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ゼンマイ形のアンモナイト、北海道で発見 9000万年前、新種化石 深田地質研

2021-01-01 | アイヌ民族関連
時事通信 1/1(金) 0:28
 北海道北部にある中川町の約9000万年前(白亜紀後期)の地層からアンモナイト類の化石を発見し、新属新種に分類したと、名古屋大大学院生で公益財団法人深田地質研究所(東京都文京区)の研究員村宮悠介さん(27)らが1日付の日本古生物学会英文誌に発表した。アンモナイトは渦巻き状の貝殻のタイプが知られるが、新種化石は山菜のゼンマイのような奇妙な形。当時は海底付近に生息していたとみられるが、生態は謎に包まれているという。
 学名は発見場所の旧地名やアイヌ語のゼンマイから「天塩(てしお)のゼンマイ石」を意味する「ソルマイテス(属)テシオエンシス(種)」と名付けられた。3個体分の化石が見つかっており、最も大きい化石は長さ約10センチ、重さ約20グラム。
 村宮さんが国立科学博物館の重田康成・環境変動史研究グループ長と研究を重ねた結果、貝殻は渦巻き状の部分ができた後、楽器のサクソフォンに似た形に成長することが分かった。中身の体は貝殻の成長方向に移動し、渦巻き部分は空洞となって浮きの役割を担っていたとみられる。貝殻の先端から「足」を出していたと考えられるが、どんな餌を食べていたのかは分かっていない。
 白亜紀後期の北海道は陸地が東西に分かれ、中川町周辺はその間の海だった。アンモナイト化石が多く見つかるため、化石好きの村宮さんが名古屋大4年だった2015年に中川町の小川を訪れたところ、泥岩の中から「テシオエンシス」の最初の化石を発見した。村宮さんは「小さい頃から未知の化石を発見するのが夢の一つだった。新種と分かり、非常にうれしい」と話している。
 新種化石は18日から中川町エコミュージアムセンターで展示される。 
https://news.yahoo.co.jp/articles/5c3ae6fe8e3d3d0849d4af7b31b5b62482a0d8f2

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【三船敏郎生誕100年記念】「価値ある男」メキシコでの撮影秘話

2021-01-01 | 先住民族関連
キネマ旬報 2020/12/31(木) 13:36
スティーブン・スピルバーグやアラン・ドロンといった世界を代表する映画人と対等に仕事をし、尊敬された日本人はいただろうか?
「世界のミフネ」と呼ばれた三船敏郎 生誕100周年を記念し、創刊100周年を迎えた「キネマ旬報」に過去掲載された三船敏郎に関するよりすぐりの記事を「キネマ旬報WEB」にて連載する特別企画。過去に「キネマ旬報」に掲載された記事を読める滅多にないこの機会をお見逃しなく。
今回は1961年9月下旬号「キネマ旬報」に掲載された、映画「価値ある男」の撮影を終え、メキシコから帰国した三船敏郎本人へのインタビューをお届けします。
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映画界で、純金製男性 一 100パーセント男性の爽やかさを持っているのは三船敏郎と、裕ちゃん。映画以外いっさい目をくれないというのも、このひとらしくうれしい。
外国から狙われた男
山本恭子(以下、山本):メキシコからお帰りになってもう大分になりますね。
三船敏郎(以下、三船):ちょうど一と月くらいですかネ。
山本:そのあいだインタビュー、インタビューで、うんざりなさったでしょう?おきらいなことだから……。
三船:いや別に。ぼくはなんにも喋らんから……(笑)
山本:でも、これからさっそくお訊ねしますけれど、よろしくお願いします。(笑)
三船:満足な答えができるかどうかわかりませんがね。
山本:三船さんが、外国から映画出演の申込みをお受けになったのは、こんどがはじめてじゃありませんね、だいぶ前に、イタリア映画に出演のお話があったんじゃないですか?
三船:ええ、「七人の侍」をやってるとき、「アッチラ大王」に出演の話がありましたけれども、「七人-」が撮影に一年かかっちゃったので、だめになりました。
山本:じゃあ、向うで諦めちゃったわけですね。
三船:まあそうですな。あれは、アンソニイ・クインが代りに出たのが日本へ来ましたね。
山本:「侵略者」という題名で……。
三船:その他、小さな話はたくさんあったんですよ。「サランボオ」というのもあったし、最近では、アンソニイ・クインと谷洋子の共演したのがあったでしょう?エスキモーの話で……。
山本:ええ、ええ「バレン」。
三船:あれも、最初は東宝と合作の話だったんです。こっちのステージを使おうとかなんとかだったんですけれども、うまく話がまとまらなかったんですね。ディズニーで、早川雪洲さんの出たものも……。
山本:「南海漂流」という題名で、RKOにはいってますね。
三船:なんでも船が難破して、海賊に助けられる話ですよ。
山本:すごく狙われていらっしゃるんですね、外国から狙われた男。(笑)
三船:そうじゃないんですけれども。個人的にきたのはそれくらいです。他にもそうでないのがチョクチョクあったようです。
山本:今度のメキシコ(「価値ある男」)のお話は、どんないきさつで、まとまったんですの?
三船:今度の映画のイスマイル・ロドリデス監督は非常に熱心な人で、最初話があったのは一昨年のことなんです。メキシコから照会があったんですが、ほったらかしておいたんです。それから去年、ぼくがロスアンゼルスへ行ったときも、やかましく言ってきたんですが、そのときも忙しかったので、そのままニューヨークへ行ったら、向うのホテルへ電話をかけてきて、どうだと言うんですね。旅先で、ぼく一人では勝手にすぐきめるわけにはいかんから、日本で改めて話をしたいと言って帰ってきたんですよ。そしたら、イスマイル・ロド・リゲス氏が、去年の十月に日本へやってきたんです。
山本:へえ?とうとう日本まで?
三船:ええ。脚本を持ってきてこれだというんです。「価値ある男」となってましたけれど、どういうんでしょう?だれか変てこに訳したんじゃないかな。原題は「animas Trujano」というんです。話を簡単に言うと、メキシコはカソリックが浸透していますから、小さな町でもぜんぶ教会を中心に町ができているところだし、そういう宗教的行事が一年三百六十五日くらいあるわけです。そのお祭りの主宰者ですか、そういうようなもので、町会の総代みたいなもの、マイヨルドーモというのですが、それになりたい奴の話なんですね。
山本:そして、それになれるんですか?
三船:結局なれるんですね。あんまり向うが熱心なんで、その脚本を翻訳して、黒沢(明)さんや菊島(隆三)さんに見せたんですけれど、面白そうじゃないかというし、それにイスマイル氏は契約してくれなかったら帰らないというし、(笑)二週間も毎日足をはこんでくるんです。
山本:ついにそれにはほだされて……?
三船:太平洋を隔ててはいるが、まあ隣りの国だし(笑)、日本とメキシコを結ぶ絆にもなるのじゃないかということでね。
山本:なんだか、ギャラはおきめにならかったとか?
三船:ええ、出演料といったものの代りに、フィルムを日本へもらうという条件です。もちろん往復の旅費とか滞在費は別ですがね。イスイマル監督曰く「われわれ映画で飯を食ってるんだから、映画を通じてもっと民間外交に役立てなければならない」なんていうような、立派なことを言うもんだから、ぼくも賛成々々、そうだ、そうだというわけで引受けちゃったんです。(笑)
山本:こちらのウィーク・ポイント、いや、ストロングですか(笑)それをっいてきたわけですね。イスマイル監督は、前から三船さんの映画を見ていたんですか?
三船:だいたい見ていましたね。
山本:それで惚れこんだわけね。
三船:そういうわけでもないでしょうが、いけるんじゃないかということで話を持ってきたんですね。初めは彼も半信半疑のところはあったんでしょうね。ぼくの扮するのは、日本人じゃなくて、メキシコの先住民族の純メキシコ人ですからね。インディオと言ってますがね。アニマス・トルファーノという名の人物です。こっちも不安だったから、扮装して、「これでいけるか?」と言ったら、「大丈夫だ」というんでね。喋るのがスペイン語だというから、はじめはどうかと思っていたんですが……
山本:ぜんぜん、吹き替えなしですか?雑誌なんかで拝見した記事に、台詞はぜんぶ暗記なすったって出てましたけれど……
三船:元来台詞というものは暗記するもんですからね。覚えていかなきゃなりませんよ。
山本:しかし、スペイン語でしょう?前に勉強なさったことがあるんですか、少しくらい?
三船:いや、丸暗記です。単語の意味なんかも一つもわかりやしない。これが覚えられなかったら、九官鳥やオウム以下だと思ってね。(笑)
山本:台詞の数は?
三船:六百いくつで、なかには長ったらしいのもあるんだから、演説じゃないけれども。いちばん困ったのは、せっかく覚えたのが、向うへ行ってから後半、ずいぶん変ってきちゃってね。覚え直さなきゃならないし、前に覚えたのが邪魔するし、こりゃえらいものを引受けちゃったと思ったが、いまさら帰るわけにもいかず、しようがないから、やっちゃいました。(笑)それがAPにはいった通信では、向うでメキシコ各界の名士を集めて試写会をやったところ、これが大へん反響があって、絶讃されたというんですね。それで、イスマイル氏はハリキッちゃって、ヴェニス映画祭へ出品することになったそうです。
山本:そうすると、三船さんは主演者としてヴェニスへいらっしゃらなきゃァ。
三船:急遽行くことになったんですよ。日本からは「用心棒」を出すんです。これは招待出品ですが、ヴェニスの場合には、招待出品でも賞の対象になるんです。
山本:三船さんのものが、日本とメキシコと、二本になるわけですね。それはますます御苦労さんですね。外国へ行ったり、外国で仕事をしたりすることは、ずいぶん疲れませんか?
三船:それほどでもないですな。
黒沢式演出?のメキシコ映画
山本:メキシコの撮影所の設備というのは、立派なんですって?
三船:立派ですよ。中南米ではメキシコとアルゼンチンがいいといわれてます。
山本:メキシコは、映画の質もいいものがありますね。日本にエミリオ・フェルナンデル監督の「真珠」というのが来ましたけれど……。
三船:その監督さん、今でも活躍してますね、みんなが、めいめいプロダクションを持って映画を作っています。国立映画銀行というのがあって、映画製作専門に融資をしています。全国の映画館の六〇%くらいは、国家経営なんですね。国民に安い娯楽を提供しようということで、入場料は四ペソ日本円で百二十円くらいかな。
山本:一本の製作費にどれくらいかけるんでしょう。
三船:こんどの場合は、だいたい中級作品の上くらいでしょうね。日本の金でどのくらいかけてるのかな。こないだ日本で封切られた「ぺぺ」。あれはメキシコのスター(カンティンフラス)が出演した映画ですけれど、ハリウッド製で、コストが高くてメキシコでは上映できないそうです。四ペソの安い入場料では……。
山本:撮影所の設備なんか、例えば東宝なんかとくらべてどうですか?
三船:ステージなんか、ずいぶん大きいのがありますね。三十五くらいステージのある撮影所なんだが、冷房装置なんかはないですよ。もちろん、その必要もないからだけれども。
山本:メキシコというと砂漠とサボテンで暑いところという感じですね。
三船:向うは空気が乾燥してますから、冷暖房はもちろんいらないんですけれども、そのほかの設備は、はるかにいいですよ。衣裳部屋なんか各ステージについているし、休憩する部屋はみんな持っています。
山本:ハリウッド式なんですね。
三船:撮り方なんかもハリウッド式ですよ。カメラを回しつ放しでやるんです。途中でNGを出しても、そこからあともどりしてやるわけですけれども、カメラは回しっ放しです。あるシーンを通しで撮っちゃうんです。セリフをとちっても、そのままやっちゃうんですよ。芝居をするのと同じですね。そうすると台詞はぜんぶ覚えなければならないから、こっちはなおさら大変なんです。こまかくカットにきってやってくれると助かるんですけれどもね。
山本:演技のほうはいいにしても、言葉が大変ですね。
三船:黒沢さんの演出が、どちらかというとそんな風だから、長いショットで撮られるのには馴れてるんだけれど……。
山本:しかし、これからもあるでしょうね、外国からの出演申込みが……。
三船:メキシコでも、引き続いて二本くらい撮っていけと言われたんですけれども「価値ある男」の結果を見てからにしょうということで帰ってきました。
山本:すごく朝早くから、夜おそくまで強行撮影だったんですって?
三船:それは、ぼくがベルリン映画祭に出席することになって、それまでに間に合うように撮れということでやったんです。朝六時に起き、七時にはロケに出発です。
山本:日本と似てますね。
三船:ぼくのいたあいだはちようど乾燥期で、晴天ばかり、天気待ちということがないから、どんどん撮れます。ステージでの撮影は、土曜、日曜の二日は休みでしたけれども、八時ごろからはじめて、夜十時まででしょう?
山本:お食事は?
三船:二時、三時まで食事で、そのあと十時まで撮ってます。それからラッシュを見て、うちへ帰ってくると十二時ですね。
山本:食事にはどんなものを召上るんです?
三船:むこうの料理ですね。
山本:私だったら、お腹がすいて倒れちゃうわ。
三船:食事がおそいですからね。昼食なんかゆっくり食べていますよ。土曜日なんか、午後じゅう昼飯食ってますよ。(笑)ですから晩飯もおそいわけです。
山本:土、日の二日つづきの休みには、方々へ招ばれていらしたんでしょうね。
三船:あちらの人は一家をあげて人をもてなすことが好きでね。いろいろ招待があったり、連絡があったりで日曜日は必ず、お昼はどこ、晩飯はどこときまっているからしょうがないんです。
山本:ラッシュはごらんになったとおっしやってますが、完成したものは?
三船:まだ見ていないんです。プリントも着いたらしいですから、皆さんに見ていただいて、どの程度、うけいれられるか、蓋をあけてみなきやわかりませんけれど。話が日本人にはあまり馴染みのない話ですから。メキシコ・シティから飛行機で一時間、車で六、七時間のところにあるマヤですか。そういう遺跡がたくさんあるところの原住民の話で、風俗とか習慣を知らないと、写真ではピンと来ないかもしれません。
山本:それだけに、地方色豊かな面白さがあるんでしょう?
三船:そういうことです。闘牛は入っていませんが、闘鶏とか、土人の民芸サラペとかマゲイ・サボテンの大きいやつメスカルとか、そういったメキシコ特有のものがたくさん出てきて、メキシコ人が見ても珍しいようなものが、たくさんあります。いろいろとイスマイル氏も考えてやってるわけですよ。
山本:イスマイルさんというのはどのくらいの年配の方です?
三船:五十年配ですね。自分では四十三だと言ってましたけれど。(笑)自分がプロダクションの主宰者であり、監督です。「ラ・クカラチャ」という映画が前に日本にきています。「大砂塵の女」とか言いましたね。クカラチャというのは油虫のことだそうです。
山本:お忙しくて、あちらの人々の普通の生活なんかよく見ていらっしゃる暇はなかったかもしれませんが、メキシコは原住民のほかに、白人との混血が多いんですか、きれいな人が多いようですね。
三船:ほとんどラテン系で、スペイン系のべっぴんさんですね。メキシコの中心は、やっぱり白人がにぎっていますね、政治でも経済でも。
山本:インディオは生活程度が低いんですか?
三船:ひどいのがたくさんいます。ちょっと見ただけでも。満州や中国、朝鮮などの地方の農村生活と似ています。日本の水のみ百姓というのだってそうですが。土地が乾燥していて、何にも出来ないんですね。トーモロコシと豆くらいです。しかし地形には変化があるのですね、北へ行くと乾いて、火山灰地みたいで何もできない。しかしずっと南の方へゆくと、地味が豊かですごいんですよ。農作物、野菜、果物、みんなそこからきてるんですね。
山本:非常に繁殖力が旺盛な地方もあるわけですね。
三船:メキシコ・シティは山脈の中心にある海抜二千四百メートルくらいの土地で、一年中六月ごろの気候で、とても快適なところです。
山本:都会としてもなかなか立派だそうですね。
三船:中南米で一番だなんて威張っていますけれど、立派ですね。ニューヨーク、シカゴ、ロスアンゼルスに肩をならべられるくらいでしょうね。高速道路は発達しているし、日本みたいに、道路工事で掘りかえしてるところはないし、(笑) 建築物も、何世紀か前の古いカソリックの教会なんかがあるかと思うと、超近代的な建物があって、太陽はギラギラ、空は真っ青、木は緑、といった工合にそれが美しく調和しているんですな。絵描きさんたちが、たいへん行きたがってますが、わかりますね。
山本:非常に強烈な感じの絵があるようですね、壁画が盛んで……。
三船:メキシコ展がこちらでもあったけれど、タマヨとか、シェケィロスとか、有名なんでしょう。革命までは、しいたげられていた民族なんで、強烈なものが出るんだろうな。
日本映画はまだこれから
山本:あちらの映画は?
三船:イスマイル監督が撮ったものを見ました。面白いんだな、一昨年だったか、自家用飛行機セスナに乗っていて、墜落して死んだスターがいるんですよ。ペドロイン・ファンティとかいうんだけれど、たいへんな二枚目の若手スターで、そいつが死んだときに、女の子が四、五人も自殺したほどだと言うんですな。(笑)
山本:どこにもあるんですね、メキシコのジェームズ・ディーン。(笑)
三船:そいつが生きていたらやるはずの役がぼくにまわってきたんだと言うので、帰りに墓参りしてきましたよ。墓には一年中花やら、線香はないだろうが(笑)とにかく花が枯れてたことがないそうです。
山本:帰りはご家族の方とヨーロッパへまわられたそうですね。
三船:出かけるときに、仕事がうまくゆきそうだったら呼んでやると約束したんで、メキシコへやって来ました。そのあとベルリン映画祭に出席、パリ、ローマなど歩いて帰ってきたんですが、あとでやっぱりメキシコがいちばんよかったと言ってますね。
山本:ベルリン映画祭での日本映画は?
三船:「悪い奴ほどよく眠る」を出したんですが、ほかに黒沢週間というのをやっていて、「七人の侍」「羅生門」「どん底」「蜘蛛築城」「生きものの記録」の五本を昼夜二回ずつやって、たいへんな入りでしたよ。アメリカ人でリチイさんというのがいるでしょう?あの人が来ていて、日本映画祭開催中、日本映画をやる前に講演してくれるんですよ。「黒沢明について」とか「日本映画について」とかいって、自分で印刷物を作って、ちゃんと日本映画の紹介をしてくれてました。日本人がそれをやらないで、外国人にやってもらっているんですからね。
山本:リチイさんは、日本映画史みたいな本を出版してるでしょう。たいていの日本人より日本映画のことをよく研究して知っていらっしゃるんだから、かないませんね。ベルリンにいっていらしたんですか?
三船:もう帰ると言ってました。日本には最近また来るそうです。ヨーロッパにもあきたし、やっぱり日本がいちばんいいと言ってましたよ。(笑)
山本:外国へいらして、改めて日本映画の外国での人気にまたびっくりなさったんじゃありませんか?
三船:日本映画もまだまだこれからですよ。これからいいものを作って紹介しなけりゃだめです。日本映画が外国でどうとかこうとか言ってますけれども、実際見ている人は少いですよ。日本の旅行者だって、。バリなんかの運転手に、お前たち、インドネシアか、(笑)なんて言われているんですから。日本人だというと、「ああ、羅生門」なんて言われましたがね。日本独得のものをどんどんだして、日本人を認識させなきやね。
俳優としては落第の三年生
山本:ところで、ヴェニスからお帰りになると、また黒沢さんで、「用心棒」の続篇ですか?
三船:ええ、もう脚本ができました。黒沢さんと菊島さんとで書いていたんです。
山本:こんどは、桑畑三十郎が椿三十郎になるんですってね。いつごろからおはいりになります?
三船:目下準備中だから、ぼくが九月三、四日までヴェニスにいなけりゃならないらしいから、それから帰ってきて、すぐですね。
山本:三船さんは、これまでずっと東宝で仕事していらっしやるんですが、ご自分で会心の仕事というのはどれですか?やはり「羅生門」?
三船:別にそういうわけではないけれど、「羅生門」は、国際映画祭で戦後はじめて外国の賞をもらったというので、そういう思い出みたいなものがありますね。「酔いどれ天使」は最初だし、ぼくは黒沢さんで撮ったもので「生きものの記録」というのが、印象に残ってますね。
山本:私もあの映画は黒沢さんのもののなかで好きですね。原爆恐怖症の人の話ですね。
三船:あの当時、批評家はあまり良くいわなかったけれど、黒沢さんも、「とにかくあの時期に、ああいう問題を取りあげたのは、おれとしてはぜんぜん後悔してない、じゃなくて、誇りに思ってる」と言ってましたからね。あれから後でしょう、アメリカで「渚にて」なんか作ったの。日本人は直接原爆の被害をこうむったのに、なに考えてるんだと言いたいくらいですね。
山本:いまや原爆の問題がやかましくとりあげられるようになったというわけで・・
三船:「白痴」も、翻訳劇みたいなものだと言われたようですけれど、あのあと、ソ連の監督があちらで「白痴」を撮るのについて、黒沢さんの「白痴」を何回か見ているというんですからね。
山本:スエーデンの「処女の泉」は、ベルイマン監督が黒沢さんの「羅生門」に刺戟されたとはっきり言ってますね。
三船:フランスあたりの若い映画監督たちは、黒沢さんや溝口さんに学んでいると言ってますね。
山本:三船さんは、監督をおやりになる気持はないんですか?
三船:とんでもない。
山本:俳優だけでいらっしやるんですか。
三船:俳優だって一年生、一年生にしてはとうが立ってますが、落第の三年生とこかな。(笑)だからまだまだ……。
テレビも見ずに映画一筋
山本:最近俳優さんで大変意欲的になって、自分でこういうものをやりたい、ああいうものをやりたいということがあるんですが、三船さんにはそういうプランは?
三船:いろいろありますけれど、発表して実現しない人がありますからね、余計なことを言って恥をかくなというわけです。
山本:映画一本で、例えば舞台やテレビに対する浮気は?
三船:ぜんぜんないですな。人間そんなにできるはずはありませんよ。ぼくは不器用ですからね。一つに対することでいいと思うんですよ。できる人はけっこうだけれども、ぼくはできないから。負けおしみでいってるわけではないけれども、ぼくは映画だけしかやりません。
山本:テレビはごらんになります?
三船:見ないですね。うちのテレビなんか昔買った古いやつそのままで、変っているから映像なんか出てきませんよ。(笑)
山本:テレビのスポーツ放送もごらんにならないんですか?
三船:ぜんぜん見ないですね。野球なんかあんまり興味がないし、相撲も面白くないし、見るといえばボクシングくらいだな。
山本:へえ、野球、相撲に興味のない男の方ってめずらしいですね。ゴルフは?
三船:ゴルフもここ一、二年やってません。
山本:じゃ、暇なときは何をなさってるんですか?
三船:別にこれということはありませんね。裸になって家で芝を刈ったり、ボートの掃除をしたり……。
山本:家庭的で奥さん孝行……。
三船:いや、そんなこともありません。
山本:三船さんの趣味はモーター・ボートでしたね。
三船:ええ、まあ、そんなもんです。
山本:暇なとき映画はごらんになります?
三船:わりと見るほうですね。最近見たのは「片目のジャック」です。あれも「荒野の七人」もメキシコヘロケした映画ですね。「荒野ー」はまだ見てませんがね。
山本:ところで、外国映画に日本人が出演する場合、どんな点がいちばん問題だとお思いでしたか?
三船:やっぱり語学でしょうね。語学ができれば、これから国際的な活躍をすることが十分できますね。それと、ぼくのように外国人に扮した場合は問題はないけれど、外国映画の中の日本人を演じるときには、十分研究してからでないと「竹の家」みたいなのがあって、国辱問題を起したりしますからね。山本あちらの監督の演技指導はうるさいですか?
三船:イスマイル氏は、ここはこう思うんだけれどもどうしようかと聞きますよ。撮影で使う簡単な言葉は日本語で教えてあるんです。おはよう、今晩は、本番、テスト、お疲れさま、もう少し右、もう少し左、もう一度、それでけっこう間に合いますね。(笑)自分でやる通りやってきました。
山本:それだけ好意的だったらいいですね。
三船:とても雰囲気がよくて、着いた当座は連日レセプション。山本大統領夫人のレセプションもあったそうですね。
三船:ええ、日本の大使も喜んでくれたし、在留邦人の方たちも涙を流して喜んでくれました。帰るときは「チャーロ」というハイ・ソサエティのクラブで大送別会をやってくれましたし、まあ、こんな風に少しでも国際親善につくせたら、映画の出来をどうこう気にする必要ないみたいな気持になっちやいました。これで映画がよければなおいいけれど。(笑)
三船 敏郎(ミフネ トシロウ)
日本の俳優・映画監督・映画プロデューサー。1951年にヴェネツィア映画祭で最高の賞、金獅子賞を受賞した黒澤明監督「羅生門」に主演していたことから世界中より注目を浴び、1961年には主演した黒澤明監督「用心棒」、1965年にも主演した黒澤明監督「赤ひげ」にて、ヴェネツィア国際映画祭の最優秀男優賞。その他にも世界各国で様々な賞を受賞し、アラン・ドロン、スティーブン・スピルバーグなど世界中の映画人たちへ多大な影響を与えた、日本を代表する国際的スター。1920年4月1日ー1997年12月24日没。
“世界のミフネ”の原点となった初海外主演作が、生誕100年を記念してHDニューマスターで国内初ソフト化!
初海外主演作としてメキシコ人を演じ、各国映画祭で激賞され“世界のミフネ”の原点となった名作が、生誕100年を記念して、遂に国内初ソフト化!約60年の時を経て、美麗HDニューマスターにより鮮やかに蘇る。
発売・販売:TCエンタテインメント、提供:三船プロダクション
https://news.yahoo.co.jp/articles/d8b8360683827c36d122b11a0c30075e65843797?page=1

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ルーツに"誇り"を持つということ

2021-01-01 | アイヌ民族関連
NHK 2020年12月21日(月)午後0時44分 更新

ことし4月、アイヌ文化のツアーを手がける会社を起業し、自らガイドを務める男性がいます。米澤諒(よねざわ・りょう)さん(27)。北海道出身の父とソマリア人の母のあいだに生まれ、19歳のとき、アイヌにもルーツがあると知りました。「自分は何者なのか?」。悩み抜いた末にたどりついたのがガイドという仕事でした。男性が言葉にこめる思いとは。(取材 札幌放送局アナウンサー 堀菜保子)
アイヌ文化を伝えるガイド、その遍歴は
ことし7月にオープンしたアイヌ文化の発信拠点・ウポポイ。10月末、その中でガイドをする男性の姿がありました。 米澤諒さん(27)。 ことし、アイヌ文化のツアーを手がける会社を起業しました。
米澤諒さん
「すごいって喜んでもらえると、自分たちの先祖が残してきた文化が感動してもらえるってことで、うれしいです」
北海道出身の父と、ソマリア人の母のあいだに生まれた米澤さん。父の仕事で、10歳までカンボジアで過ごしました。多国籍の子どもに囲まれ、「みんな違うのが当たり前」という環境で過ごしました。米澤さんは、2つの国にルーツを持つ自分が好きでした。
米澤諒さん
「自分はソマリア人と日本人であって、どちらの血にも誇りを持っていました」
日本で味わった苦しみ
しかしその”誇り”は、日本に帰国すると揺らぎ始めます。
"見た目がみんなと違う" "日本語が話せない" そんな理由で「外国人」として扱われたのです。
米澤諒さん
「初めて会った人にいきなり英語で話しかけられたり、アフリカに帰れとかカンボジアに帰れとかしょっちゅう言われたりしていました。 日本人として見られなかったらじゃあ自分は何人なんだろう、自分は何なんだろうって いう不安がありました」
違う 日本の文化のこと ちゃんと知っているし 言葉も話せるよ
そうした思いで米澤さんは、日本語と日本の文化を懸命に学び、自分が日本人だと必死に証明しようとしてきました。
そんななか、19歳のとき、父が思いもよらない告白をします。 米澤さんの祖母が、アイヌだというのです。
当時、米澤さんは大学に進みたいという思いがあり、新聞配達のアルバイトをしていました。 そんな息子の姿を見ていた父が、札幌大学にアイヌ文化を学ぶアイヌの若者に奨学金を出すプロジェクトがあるのを知っての告白だったといいます。
米澤諒さん
「突然言われたときは、え?って感じで。もっと複雑なんだ、自分って、もっと複雑なんだって、びっくりしました」
自身のルーツを改めて考えた米澤さん。頭に浮かんだのは、母親の顔でした。
米澤諒さん
「悲しかったです。自分が日本に来てからの行動が。みんな一緒だよねっていう周りの空気感から、自分は日本人として見られたい意識が強くなっていて、 母親のソマリア人として見られたいという思いが自分の行動にはなかったと振り返りました」
どのルーツを"誇る"べきなのだろう
悩んだ末に至った結論は「すべて」でした。
米澤諒さん
「悩みに悩んで、もう、自分としては、自分がこうだっていう思いを伝えようと、自分は日本人でもあるし、ソマリア人でもあるし、アイヌでもあるって言おうと。もし言うんだったらしっかりアイヌ文化について知っておこうと思って、札幌大学に入ろうと思いました」
"誇り"は育てるもの
米澤さんは札幌大学に進学して、アイヌ文化を本格的に学び始めます。 自分の先祖が築いてきた文化を学ぶことは、とても楽しかったといいます。一方で、気づいたこともありました。
出会った仲間の中には、自分と同じような悩みを抱えている人が多くいました。自分がアイヌであることを最近まで知らなかったり、差別をおそれてアイヌであることを隠してきたりしていました。
そんな米澤さんの将来を決定づける出会いがありました。
大学4年生のとき、ハワイの先住民を訪ねる機会があり、民族の言語を楽しそうに学ぶ子どもたちを目の当たりにしたのです。
"誇り"は育てるもの ———
米澤さんは一生をかけて取り組みたいことを見つけたといいます。
米澤諒さん
「自分たちの文化に誇りを持っているんだなとすごく伝わってきました。子どもたちは周りの目とか空気にすごく敏感になっているので、誇りを持つには、アイヌとして生きていても差別されないよっていう安全な空間が必要だと思うんですよね。ライフワークとして一生そういう環境が作れるような取り組みをしていきたいなと思いました」
東京での就職を考えていた米澤さんは、ハワイからの帰りの空港で、進路変更を決断。 北海道でアイヌ文化を学び続けたいと、大学を卒業してから3年間、旧アイヌ民族博物館の「伝承者育成事業」に参加すると決めました。
"誇り"を提供する場を求めて
この事業に参加した3年間を終え、ことし、米澤さんが起こしたのが、アイヌの文化を紹介する会社でした。
ガイドの仕事は、アイヌにルーツを持つ大学の後輩にも担ってもらうといいます。アイヌの文化を人に語ることで、自分のルーツを大切にしてほしいと考えているからです。
この日は、自然の中でアイヌ文化を伝えるための研修を行いました。 アイヌの人たちが樹木を生活の中でどう利用してきたのか、さらに、アイヌの人たちが語り継いできた木にまつわる物語とその教えについても話します。
後輩たちは、真剣にメモを取り、お客さんに伝えるためには何が必要か積極的にアイデアを出していました。アイヌ文化への向き合い方も変わってきていました。
大学3年生の岩谷実咲さんです。勉強してきたアイヌ文化の知識を、ガイドという仕事を通して、より自分のものにしたいと思い参加しています。
岩谷実咲さん
「ガイドをやり初めて、自分にとってアイヌ文化は切ってはいけないものなんだなと思うようになりました。将来の道もまだ迷っていますが、アイヌ文化から絶対に離れることはしたくないなって思います」
そして、アイヌ文化の歌と踊りが大好きだという、木村梨乃さん。 2年前に札幌大学を卒業しました。
木村梨乃さん
「悩むときはありますけど、自分はどう生きててもどこで生きててもアイヌなので、せっかくならそれを生かして、ゆくゆくは米澤先輩みたいに自分のやりたいことが見つかったらいいなと思います」
米澤さんは後輩に対し、「一番の理想は、アイヌ文化に関わり続けることだけど、それを仕事にして生きていくのは簡単なことではない。それでも、どんな道に進んでも、アイヌ民族だということに誇りを持ち続けて欲しい」と話します。
その上で、ルーツに”誇り”を持つことは、国と民族を超えて結ばれた父と母の子である自分を大切にすることでもあると話します。
米澤諒さん
「私は、いろいろな文化があって、いろいろな宗教があって、いろいろな人がいてこそ人間ってすばらしいと思っている。お客さんには、アイヌ文化を残すのは大事だということを伝えるのではなく、お客さん自身の文化も大事なので、それを大事に生活して、自分が後世に残せるようなことをやってみませんかっていうことを伝えられたら良いなって思います。 誇れるものはそれぞれ必ずあると思うので、自分らしさを大事に生きていってほしいです」
2020年12月16日放送
【取材を終えて】
米澤さんと初めてお話したのはことしの春。自身のルーツやアイヌ文化について語ってくれる米澤さんの声は、迷いのない、覚悟を決めたような、力強いものでした。その「強さ」の訳を知りたいと取材を始めました。その中で分かってきたのは、「強さ」の裏に「自分は何者なのか?」と悩み抜いた経験があるということでした。苦しみを乗り越えた米澤さんの語る、「人それぞれ誇れるものは身近にある。自分らしさを大事に生きていってほしい」という言葉。ルーツを大切にする、つまり、自分を大切にする、ということは、隣にいる人の文化も大切にすることにつながるんだということに気づかされました。
米澤さんは、ガイドを通してそれぞれが自身のルーツに誇りを持って応援しあえる社会を作り、ゆくゆくはアイヌの子どもたちの”誇り”を育てられるような、アイヌ語で教育を受けられる学校を作ることが目標だと話します。今回の取材で、米澤さんの”誇り”が大学の後輩に受け継がれていくのを目の当たりにすることができました。将来は学校が、そんなバトンをつなぐ場所になるのかもしれません。
最後に、後輩の1人、岩谷さんの言葉です。
「アイヌを尊敬してほしいわけではありません。ただ、“いなかった”、存在しなかったと思われたくないんです。昔から住んでいる人たちがいて、その人たちがその土地にある自然の恵みだけで生活していたということを知ってほしい」
米澤さんは、海外からの観光客が戻ってきたら、両親から教わったネイティブの英語を使って、世界中の人にアイヌ文化のガイドをしていきたいと話していました。
札幌放送局アナウンサー 堀菜保子 
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-n712d7df74391

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