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「食べ物をあげるから」と騙して我が子を“生き埋め”に…3村が飢餓で全滅した「秋山郷」の“凄まじい言い伝え”とは

2024-12-31 | アイヌ民族関連

 

ブックバン 12/31(火) 6:00

これまで、さまざまなテーマでノンフィクション作品を発表してきた作家・八木澤高明さん。新刊『忘れられた日本史の現場を歩く』(辰巳出版)では、スペイン風邪のパンデミックで多くの人が亡くなった村、実際に存在した姥捨山、本州にあったアイヌの集落など、八木澤さん自身の足で全国19ヵ所を歩き、日本の“裏面史”を記録している。

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同書のなかでも、江戸時代の天明の飢饉(ききん)・天保の飢饉によって集落が3つも全滅したという長野県の「秋山郷」での、飢餓にまつわる言い伝えは凄まじいものがある。この地域を訪ねてわかった、当時の記憶とは――。

(以下、同書より一部引用・再編集しました)

天保の飢饉ですべての村人が飢え死にした「甘酒村」

『忘れられた日本史の現場を歩く』八木澤高明[著](辰巳出版)

息を切らせながら、ひとり尾根道を登っていた。その道は、江戸時代以前から秋山郷と下界とを結ぶ生活の道であった。今では、時おり山歩きを楽しむ人が足を運ぶだけだ。

聞こえてくるのは、私の足音と、ヒグラシのような物悲しい音を響かせているエゾハルゼミの鳴き声だけである。獣が出てこないか、不安になって、発作的に「ウオーッ」と声をあげる。熊やイノシシを避けるには、こちらの存在を知らせるしかない。雄叫びの効果があったのか、50メートルほど先でガサゴソと音がしたかと思ったら、暗灰色(あんかいしょく)をした1メートルほどのイノシシが背を向けて逃げていった。

私が向かっていたのは、かつてあった甘酒村(あまざけむら)という名の村である。名前の由来は、字のとおり、酒を作っていたことからついたそうで、何とも言えぬ生活の匂いが漂ってくる。今では廃村となってしまっているが、廃村となった理由は情緒ある名前とは対照的に極めて悲劇的である。江戸時代には飢饉が頻発したが、三大飢饉のひとつである天保の飢饉ですべての村人が飢え死にしたのだ。

「食べ物を半分あげるから穴の中に入りなさい」といって子どもを生き埋めに…

甘酒村の人々の霊を弔う墓石

尾根を20分ほど登り、平坦な場所に着いたと思ったら甘酒村の跡だった。ぽっかりと森が開け、水田が広がっている。水田を見下ろすように墓石が置かれていた。もともと墓石は周囲の森の中に放置されていたのだが、他の地区の人々が霊を弔うために1ヶ所に集めたという。この地で無念の死を遂げた人々は、初夏の爽やかな風に揺られる稲をどんな思いで見つめているのだろうか。

秋山郷で稲作が行われるようになったのは、明治時代に入ってからのことで、江戸時代には稗や粟といった雑穀や蕎麦が主食であり、森林を切り開く焼畑によって日々の糧を得ていた。私は村の女性からこんな言い伝えを聞いていた。

「ちょうど飢饉の年のことだったそうです。秋山郷には雑穀や栃の実を混ぜて作ったあっぽという郷土食があるんですけど、甘酒村の人が、もう食べ物がないから、あっぽを分けてもらってきなさいと子どもに言ったそうです。その間に穴を掘って、子どもがあっぽをもらってきたら、半分あげるから穴の中に入りなさいと言って、生き埋めにしたそうです」

家族が生き残るために子どもを殺めても、結局甘酒村は全滅してしまった。村のどこかに生き埋めにされた子どもも眠っている。この場所全体が墓地なのだ。

天明の飢饉で全滅した「大秋山村」と「矢櫃村」

8軒の民家があった大秋山村で亡くなった村人を弔う地蔵

秋山郷が世に知られるきっかけとなったのは、江戸時代に遡る。『北越雪譜』の著者として知られている鈴木牧之(すずき・ぼくし)が、1828(文政11)年にこの地を訪ね『秋山記行』を著したことにある。鈴木牧之は、その時甘酒村にも立ち寄った。甘酒村には2軒の民家があって、ひとりの女性と会話を交わしている。女性は牧之に「天明の飢饉では、大秋山村が全滅してしまったが、私の村は何とか大丈夫だった。食べ物にも困っていない」と言った。しかし、それから10年も経たぬうちに、甘酒村の人々はすべて亡くなってしまった。おそらく、牧之と話をした女性も飢饉で亡くなったことだろう。

甘酒村が全滅したのは天保の飢饉であるが、それより50年ほど前の天明の飢饉でも、大秋山村と矢櫃村(やびつむら)の2つの村が全滅している。

大秋山村は、秋山郷でも最初に人々が集落を形成した場所だったことから、大秋山と呼ばれていた。飢饉が発生した当時、8軒の家があったという。私はその場所へと向かってみた。

薄暗い林の中の道を、30分ほど歩いていくと、かつての大秋山村の集落跡に着く。その目印は1ヶ所に集められた墓である。ひとつの墓には一〇月三日という命日が刻まれていた。天明の飢饉の際に亡くなった村人のものだという。旧暦の10月といえば、新暦でいう11月下旬ぐらいのことだ。秋にほとんど食べ物を収穫できず、冬を前にこの人物は息絶えたのだろう。私は名も知らぬ故人の墓標に手を合わせた。

「ここで田んぼを掘ったのは、戦争が終わってからだ」

230年ほど前に建てられた小赤沢地区にある福原家。飢饉に関する資料が展示されている

ここ秋山郷では、飢饉によって3つの村が全滅した。それ以外の地区でも、少なからぬ死者が出たが、かろうじて全滅を免れている。例をあげれば、天明の飢饉では、小赤沢(こあかさわ)地区で、22軒のうち9軒が全滅し、秋山郷全体で173人が亡くなっている。天保の飢饉の際には和山(わやま)という地区で、5戸あった家が男女2人を除いて全滅している。この土地の人々は常に飢饉による飢え死にと隣り合わせの厳しい生活を余儀なくされていたのだった。

大秋山村跡の近くに屋敷という地区がある。そこで91歳になる老婆と出会った。昔の生活はどのようなものだったのか。

「昔は畑まで1時間半も歩かなきゃいけなかったから朝早くから家を出て、それから畑仕事をして、夕方家に帰ってきたら、石臼を挽いたりして、夜中まで働きどおしだったよ。田んぼはなかったからお米は食べられなかった。ここで田んぼを掘ったのは、戦争が終わってからだ。昔に比べたら、いい時代になったな」

江戸時代の飢饉で最後に村人が死に絶えた時代から、200年近くの年月が過ぎた。飢饉という言葉は、歴史の中に埋もれているようにも感じるが、老婆の話を聞きながら、日々食卓に食べ物が並んでいることが当たり前ではないという思いを噛みしめたのだった。

八木澤高明(やぎさわ・たかあき)

1972年、神奈川県横浜市生まれ。ノンフィクション作家。写真週刊誌カメラマンを経てフリーランスとして執筆活動に入る。世間が目を向けない人間を対象に国内はもとより世界各地を取材し、『マオキッズ 毛沢東のこどもたちを巡る旅』で第19回小学館ノンフィクション大賞優秀賞を受賞。著書に『黄金町マリア』(亜紀書房)『花電車芸人』(角川新書)『日本殺人巡礼』『青線 売春の記憶を刻む旅』(集英社文庫)『裏横浜 グレーな世界とその痕跡』(ちくま新書)『殺め家』(鉄人社)などがある。

協力:辰巳出版 辰巳出版

 Book Bang編集部

 新潮社

https://news.yahoo.co.jp/articles/f6871e5692657965054ae326efd492da2ee7d6c6

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