東洋経済 2021/01/15 14:00 中川 裕 : 千葉大学文学部教授
アイヌ文化にはさまざまな食の知恵があります(画像:『ゴールデンカムイ』2巻8話より。© 野田サトル)
2018年に手塚治虫文化賞でマンガ大賞を受賞し、アニメ化も果たした野田サトル氏による累計発行部数1500万部超の大ヒット冒険活劇漫画「ゴールデンカムイ」。同作をきっかけにして、初めてアイヌ文化に興味を抱いたという人も少なくないのではないでしょうか。ゴールデンカムイのアイヌ語監修で千葉大学文学部教授の中川裕氏が上梓した『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』を一部抜粋・再構成し、お届けします。
「ゴールデンカムイ」にはオソマという言葉がよく出てきて、大変有名になってしまいました。作中では「うんこ」という意味で使われていますが、正確に言うと「大便をする」という動詞です。ただし、「うんこ」の意味で使われることもありますので、その用法でも間違っているわけではありません。
同作のヒロインのアシㇼパ(※「リ」はアイヌ語固有の小文字で表記)が初めて見たみそをオソマだと思って、食べるのを拒否するという話は漫画の中でも大変人気のあるシーンのひとつですが、これは野田先生が実在の人の体験談をもとにして考えたエピソードで、私も1900年前後の生まれの人たちから、みそなんてものは嫁に行くまで知らなかったという話を聞いています。1890年代生まれで、両親ともアイヌの家庭で育ったアシㇼパがみそを見たことがなくても不思議はありません。
アイヌの食生活の中心だった「鍋物」
いきなりオソマの話から始めてしまって恐縮ですが、これはアイヌ文化を探るにあたって重要な話で、つまりアイヌ料理に本来みそ味の料理はなかったということです。もちろん現代のアイヌの人たちは、生まれたときからみそ味に親しんでいますので、みそ料理が「お袋の味」だという人も多いでしょう。
ただ、ここではアシㇼパの時代の食生活を考えてみようということです。かつてのアイヌの食生活において、その中心だったのはオハウ「鍋物」でした。
鍋に肉や魚や山菜などを入れて煮込んだ料理です。このとき、味つけに使うのは、みそでももちろんしょうゆでもなく、塩でしたが、それもごく少量で、関東や東北地方の鍋から見たら、かなりの薄味でした。むしろ素材そのものについている味が調味料の役割を果たしていました。
その1つの味の源になっていたのが燻製です。現代の私たちは、鍋物というと生の素材を使うのが普通ですが、もちろんそれは流通と冷蔵技術の発達した現代ならではのことで、昔は生のものを食べるのは、とれたそのときのことに限られました。それ以外の時期は、保存食にしてあるものを食べることになります。
アイヌの伝統的な保存方法は塩蔵ではなくて乾燥させること、そして乾燥させたものを囲炉裏の上に下げておいて燻製にすることです。ウグイやアメマスといった比較的小さな魚は、「焼き干し」といって、串に刺していったん焼いたものを、そのまま食べるのではなく、囲炉裏の上の火棚という棚に乗せておいて燻製にします。そして食べるときにはそれをぽきぽき折って鍋の中に入れ、それでだしを取ります。
肉の場合も同様で、シカやクマの肉は細長く切って、1回さっとゆでてから、竿にかけて干します。これを「ゆで干し」というのですが、こうすると細胞が壊れて、生で干すよりもずっと早く乾燥し、腐らせる危険性が減ります。そして乾燥した肉を囲炉裏の上に干して燻製にしておき、食べるときには水に戻してから切って鍋に入れるのです。
シカやクマばかりでなく、キツネやタヌキやウサギやリスなども食べていたそうです。あるおばあさんの話では、タヌキはそのままではとても臭くて食べられないが、燻製にする(北海道弁で「いぶしをかける」)と、とてもおいしく食べられたとのことでした。
燻製には細菌の増殖を防いで保存力を高めるという効果とともに、獣肉の臭みを消すという香辛料の効果もあったのです。
いろんな山菜が香辛料として使われていた
香辛料としてはいろいろな山菜も使われました。その筆頭はプクサとかキトとアイヌ語で呼ばれているギョウジャニンニク(北海道ではキトビロともいう)でしょう。
かつては北海道の山菜の王者でしたが、今では栽培もされていて、北海道のスーパーに行くと普通に売っています。ジンギスカンと一緒に焼いたり、しょうゆ漬けにして食べたりしますが、ニンニクとニラを掛け算したような、強烈な匂いが特徴です。昔はこれを刻んで干してとっておいて、鍋の中に味つけとして入れました。
また、シケㇾペと呼ばれる、キハダ(これが和名)という木の実も、香辛料として使われました。カボチャや豆などを形がなくなるまで煮たラタㇱケㇷ゚に混ぜたり、油で練ってシトという団子にまぶしたりして食べましたが、実はキハダは黄檗という漢方薬の原料になる木で、その名のとおり幹の外皮を剝ぐと真っ黄色で、なめてみるとえらく苦いものです。その成分が実にも入っていますので、苦甘い、本当に胃腸薬のような味です。
これを香辛料として使うのはアイヌだけかもしれません。しかし、慣れてしまうと、ラタㇱケㇷ゚にこれが入っていないとなんとなくもの足りなかったりします。
こうした味つけの工夫が、やがてみそ・しょうゆの浸透でそれに置き換えられていき、みそを見ても「オソマだろ、これ!」と叫ぶ人もいなくなったのです。
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https://toyokeizai.net/articles/-/401563
アイヌ文化にはさまざまな食の知恵があります(画像:『ゴールデンカムイ』2巻8話より。© 野田サトル)
2018年に手塚治虫文化賞でマンガ大賞を受賞し、アニメ化も果たした野田サトル氏による累計発行部数1500万部超の大ヒット冒険活劇漫画「ゴールデンカムイ」。同作をきっかけにして、初めてアイヌ文化に興味を抱いたという人も少なくないのではないでしょうか。ゴールデンカムイのアイヌ語監修で千葉大学文学部教授の中川裕氏が上梓した『アイヌ文化で読み解く「ゴールデンカムイ」』を一部抜粋・再構成し、お届けします。
「ゴールデンカムイ」にはオソマという言葉がよく出てきて、大変有名になってしまいました。作中では「うんこ」という意味で使われていますが、正確に言うと「大便をする」という動詞です。ただし、「うんこ」の意味で使われることもありますので、その用法でも間違っているわけではありません。
同作のヒロインのアシㇼパ(※「リ」はアイヌ語固有の小文字で表記)が初めて見たみそをオソマだと思って、食べるのを拒否するという話は漫画の中でも大変人気のあるシーンのひとつですが、これは野田先生が実在の人の体験談をもとにして考えたエピソードで、私も1900年前後の生まれの人たちから、みそなんてものは嫁に行くまで知らなかったという話を聞いています。1890年代生まれで、両親ともアイヌの家庭で育ったアシㇼパがみそを見たことがなくても不思議はありません。
アイヌの食生活の中心だった「鍋物」
いきなりオソマの話から始めてしまって恐縮ですが、これはアイヌ文化を探るにあたって重要な話で、つまりアイヌ料理に本来みそ味の料理はなかったということです。もちろん現代のアイヌの人たちは、生まれたときからみそ味に親しんでいますので、みそ料理が「お袋の味」だという人も多いでしょう。
ただ、ここではアシㇼパの時代の食生活を考えてみようということです。かつてのアイヌの食生活において、その中心だったのはオハウ「鍋物」でした。
鍋に肉や魚や山菜などを入れて煮込んだ料理です。このとき、味つけに使うのは、みそでももちろんしょうゆでもなく、塩でしたが、それもごく少量で、関東や東北地方の鍋から見たら、かなりの薄味でした。むしろ素材そのものについている味が調味料の役割を果たしていました。
その1つの味の源になっていたのが燻製です。現代の私たちは、鍋物というと生の素材を使うのが普通ですが、もちろんそれは流通と冷蔵技術の発達した現代ならではのことで、昔は生のものを食べるのは、とれたそのときのことに限られました。それ以外の時期は、保存食にしてあるものを食べることになります。
アイヌの伝統的な保存方法は塩蔵ではなくて乾燥させること、そして乾燥させたものを囲炉裏の上に下げておいて燻製にすることです。ウグイやアメマスといった比較的小さな魚は、「焼き干し」といって、串に刺していったん焼いたものを、そのまま食べるのではなく、囲炉裏の上の火棚という棚に乗せておいて燻製にします。そして食べるときにはそれをぽきぽき折って鍋の中に入れ、それでだしを取ります。
肉の場合も同様で、シカやクマの肉は細長く切って、1回さっとゆでてから、竿にかけて干します。これを「ゆで干し」というのですが、こうすると細胞が壊れて、生で干すよりもずっと早く乾燥し、腐らせる危険性が減ります。そして乾燥した肉を囲炉裏の上に干して燻製にしておき、食べるときには水に戻してから切って鍋に入れるのです。
シカやクマばかりでなく、キツネやタヌキやウサギやリスなども食べていたそうです。あるおばあさんの話では、タヌキはそのままではとても臭くて食べられないが、燻製にする(北海道弁で「いぶしをかける」)と、とてもおいしく食べられたとのことでした。
燻製には細菌の増殖を防いで保存力を高めるという効果とともに、獣肉の臭みを消すという香辛料の効果もあったのです。
いろんな山菜が香辛料として使われていた
香辛料としてはいろいろな山菜も使われました。その筆頭はプクサとかキトとアイヌ語で呼ばれているギョウジャニンニク(北海道ではキトビロともいう)でしょう。
かつては北海道の山菜の王者でしたが、今では栽培もされていて、北海道のスーパーに行くと普通に売っています。ジンギスカンと一緒に焼いたり、しょうゆ漬けにして食べたりしますが、ニンニクとニラを掛け算したような、強烈な匂いが特徴です。昔はこれを刻んで干してとっておいて、鍋の中に味つけとして入れました。
また、シケㇾペと呼ばれる、キハダ(これが和名)という木の実も、香辛料として使われました。カボチャや豆などを形がなくなるまで煮たラタㇱケㇷ゚に混ぜたり、油で練ってシトという団子にまぶしたりして食べましたが、実はキハダは黄檗という漢方薬の原料になる木で、その名のとおり幹の外皮を剝ぐと真っ黄色で、なめてみるとえらく苦いものです。その成分が実にも入っていますので、苦甘い、本当に胃腸薬のような味です。
これを香辛料として使うのはアイヌだけかもしれません。しかし、慣れてしまうと、ラタㇱケㇷ゚にこれが入っていないとなんとなくもの足りなかったりします。
こうした味つけの工夫が、やがてみそ・しょうゆの浸透でそれに置き換えられていき、みそを見ても「オソマだろ、これ!」と叫ぶ人もいなくなったのです。
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