺太は島だ」。命を賭して証明した江戸の探検家・間宮林蔵の生涯

2017-01-13 | アイヌ民族関連
まぐまぐニュース!2017.01.13 4

北海道の北に位置する樺太島(ロシア名:サハリン)。遥か昔、江戸時代にこの樺太が「島」であるという事実を発見した日本人がいました。今回の無料メルマガ『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』で紹介されているのは、徳川家に仕えた探検家・間宮林蔵の功績。蝦夷地の各地を荒らし回っていたロシア艦に捕らえられる危険も厭わず、そして度重なる悪天候にもめげず、成功するまでは帰国しないと断言した、鋼の意志を持つ探検家の執念の物語です。
間宮林蔵の樺太探検
成功せぬうちは、帰ってくることはいたしませぬ。もしも、失敗に終わった場合には、樺太に残り、その地の土になるか、それともアイヌとして生涯を終えます。再びお眼にかかれるとは思いませぬ。お達者でお暮らし下さい。
間宮林蔵が見送りに来た警備役の津軽藩兵指揮格・山崎半蔵にこう言うと、山崎は言葉もなくうなづいた。その眼には、再び生きては帰れぬかもしれない者を見送る悲痛な光がうかんでいた。
文化5(1808)年4月13日、蝦夷地(北海道)最北端の宗谷の地。海はおだやかで空は晴れていた。林蔵はここから18里(71キロ)の海を渡って、樺太に出発する所であった。前年、蝦夷地の各地を荒らし回ったロシア艦が再びやってくると予告していた時期で、もし発見されれば捕らえられる恐れがあった。また樺太には最南端の白主にこそ会所が設けられ、警備の一隊が駐在していたが、それより北は地理も分からず、粗暴な山丹人が大陸側から交易のために往来しているようだった。
この北辺の地理と住民の状況を明らかにしてロシアの南進に備えようというのが、間宮林蔵の樺太探検の目的だった。
蝦夷で生きるには
林蔵は、安永9(1780)年、常陸国(茨城県)筑波郡の農家に生まれた。子供の頃から土木工事が好きで、堰とめ工事の現場に出入りしているうちに、利発さを買われて幕府の普請役雇・村上島之允の使い走りとして働くことになった。村上が各地を測量して地図を作製するのに従って、林蔵は測量技術と健脚を身につけた。
村上が蝦夷地での仕事を命ぜられると、林蔵も一緒について行った。しかし冬の厳しい寒気と野菜不足で足がむくみ、体調を崩した。土地の人から、蝦夷人(アイヌ)は魚と昆布を食べるので、病むこともなく冬を越す、と教えられ、それに従った所、むくみもとれて体調が回復した。
これを機に林蔵は、アイヌと同じ生活をしなければならぬ、と知り、アイヌ語を習い、しばしばアイヌの家を訪れて衣服・家屋・狩猟・漁獲・旅行などについて詳しく調べた。
ロシア来襲
林蔵は村上の助手として測地に従事していたが、文化2(1805)年、25歳のおりに現在の北方領土である国後島から択捉島で海岸線の地図を作り、道路を開くようにとの幕命を受けた。
文化4年4月、林蔵が択捉島に移って仕事をしている最中に2隻のロシア軍艦がシャナ湾の会所を襲った。文化元年9月にロシア皇帝の命を受けて長崎港に入港した侍従レザノフは日本との交易を求めて6ヶ月も待たされたが、すげなく断られたため、怒って武力で威嚇しようと択捉島を襲ったのだった。
会所には230名もの兵がいたが、役人たちは上陸したわずか十数名のロシア水兵に恐れをなして、ろくに戦いもせずに、退却してしまった。林蔵は抗戦を主張したが、上役に退却を命ぜられ、不本意ながら従った。
ロシア艦が去った後、林蔵も会所の役人たちとともに、江戸に送られ、厳しい取り調べを受けた。江戸市中では彼らに対する憤りと蔑みが強かった。幸いにも林蔵は抗戦を強く主張し、また退却後も密かに現地に戻って、ロシア艦の動きを探ろうとした働きを認められ、唯一人「お咎めなし」との申し渡しを受けた。他の役人たちには「不届きの至り」として、免職、家屋敷没収などの処罰が行われた。
樺太は半島か?
江戸に送られる前に林蔵は函館の奉行所に、ロシアへの潜入調査という大胆な上申書を提出していた。敗走者という汚名をそそぐためにも、北辺の防備強化という国益のためにも、という切羽詰まった気持ちから書き上げたものだった。「お咎めなし」と決定した後、この上申書が取り上げられ、林蔵は樺太北部の探検を命ぜられた。
当時、完成しつつあった世界地図で樺太は唯一空白部分として残っており、アジア大陸の東韃靼地方につながる半島だろうと推定されていた。イギリス、フランス、ロシアの艦隊がそれぞれ樺太の西岸を北上して確認しようとしたが、水深が数メートルと浅くなり、やはり半島だろうとして、途中で引き返していた。
林蔵は、宗谷に勤務していた調役下役・松田伝次郎とともに、樺太に渡った。冒頭の「成功せぬうちは、帰ってくることはいたしませぬ」と悲壮な言葉を残したのは、この時のことである。
4月17日に数人のアイヌ人を案内役として、小舟で北上を開始。途中、弓矢や槍をもった住民に危うく殺されかけたりしながら、6月21日には対岸にアムール河(黒竜江)河口が望める地点に到達した。そこから先は樺太と大陸との間は広がっているようで、どうやら樺太は島のように思われた。海面は海草に覆われ、小舟ではそれ以上進めなくなった。舟をこぐアイヌたちは「恐ろしい。帰りましょう」と震える声で言った。
松田もこれでほぼ役目を終えたとして、帰投を決断した。林蔵は不満だったが、年齢も役職も上の松田に従うしかなかった。宗谷に戻った林蔵は報告書を作成すると、ただちに再調査の許可を求めた。自分一人なら危険を冒しても、さらに奥地に行けたはずだ、という思いが強かった。
アムール河を望む
7月13日、宗谷を再出発し、単身で樺太に渡った。前回の危険な探検の有様が伝わっており、案内人に応じてくれるアイヌを探すのに苦労した。なんとか6人のアイヌを雇い入れて、前回よりもやや大きい舟で8月25日に北上を始めた。
9月3日、400キロほども北のトッショカウという土地についたが、途中で山丹人に食料を奪われ、また寒気が厳しくなって、海が凍結すれば魚もとれなくなる。アイヌたちも「南に帰りたい」と言い出した。やむなく林蔵は引き返すことを決断した。途中まで舟で南下したが、海が荒れていたので、1ヶ月以上かけて氷雪に覆われた陸路を200キロも南下し、樺太南部のトンナイに戻った。途中、吹雪になると雪洞(ほら)を作り、天候の回復を何日も待った。
トンナイで年を越して1月29日、林蔵は再び、渋るアイヌたちを説得して、北に向かった。今度は凍結した海の上を歩いていく。4月9日、ノテトという地に着いた。最南端の白主からは500キロ以上も北である。ここには60人ほどのギリヤーク人と二人のアイヌ人男女が住む集落があった。アイヌ人が通訳をしてくれて、酋長のコーニが大陸にある清国領の役所からカーシンタ(郷長)という役人の資格を与えられている事を知った。
コーニは山丹人の作った舟を貸してくれた。そこから先は波も荒く潮の流れも急なので、山丹舟でなければ進めないという。5月8日、ようやく流氷が去って、ノテトを出発。海は次第に狭くなり、対岸の雪に覆われた大陸の丘の連なりが間近に白く輝いている。さらに進むと、海が少しづつ広がり、大陸側に大きな河口が見えた。アムール河である。
この地の北は荒海しかない
2日後、ノテトから110キロ北のナニオーという地に着いた。ギリヤーク人が数家族住んでいる。コーニがつけてくれた通訳を介して聞いてみると、この地の北は荒海しかない、という。確かにアムール河の河口を過ぎると、潮流は二分し、北にも流れていた。これは北側が半島で遮られているのではなく、広い海が開けていることを示している。
歓びが胸にあふれた。林蔵は世界で初めて、樺太が島であることを確認したのだった。さらに一歩進めて、舟で樺太の北端を回り、東海岸を南下して出発地に戻りたかった。しかし、ギリヤーク人はこう言った。
海は絶えず怒り、波がさかまいている。舟など出せば、たちどころにくつがえり、砕け散ってしまう。
丘に登って北方を見渡すと、広い海には一面に白波が湧いて、怒濤が荒れ狂っている。たとえ山丹舟でもひとたまりもないだろう。林蔵はあきらめてノテトに戻った。酋長のコーニは、「よくそんな所まで行ったな」と驚きの声をあげた。
「大陸に連れて行ってくれ」
樺太が島であることは確認できたが、林蔵はさらにこの地がどのように清国に支配されているのかを知りたいと思った。北辺の防備を固めるには、この情報がぜひとも必要だ。そこでコーニ酋長にしばらく村に滞在させてくれと頼んだ。
林蔵は釣りや薪作りを手伝って、コーニから食料を分けて貰った。同時にギリヤーク語を学んで、コーニからこの地の状況をいろいろ聞き出した。海を隔てた東韃靼(だったん)のデレンという地に清国の出張役所があり、コーニも村の代表者として定期的に貢ぎ物を持って行っているという。その地には山丹人、ギリヤーク人、オロッコ人など多くの種族が混住しており、すべて清国の支配下にある由。
林蔵は、清国とロシアの国境がどうなっているのか調べたいと思い、コーニに一緒に大陸に連れて行ってくれ、と頼んだ。コーニは、林蔵の顔からすぐに異国人と判り、粗暴な山丹人に必ず殺されてしまうだろう、と断った。しかし林蔵は言った。
あなたの好意を嬉しく思う。しかし、私は、死を覚悟している身だ。あなたの言われるとおり、東韃靼へ入れば殺されるかも知れないが、私は悔いぬ。ぜひ、私を連れて行って欲しい。
コーニは無言で林蔵を見つめ、長い沈黙が続いた。それから息をつくように言った。「それほどまでに言うなら、連れて行こう」
突如出現した大集落
6月26日、10メートルほどの山丹舟にコーニと林蔵を含めて8人が乗り込み、貢ぎ物や交易品を積んで、東韃靼に向かった。6月なのに風が驚くほど冷たく、濃霧が立ちこめて、衣服が濡れた。林蔵は持参した羅針で西を示した。14キロほど進むと、ようやく霧の中に陸影が現れた。コーニが「東韃靼のモトマル岬だ」と言った。
近くの湾に舟を着け、そこから舟をかついで2キロほどの山を越えると、アムール河に出る。そこから数十キロも河を遡って、ようやくデレンに着いた。そこには無数の小屋に囲まれて、巨大な柵の中に奇異な建物が建っていた。「清国の出張役所だ」とコーニが教えてくれた。荒涼とした大陸に突如出現した大集落に林蔵は夢を見ているようだった。
コーニとともに建物の中に入ると、絵で見た清国人と同じ服装をした役人たちがいた。林蔵が日本から来たと言い、漢字を書いて見せると役人たちは驚いた。清国以外の野蛮人が文字の読み書きができるとは信じられないふうだった。「日本はどの地で清国に貢ぎ物をしているのか」と聞かれて、「貢ぎ物はしていない。長崎の地で貿易をしているだけだ」と答えると、さらに疑わしそうに首をかしげた。林蔵が「ロシアとの国境はどこか」と尋ねると、「国境などあるはずがない。ロシアは清国の属国だ」と答えた。
しばらくデレンの地に留まっている間に林蔵は周囲から情報を聞き出した。清国はこの地に大軍を出して各種族を降伏させ、支配していたが、ロシアが進出して攻防を繰り返した。結局ロシアは敗退し、1689年に結ばれた条約でこの地方から完全に手を引いたという。120年前の事であった。林蔵はデレンで二度ほど山丹人に取り囲まれて暴行されかかったが、危うい所をコーニたちに救われた。
貢ぎ物と交易が終わると、林蔵の提案でアムール河を舟で下って河口まで帰ることとした。数日かけて河を下り、河口に到着すると樺太の北端が見え、その先には果てしない海が広がっていた。林蔵は樺太が島であることを自分の目で確認したのだった。8月8日にノテトに帰り着いた。3日後に遊猟で南下するギリヤーク人の舟に載せてもらい、9月15日、樺太最南端の白主の会所に帰着。再出発してから1年2ヶ月が経っていた。
輝かしい栄光
林蔵は松前に戻ってから、旅行中の日記、野帳をもとに紀行文「東韃地方紀行」、および樺太の地誌「北夷分界余話」をまとめ、さらに樺太と東韃靼の地図「北蝦夷島図」を作成した。地図は詳細をきわめ、つなぎ合わせると縦6尺(18メートル)、横2.7尺(8メートル)に及んだ。翌文化7(1810)年11月、幕府への報告のため、林蔵は江戸にのぼった。
単身で樺太北部から東韃靼まで探検をしたという話は、日本国内で大きな話題になっており、江戸までの各地で藩士や商人たちにもてなしを受け、宿を提供されることも多かった。林蔵が提出した地図と紀行文は、幕府の老中たちの間でも大評判であった。厳しい旅で健康を害していたため、林蔵がお役御免を願い出ると、加増の上、生涯、特定の仕事をしなくとも良いとの沙汰があった。3年前に江戸にのぼった際には、林蔵はロシア艦来襲時の敗走者という汚名を着せられていた。今回はその時とはうって変わって、輝かしい栄光に包まれているのを感じた。
林蔵の樺太探検は、1832年にシーボルトが出版した「ニッポン」の第一巻で欧米社会に紹介された。シーボルトは林蔵が樺太が島であることを発見した世界最初の人物であると記し、その証拠に日本滞在中に入手した林蔵の地図を挿入した。さらに東韃靼と樺太の間の海峡を、間宮海峡と名付けた。これによって林蔵の発見が世界地図の上に永久に残ることになった。
林蔵の探検はわが国の国益にも寄与をなした。40余年後の嘉永6(1853)年に始まったロシア使節プチャーチンと勘定奉行・川路聖謨(としあきら)による日露国境策定交渉において、ロシア側は樺太がロシア領だと主張した。川路が、林蔵が樺太ではただの一人もロシア人を見かけなかったという事実をもって反論すると、プチャーチンはおおいに狼狽した。結局、国境交渉は、樺太の国境はこれまで通り定めないが、嘉永5(1852)年までに日本人と蝦夷アイヌ人が居住した土地は日本領とする、という実質的には日本側の主張で決着したのである。
文責:伊勢雅臣
image by: Flickr
『Japan on the Globe-国際派日本人養成講座』
著者/伊勢雅臣
購読者数4万3,000人、創刊18年のメールマガジン『Japan On the Globe 国際派日本人養成講座』発行者。国際社会で日本を背負って活躍できる人材の育成を目指す。
http://www.mag2.com/p/news/234093


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連携協定 政策提言や人材育成へ 札幌大と道議会 /北海道

2017-01-13 | アイヌ民族関連
毎日新聞2017年1月12日 地方版
 道議会は11日、政策提言力の強化や人材育成を進めるため、札幌大・同大女子短期大学部(札幌市豊平区)と包括連携協定を結んだ。遠藤連議長は「地域課題について大学の専門的な知見を活用し、議論を活発化させて北海道の発展につなげたい」と期待を述べた。
 道議会は同大に政策に関する調査や共同研究を依頼し、研修会に研究者を派遣してもらうことができる。新年度からは道議会で学生インターンシップの受け入れが始まる予定で、学生は議会の傍聴や議員との意見交換会を通して地方自治を学ぶ。
 2月に開会する第1回定例道議会では同大の桑原真人学長による記念講演を予定している。桑原学長は「北海道の歴史やアイヌ文化の研究が充実しており、(北海道の命名)150年といった話題でも有益な提案をできると思う」と話した。
 同様の連携協定は山形県議会や徳島県議会も結んでいる。【藤渕志保】
http://mainichi.jp/articles/20170112/ddl/k01/010/105000c

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道議会活性化へ協定締結 札幌大、女子短大部と

2017-01-13 | アイヌ民族関連
読売新聞 2017年01月12日
 道議会は11日、札幌大学(札幌市豊平区)、札幌大学女子短期大学部(同)の両校と議会活性化に向けた包括連携協定を結んだ。道議会が大学と協定を結ぶのは初めて。
 協定では、両校の教授らを議会に招き政策立案能力の向上を図ることや、議会傍聴などで学生に地域の課題への理解を深めてもらうことを主に想定している。
 道議会議長室での調印式には、道議会全5会派の代表が出席した。遠藤連議長は「人口減少や地域経済の衰退などの課題を解決するため、議会の議論を活発化、高度化させたい」と協定の意義を強調。同大の桑原真人学長は「本学はアイヌ文化などスタッフがそろっている。北海道150年事業をはじめ、様々な提案をしたい」と話した。
http://www.yomiuri.co.jp/hokkaido/news/20170112-OYTNT50013.html

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思い思いのデザイン描く 白老でアイヌ文化工作体験

2017-01-13 | アイヌ民族関連
苫小牧民報  (2017年 1/11)

工作を楽しむ子どもたち
 冬休み中の子どもたちにアイヌ文化に親しんでもらう工作体験が9日、白老町のイオル事務所チキサニで開かれ、町内の小学生や親子など7人が参加した。白老モシリの主催。
 町内で手作り作品の製作を手掛ける樋江井瞳美さん(32)を講師に招き、アイヌ文様を施した手作り時計を製作。コルクボードに文字盤を書いたり、アイヌ文様型に切り取った色紙などを貼り付るなど思い思いのデザインを描き、時計のモジュールを取り付けた。
 白老小6年の吉田奏太君(12)はアイヌ文様を型どった切り抜き作りに苦労したようで「1回目は失敗したけど、2回目は何とかうまくいった」と満足そう。樋江井さんの次男碧(へきる)君(10)は「自分の部屋に飾りたい」と笑顔を見せた。
 この工作体験は毎年開催。講師の樋江井さんも4年目を迎え、根気よく一生懸命取り組む子どもたちの姿に「本当にうれしい」とにっこり。会場の書棚にあるアイヌ関連書籍を児童が自発的に持ってきてデザインを相談する場面もあったといい、「アイヌ文化に興味を持つ子どもが多く、積極的に質問もしてくれた。アイヌ文化に対する魅力をはじめ、理解や関心が浸透していることを実感した」と感激した様子で語っていた。
http://www.tomamin.co.jp/20170146576

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