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豪、国歌の歌詞の一部を変更 先住民の歴史を尊重し(動画)

2021-01-02 | アイヌ民族関連
TBS 1月1日 18時40分

 オーストラリアの国歌の歌詞の一部が、先住民の長い歴史を尊重し変更されました。
 「賢明な変化だ。前向きに受け止められるだろう。歌ってもらうのが楽しみだ」(モリソン首相)
 オーストラリアのモリソン首相は先月31日、国歌の歌詞の一部を変更すると発表しました。変更は1日から有効で、これまで「私たちは若く自由だ」と歌われてきたところが、「私たちの心は一つで自由だ」となりました。モリソン首相は、「オーストラリアは近代国家としては比較的若い一方で、先住民の古い物語がある」と述べていて、およそ6万5000年前から続くオーストラリア先住民の歴史を尊重するため変更したということです。
 去年、世界的に広まった、人種差別に抗議するBLM=ブラックライブズマター運動の影響はオーストラリアでもあり、ニューサウスウェールズ州の首相は、“国歌は先住民の文化を無視している”と批判し、変更を提案していました。
https://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye4164534.html

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中川で発見のアンモナイト、新属新種だった 渦巻きに特徴進化の解明期待

2021-01-02 | アイヌ民族関連
北海道新聞 01/01 05:00
 上川管内中川町で2015年に見つかったアンモナイトの化石が、生物の分類上の新属新種であることが分かった。名古屋大大学院生で公益財団法人深田地質研究所(東京)の村宮悠介研究員(27)が発見し、1日付の日本古生物学会の学術誌「パレオントロジカル・リサーチ」に論文を発表した。管状の殻が山菜のゼンマイのような形をしているのが特徴で、アンモナイトの多様性と進化の過程を知る手がかりになると期待されている。
 村宮さんは名古屋大4年だった15年5月、同町内の天塩川支流で、約9千万年前の地層から縦7センチ、幅3センチほどの化石を発見した。最大で直径1センチの管状の殻が、成長の初期の部分は蚊取り線香のように渦巻き、中期以降の部分は楽器のトロンボーンのように伸びて、全体としてゼンマイの形をしていた。
 国立科学博物館の重田康成・環境変動史研究グループ長(56)=古生物学=の協力を得て、18年から本格調査に着手。同町で同様の形をした化石2個を発見した。これらをほかの化石と比較検討した結果、「属」「種」より上位の分類の「科」では、平面状に渦を巻く「ディプロモセラス科」であることが分かった。
 同科は、約9千万年前からアンモナイトが絶滅した6600万年前にかけて大繁栄したグループの一つ。化石は渦の巻き方や竹の節のような部分が他の属、種では見られない形状であるなことから新属新種と判明した。道内で同科の新属新種が発見されたのは1984年以来という。
 学名はゼンマイを意味するアイヌ語と天塩川にちなみ「ソルマイテス・テシオエンシス(天塩のゼンマイ石)」とした。重田グループ長は蚊取り線香形とトロンボーン形が組み合わさった化石は「見たことがなく、驚いた」。進化の過程で試行錯誤をしていたことが分かるといい、「若手による新発見なのも意義深い」と喜ぶ。
 化石は今月18日~9月30日、中川町エコミュージアムセンターで展示予定。村宮さんは「学生時代から通った第二の古里で、貴重な発見ができた。ぜひ地元の人に見てほしい」と話す。(大能伸悟)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/497345

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日本書紀と古事記…2種類の歴史書が“同時に”生まれた理由

2021-01-02 | 先住民族関連
PHP 2021/01/02 12:00
986年生まれの新進気鋭の研究者である吉木誉絵(よしき・のりえ)氏が、6月20日にデビュー作『日本は本当に「和の国」か』(PHP研究所刊)を上梓した。
吉木氏は高校時代、アメリカ・ノースダコタ州に留学し、隣州で起こった先住民族の少年の銃乱射事件がきっかけとなり、民族のアイデンティティについて考察を深め、その過程で『古事記』の研究に着手。慶應義塾大学大学院修了後から、コメンテーターとしてテレビなどのメディアに出演。2018年、第一子を出産し、現在は子育てをしながら研究活動を続ける。
『日本は本当に「和の国」か』は「日本人の本来のアイデンティティは、日本の神話である『古事記』が示す「和の国」の姿ではないか」をテーマに日本人の本質を問い直す論考であり、解剖学者の養老孟司氏からも「日本がどのような国か、本気で考えた一冊」と評された。
本稿では同書より、「日本書紀」が存在する一方でなぜ「古事記」が必要だったのかを考察した一節を紹介する。
※本稿は吉木誉絵著『日本は本当に「和の国」か』より一部抜粋・編集したものです。
「正史」は『日本書紀』、では『古事記』とは?
日本の『古事記』も『日本書紀』も第40代の天武天皇(在位:673〜386)の勅命により編纂が始まり、『古事記』は712年に上、中、下巻の全3巻が完成、内容は神代から第33代推古天皇の時代まで。『日本書紀』はその8年後の720年に全30巻が完成、神代から第41代の持統天皇の時代まで記述されている。
両書とも国家が編纂した公式な歴史書ではあるが、『古事記』のほうが成立年代が古いことから、『古事記』は現存する最古の書といわれている。
しかし、扱いとしては『日本書紀』の方が正史で『古事記』は江戸時代に本居宣長がその価値を再発見するまで、『日本書紀』の副読本的な扱いに留まっていた。『古事記』が初めて引用されたのは『万葉集』で「古い歌謡や物語の原点」として参考にされているものの、「日本紀講筵(にほんぎこうえん)」という平安時代前期に宮中行事として何度か行われた『日本書紀』の講読会において、『日本書紀』だけではわからない古い言葉の訓読みを『古事記』から参照していたことからも、あくまで『日本書紀』の補完的存在だったことがわかっている(岡部隆志氏の指摘による)。
では、なぜわざわざ天武天皇は二つの歴史書の編纂を命じたのだろうか。なぜ同時代に似たような二つの歴史書が併存したのかといえば、『日本書紀』は国外向け(東アジア)に書かれているのに対し、『古事記』は国内向けであるから、という編纂方針の違いに起因すると一般的に認識されている。
ちなみに、遣唐使の書物から、702年の遣唐使派遣の際、それまで「倭国」だったのを「日本国」と新しく国号を定めたことを中国(周)の皇帝・武則天に報告していることがわかっている。
中国の大帝国に対し、日本も自立した国であることを表明したのだった。『日本書紀』は、東アジアの中の独立国としての正当性を示そうとしているという意味で、対外意識のもと編纂されたものである。
『古事記』は変体漢文、『日本書紀』は純漢文
他にも、使用されている言語の違いで、対外向けと国内向けの傾向をみることができる。「日本紀講筵」の際、古語の訓読みはいかなるものかと『古事記』が参照されていたことからわかるように、『古事記』の本文は日本語で書かれている。
より正確にいうと、『古事記』は変体漢文といって、表意文字たる漢字と、表音文字として日本が開発した万葉仮名の両方を混合させたもので綴られている。
一方で、『日本書紀』は当時の東アジアにおける事実上の公用語だった中国語、つまり純漢文(一部を除く)で書かれている。日本という自立した国家の歴史を東アジアに向けて発信するには漢文の使用が欠かせなかったのだ。
また『日本書紀』の神話の部分に相当する「神代紀」は一つのエピソード(本伝)の後に「一書に曰く(別の書を参照すれば)」という文言からはじまる数々の異伝からの引用があり、学術書としての性格が高く、緻密で細やかな異伝への配慮が読み取れる。異伝は国内の文献だけでなく、『漢書』や『三国志』といった漢籍にも及んだ。
編纂を任された天武天皇の第三皇子である舎人親王(とねりしんのう)をはじめとした編纂者たちが、『日本書紀』という存在を、単に天皇の権威を正当化するための役割に留めず、日本という国家の存在を史書として初めて「世界」に示すものだという強い理念に基づき編纂作業にあたったということが、その公平で客観的な編纂方法から垣間見える気がするのである。
但し、中国の古典や法令に沿って叙述したり、易姓革命に似た内容の箇所が見受けられたりと、中国の思想を取り入れて書かれていることには留意しておく必要があるだろう。
『日本書紀』は、当時の「近代化」の産物だった
では、なぜここまで対外意識が強まっていたのだろうか。先ほども述べたが、これは単に外国を意識するという程度のものではなく、東アジア、とりわけ中国に対し日本の独立を示すというレベルのものだった。その切迫感は十七条憲法制定のとき以上のものだっただろうと予想する。当時の緊張感を察するには、東アジアがどのような状況だったのか少々押さえておく必要があるだろう。
日本(倭国)は663年に白村江(はくすきのえ)の戦いを経験する。倭国は半島に大軍を送るが、その数はおよそ5万人を超えるとされ、そのほとんどが西日本の豪族や公民だったという(吉川真司氏の記述による)。
しかし倭国・百済連合軍は、唐・新羅連合軍に大敗する。主な戦いの場は海上で、唐の水軍の攻撃により倭国・百済は夥しい数の死者を出し400艘の船が焼かれるほどの大惨事となった。その後高句麗も唐によって滅亡し、緩衝地帯を失った倭国は唐の直接的脅威に曝されることとなった。
白村江での壊滅的敗北と、唐・新羅による脅威を受けてすぐさまに国内の防衛政策が進められ、このとき百済の亡命遺民の指導を受けて対馬から畿内の要地に山城などの防衛施設が築かれる。
ちなみに、私は実際に岡山県にある山城「鬼ノ城」に登ったことがあるが、復元された門や城壁の猛々しさに圧倒された。このような山城を日本に作らせるきっかけとなった白村江の戦いと、そのとき日本人が身に染みて感じた脅威というのはいかほどだったろうかと思いを巡らせたものである。
白村江の戦いは、ちょうど幕末の黒船来航に日本人がおののいた心情と一致するものではないかと思う。唐からの侵略に対抗できるだけの力を備えるために、国家の体制を「近代化」させるべく、軍事的側面を含め、律令体制を整えていく。
この「近代化」とは、工藤隆氏によれば、ヤマトの核を形成した縄文時代から古墳時代までの神秘的で呪術的な世界観を中心とした反リアリズム的な「古代」から、当時の東アジアにおける最先端の技術やシステムを大陸や半島から導入し律令国家を形成するというリアリズムへの変貌という「古代の近代化」(工藤隆氏の記述による)のことを意味する。
そして672年に壬申の乱が勃発し、その勝利者である天武天皇に権力が集約される。
日本の7世紀代は、それまでと比べて大規模な軍事的経験を得ただけでなく、中国の漢魏をはじめとした大陸文化や古代朝鮮文化を選択的に受容し、律令国家としての道を歩み始めながら、独自の文化も発展した時代だった。中国の古代都城の背景にある中国古代思想や文明を取り入れ、半島から仏教が伝来し、そして日本独自の創意工夫を凝らした「国際色豊かな」(黄曉芬氏の記述による)飛鳥・藤原京が創られた。東アジアの一員としての体裁がいよいよ整ったのである。
『日本書紀』は、いわば当時の「近代化」の産物であり、「政治的リアリズムの強化」(工藤隆氏の記述による)の帰結だった。そのような時代の流れを受けて、七世紀末、天武天皇は『古事記』と『日本書紀』という二つの歴史書の編纂の勅命を下したのだった。
日本人の情感を伝えるための『古事記』
さて、『日本書紀』が当時の東アジアの情勢と律令国家の形成に際し担ってきた役割がみえてきたところで、『古事記』に話を移したい。
明治維新では西洋文明・技術を取り入れて近代化に励んだ日本は、一方で日本の精神性が失われることを危惧し、技術面の西洋化と精神面での日本らしさの強化に努めた。このような二重構造は、既に7世紀にあったことが知られている。工藤氏によれば、つまり『古事記』の存在とは、すさまじい勢いで進む古代の「近代化」に対する「反作用」の産物だった。
大和のアイデンティティの根本的な揺らぎへの危機感は、『古事記』の誕生へと繋がっていったという。『古事記』の存在意義は『日本書紀』に照らし合わせたときに、より一層その本質が明瞭になることを、呉哲男氏の次の言葉が表している。
呉氏いわく、「古事記研究に即していえば、日本書紀のもつ歴史意識を前提にしなければ古事記の構想そのものがありえないというところから出発すべきなのである。日本史に義理立てして七一二年(『記』)と七二〇年(『書紀』)という成立年代の相違を絶対視してはならない。八世紀に成立した日本文学史は、はじめに日本書紀・懐風藻のような中国文学的な発想があり、次いでそれによって失われたとみなされた共感(感情)の共同性を想像的に回復しようとしたところに『古事記』・『万葉集』誕生のモチーフがあると考えるべきである」という。
((注1)呉哲男(1997)「国文学/国学批判――西郷信綱の「読み」をめぐって――」『日本文学 46巻1号』16頁)
つまり、そもそも『日本書紀』の編纂が先立って構想され、『日本書紀』のような古代中国思想の影響を強く受けた編纂方法では、日本人の「感情」――これは日本人のこころとも言い換えられるものである――が除外されてしまうので、むしろ日本人の情感を大切にするという編纂の構想が『古事記』(そして『万葉集』)の基盤にあったというのだ。
『日本書紀』では日本の国家としての正当性を世界に示すため、工藤氏の言葉を借りれば当時の日本の「現代政治史」を伝えていたのであり、一方で『古事記』では、『日本書紀』からは排除された日本人のこころを伝える。このように全く異なる二つの編纂目的があるからこそ、同時代に二つの「歴史書」が誕生したのだ。
「日本文化は両極端の間を揺れ動く」
私は、この相反する方針を取る『古事記』と『日本書紀』が同時に存在し、それを日本人が自然に受け入れているということ自体が、日本人の「和の精神」のひとつの様態だと思う。相異なる存在の同時性は、日本人が好むものである。日本人は、それが相反するものだと気づかないほど、それらを無意識的に共存させる。
この点において、クロード・レヴィ=ストロースの「日本文化は両極端のあいだを揺れ動く、驚くべき適応性をもっている」という指摘が思い出される。レヴィ=ストロースは、その例として、西洋社会では分断されている神話と歴史に、日本においては親密な関係性があることや、幾何学模様と自然を表現した絵柄を隣り合わせにデザインされた着物の柄(写真)などを挙げている。
これは元を辿れば、万物全てに魂が宿り、人間と動植物、物質と生命などを結びつける神道の世界像にその深淵があるという考察は、日本人の感性の源について大変示唆的である。
https://news.goo.ne.jp/article/phpbiz/entertainment/phpbiz-20201127200430574.html?page=1

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原発事故で野生キノコ食用自粛に…文化の継承と安心、両立させる仕組み必要

2021-01-02 | 先住民族関連
毎日新聞 2021/01/01 15:30
 2021年、東日本大震災による東京電力福島第1原発事故から10年になる。東電柏崎刈羽原発は原子力規制委員会の全審査を終え、焦点は再稼働の地元同意の可否に移った。この10年、東電の二つの原発と新潟はどのように関わり、新潟に何をもたらしたのか――。県内の人々への取材を通じ、改めて考えたい。【井口彩】
 紅葉が山を彩る11月3日。湯沢町の公園に「魚沼きのこの会」のメンバー十数人が集まった。
 事務担当を務める同町の大竹文雄さん(64)が説明した。「チャナメツムタケにムキタケ、ムラサキシメジ……。今の時期、山にはおいしいキノコがいろいろあります」
 同会は1995年、魚沼地域のキノコ研究を深めようと発足。年に3、4回集まってキノコを採りに行ったり、持ち寄ったキノコの品評会をしたりしてきた。居住地は県内外を問わない。参加目的も「キノコの種類を知りたい」「珍しいキノコを探してみたい」などとさまざまだ。
 一行は、数組に分かれて周辺の山の中へ。記者は会長の中平隆政さん(67)=南魚沼市=とともに同町三俣の山に入った。一見するとただ落ち葉が積もっただけの地面に、目をこらすと大小さまざまなキノコが顔をのぞかせている。
 山に入って30分ほどたったころ「こっちにナメコがありました!」と声が上がった。見ると、コナラの木に二、三十個のナメコがびっしり生えている。下からすくうようにもぐと、簡単に採れた。
 約1時間半、キノコ採りをした後は、町の料理店で納会をした。けんちん汁やチキンのトマト煮込み、白あえなど、色とりどりの料理がテーブルに並ぶ。大竹さんが採り、店に提供したキノコがほとんどの料理に使われている。
 記者も一緒に食べた。普段食べているキノコよりも格段に風味や食感がいい。「こんなにおいしいものが、食べられなくなっているなんて」。頭の中にこんな感想がよぎった。なぜならこのキノコは、出荷・食用自粛の対象だからだ。
     ◇
 魚沼地方では、古くからキノコや山菜などの山の幸を採って食べる文化が受け継がれてきた。冬になれば、高さ数メートルの白壁がそびえる日本一の豪雪地帯。春から秋にかけて収穫されるキノコは、農作物の採れなくなる冬場の貴重な栄養源だった。
 同会メンバーで、十日町市・松之山温泉の旅館「凌雲閣」で16年まで約30年にわたり料理人を務めた滝沢博さん(73)も、幼いころからそうした文化に慣れ親しんだ一人だ。「採ったキノコを塩漬けしたり乾燥させたりする保存法は、自分も近所の人もみんな生活の中に取り入れていた」と振り返る。
 しかし福島原発事故で、湯沢町のキノコを巡る状況は一変した。
 12年10月、同町三国の山中で採れた「シロヌメリイグチ」から、国の基準値「1キロ当たり100ベクレル」の4・5倍に当たる、1キロあたり450ベクレルの放射性セシウムを検出。同月に県が実施した緊急調査では、湯沢▽神立▽土樽▽三俣▽三国――の同町5地区で採取された野生キノコ7種でいずれも基準値を下回ったが、県は「まだ安全とは言い切れない」として出荷・食用の自粛を呼びかけた。
 同町産の野生キノコは、以後も断続的に基準値を超える放射性物質を検出している。19年7月にはナラタケのみ解除されたが、湯沢町の野生キノコはいまだに自粛要請が続いているのだ。
 高齢化で、キノコ採りに山に入る人が減り、キノコを食べる文化が姿を消し始めつつある中で起きた原発事故。「我々の仲間でも、事故後にキノコを食べなくなった人がいた」(滝沢さん)。町の直売所でキノコを売ったり、旅館で地物のキノコ料理を出したりすることも自粛しなければならなくなった。
 それでも、同会では変わらず湯沢町でキノコを採り、食べてきた。「高い数値が出たのは町の公園の中の水が集まってくるところ。放射性物質は水とともに集まりやすいから、それ以外は問題ない」というのが、メンバーの共通見解だからだ。中平さんは淡々と語る。「気にする人は食べなければいいし、気にしない人は自己責任で食べる。自分としては、(高齢で)先もないし、放射性物質の影響を受ける確率よりも、毒キノコの方がよっぽど怖いですよ」
 キノコを食べる文化は、食べる人がいないと守れない。彼らは、意図こそしていないが、脈々と続いてきた食文化を絶やさないよう持ちこたえる一つの“とりで”になっているのではないか。
     ◇
 食文化の継承か、食の安心か――。放射性物質の専門家は、この二つを両立させる仕組みが必要だと指摘する。
 放射性物質による植物や土壌への影響を研究する、量子科学技術研究開発機構の田上恵子グループリーダーは、そもそも「いまの基準を超えるキノコを食べたとしても、健康には全く影響がない」と断じる。
 現行の基準は1キロ単位の数値を基に決められているが、1キロものキノコを一度に食べることはそうなく、採れる時期も限られる。摂取する放射性物質の量は、毎日食べるコメなどに比べて少なく、身体への害が出るレベルまで被ばくするとは考えにくいという。
 安心して食べられる「上限値」が日本にはないことも問題だという。田上さんによると、1986年のチェルノブイリ原発事故で影響を受けたノルウェーでは、キノコを餌にするトナカイの肉を食べる先住民族の文化を守ろうと、年間に食べる上限量を決めた上で、1キロ当たり数千ベクレルのトナカイ肉の食用を認めた。
 田上さんが強調するのは、リスクをきちんと評価することだ。「政府による保証がないために、基準値を超えたものを食べることに対する『罪悪感』が生まれてしまう。基準値を確実に超えない種類は規制を外すなど、キノコを食べる文化を守りつつ、できることがあるのではないか」
………………………………………………………………………………………………………
 ◇1キロあたり760ベクレル
 県内の農産物から検出された放射性セシウムの最高値。2012年に十日町市で捕獲された熊肉から検出した。国は熊肉の出荷制限を指示し、20年10月に一部解除された。山菜のコシアブラも14年から津南町、魚沼市、南魚沼市、湯沢町で同116〜220ベクレルを検出。現在でも4市町で国による出荷制限が続いている。
https://news.goo.ne.jp/article/mainichi/nation/mainichi-20210101k0000m040049000c.html

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