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社説:琉球遺骨の返還 京大は世界の潮流見よ

2022-04-29 | ウチナー・沖縄
京都新聞4/28(木) 16:01配信
 旧京都帝国大が戦前、沖縄県の墓から持ち出した琉球人遺骨の返還を子孫の住民らが求めた訴訟の判決で、京都地裁は原告の「所有権」を認めず、請求を棄却した。
 研究目的とされる遺骨の返還訴訟で初の判決だが、先住民の権利を尊重する世界の流れを踏まえた司法判断といえまい。不満が残る。
 原告住民は今帰仁(なきじん)村の「百按司(むむじゃな)墓」を祭っているが、他にも多数の子孫が参拝していることを棄却理由とした。しかし、14~15世紀の墓であり、現代の所有権で判断するのは違和感がある。
 世界の遺骨返還事例に詳しい考古学者は、遺骨との関係が不明でも返還を受ける個人や団体は幅広く想定すべきとしている。
 そもそも先住民族の遺骨返還問題は、18世紀以降の植民地時代に先住民弾圧や墓の盗掘で人骨を集めたことに起因する。人類学の人骨研究のためというが、大学や博物館のコレクションに隠された問題も知っておくべきだろう。
 先住民による返還運動は、ニュージーランドのマオリが先駆けで、1980年代に活発化した。90年に米国が返還法を制定、2007年には国連が先住民族の権利宣言を採択、遺骨返還を求める権利を明記した。日本も賛成した。
 目を向けたいのは、多くの博物館や大学、研究機関が独自に方針や制度を整え、研究倫理に基づいて返還を進めたことだ。
 日本では08年に「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」が衆参両院で採択された。政府は遺骨の返還を進め、返還先が不明な場合は北海道内の国立慰霊施設に集約している。北海道大は返還訴訟で和解し、アイヌ団体や子孫に返還している。
 一方、京都大は琉球遺骨の返還を拒み、子孫の質問に回答もしていない。戦前、人類学者が沖縄などで多くの遺骨を持ち出し、今も所蔵しているが、情報開示は十分といえない。百按司墓での採取は県の許可を得たと正当化するが、子孫が承諾した記録はない。京大はかたくなな姿勢を改めるべきだ。
 研究者は、遺骨を「学術的資料」とみなし、返還によって資料価値が損なわれるというが、子孫が祖先の遺骨利用に反発するのは当然ではないか。研究者は学問の倫理を自覚してもらいたい。
 海外の遺骨返還事例をみると、過去の反省と謝罪、和解の機会をつくり、当事者が協力することが重要な課題とされる。京大はもっと世界の潮流に目を向け、政府も積極的に関わる必要がある。
https://news.yahoo.co.jp/articles/179e16c1d40dda8a64f86752e3f8b1c5044e267e

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ネイティブアメリカンが県知事を表敬

2022-04-29 | 先住民族関連
RKB毎日放送2022-04-29

アメリカの先住民族の男性2人が、28日、福岡県知事を表敬訪問しました。
福岡県庁を訪れたのは、ネイティブアメリカンのトニー・ダンケンさんとラウリー・ビゲーさんです。
この表敬訪問は、今年10月に添田町の英彦山神宮で行われるネイティブアメリカン伝統の踊り・「パウワウ」と和太鼓などを融合させるイベントを紹介するために実現したものです。
服部知事は、「異文化の相互理解の促進につなげてほしい」と期待感を示しています。
https://rkb.jp/news-rkb/202204281527/

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ミャンマーで拷問を受けて日本に逃げてきたロヒンギャ男性 帰る場所がないのに「難民」になれない苦悩

2022-04-29 | 先住民族関連
アエラドット2022/04/28 08:00

© AERA dot. 提供 ロヒンギャのミョーチョーチョーさん(撮影/岩下明日香)
 ロシアに侵攻されたウクライナから国外に逃れた難民が500万人を超えた。岸田文雄首相は16日、ウクライナからの避難民受け入れを踏まえ、紛争地からの「準難民」制度の創設を検討していると明らかにした。だが条約上は「難民」に当たらないという姿勢は崩しておらず、難民認定のハードルは依然として高い。2020年の日本の難民認定率はわずか1.2%。ウクライナに限らず、日本で難民に認められる日を待ち続けている外国人が大勢いる。入管施設における死亡事件なども問題になるなか、祖国に帰りたくても帰ることのできない当事者たちは、どのような思いでいるのか。「前編」ではミャンマーの少数民族ロヒンギャの男性のケースを紹介する。
*  *  *
「これはミャンマーで民主化活動をやっていたときにできた傷。右手で刀を持って、左手でガードするから体の左側に傷が多い。この傷は一生消えない」
 ミャンマー西部、ラカイン州出身のミョーチョーチョーさん(36)。ミャンマー軍が迫害の対象としてきた、イスラム系少数民族のロヒンギャである。2006年に祖国を逃れ、日本にたどり着いた。日本で難民申請をしたが、16年たった今でも難民とは認められず、在留資格のない状態が続いている。
 ミョーさんが2歳のとき、ミャンマー国軍がロヒンギャの村々を襲撃してきた。一家で親戚のいる最大都市・ヤンゴンへ逃げた。ミャンマーでは仏教徒が約9割を占め、キリスト教徒やイスラム教徒は少数派だ。都会にまぎれて暮らしていたが、顔立ちからしてイスラム教徒であることは、周囲から一目瞭然だったという。
「ミャンマー人は仏教系のアジア顔が9割。イスラム教徒はインド寄りの顔が多いので、私がイスラム教徒であることは隠せない。さらに、イスラム教徒の中でもロヒンギャは仲間外れにされる。だから、ヤンゴンにいたときは、ロヒンギャだとは名乗らなかった」
■警察当局から受けた「拷問」
 2004年、18歳だったミョーさんは、周囲の若者と同じようにミャンマーの民主化活動に参加した。刀を握って、武力でデモを鎮圧しようとする警察や治安部隊と対峙した。その時にできた傷は、冒頭で語ったように「一生消えない傷」となり、今もミョーさんの左腕には深く刻まれた無数の切り傷の痕が残っている。
 民主化活動を続けたミョーさんは、警察当局に計4回拘束された。
 4回目に拘束される直前の夜――ミョーさんを含む22人の民主化活動メンバーは喫茶店で集会を開いていた。そこに国軍と警察がトラック4台で乗り込んできた。
「動くな、頭を下に向けて上を向くな!」
 銃口を突きつけられ、トラックに乗せられた。それまでは警察署への連行だったが、このときは、刑務所に直行だった。
「ミャンマーの刑務所は、すごく汚い。食事は1日1食で、おかずはない。硬く炊いた米に塩とお湯をかけて出される。石みたいな米で食べられないようなもの」
 夜になると3人1組で尋問部屋に連れていかれ、そこで全裸にされ、こん棒で打たれた。国軍からは「なぜ軍の反対活動をするのか」「誰の指示なのか」と拷問された。
 14日間の拷問の末、国軍はメンバーの親たちに連絡してワイロを要求。22人のうち7人が解放されることになった。そのとき、ミョーさんも解放された。
「親は民主化活動を止めませんでした。気をつけてやりなさいと、応援してくれていた。父は、自分の息子が間違っていることをしているわけではないと、わかってくれていたから……」
 ただ、拘束されるたびにワイロを要求され、家計は苦しくなっていた。国軍に目をつけられたことで、「もう海外に逃げるしかない」と決心し、ミョーさんは06年に親戚のいる日本を目指した。
■日本に来て知った「難民」の現実
 ミャンマーでは1982年、軍事政権下で国籍法が改正され、135の先住民族にはミャンマー国籍が与えられた。先住民族は、第1次英緬(えいめん)戦争が始まる1824年より前に住んでいた民族とされた。そこにロヒンギャは含まれないとされ、先住民族の枠組みから除外されてきた(注1)。
 それゆえ、ロヒンギャであるミョーさんには国籍がない。日本へ渡ろうにもパスポートを発行することができず、密航ブローカーを利用して偽造パスポートで出国せざるを得なかった。当時、偽造パスポート代は日本円で10万~15万円。他にも、短期滞在のビザ代や航空券代などの費用が必要だった。
「空港にも軍がいるから、ブローカーと一緒に行って、通してもらえるように事前にワイロを払った」
 ワイロを渡しても計画の途中で国軍に捕まるかもしれない。空港を突破してミャンマーを出国できても、日本に到着したときに入国できるのか。不安と緊張でいっぱいだった。
 日本に到着し、入国審査を通過したときは、「もう家族を苦しめることがなくなるんだ」と安堵した。ミャンマーに残してきた家族を、いつか安全な日本に呼び寄せて平穏に暮らせる日が来ることを願っていた。
 だが、「現実は違った」とミョーさんは肩を落とす。
「日本は国連で難民を受け入れると発表していたのに……。ここに来てわかったことは、難民は全然認められないということ」
 2006年8月に短期滞在ビザで入国してから約1週間後、東京入国管理局に出向いて難民申請をした。そして、役所で外国人登録証と、3カ月働ける「特定活動」の在留資格を得た。在留資格は、3カ月ごとに役所に申請していたが、11年ごろからは申請先が入管に変わったという。
 12年、難民申請の1回目の審査結果が出た。入管からは「難民に該当しない」と、却下された。「なぜか」と理由を問うと、入管から「理由を知りたいなら裁判をしてください」という答えが返ってきた。
「異議申し立てをしたら、それもダメだという結果が出て、収容された」
■入管職員の「常套手段」
 12年1月から東京入国管理局に3カ月、茨城県牛久市にある東日本入国管理センターに9カ月、計1年間収容された。
 牛久の収容施設には、外国人から「チケット」と呼ばれる入管の担当者がいたという。「チケット」は外国人を国に帰らせる手続きをする担当で、月2回の頻度で外国人に対して「あなたはいつ国に帰るの?」「あなたのビザは下りないよ」「日本は難民申請を認めていないから、あなたもわかるでしょ。だから、早く国に帰りなさい」と詰め寄っていたという。
「その言い方は、心を痛めつけるようだった。こっちが落ち込むようなことを言い続けて、外国人の口から『国に帰ります』と言わせようとしていた。それで、結構、他の外国人はキレて、その場でけんかになってしまうから、暴力は頻繁にあった。(担当者は)あたかも外国人が悪いかのように仕向けて、手を出してくるのを待っている。そして、7人くらいの職員がパーッと入ってきて、外国人を縛って、別の部屋に連れていく」
 ミョーさんには、それが外国人への制圧を正当化するための常套手段に思えたという。収容施設には監視カメラも設置されているが、これまでその映像は明るみに出なかった。ただ、21年3月、スリランカ人女性のウィシュマ・サンダマリさん(当時33)が収容中に死亡した事件を機に、少しずつ映像などの物証が出てくるようになり、入管の在り方が問われるようになってきた。
「日本社会で、ふつうに出会う日本人はみんな優しい。でも、入管の中はどうしてあんなにひどいんだろう。考えても答えが出ない。日本は労働力が足りないから外国から労働者を入れようとしているのに、すでに日本にいる外国人には、ビザを与えない。真面目に生きようとしているだけなのに……」
 13年1月、ミョーさんは「仮放免者」として牛久から出所した。だがあくまで「仮放免」であり、在留資格がないという扱いは変わらない。就労は許可されず、移動の自由も制限される。
 ミョーさんが移動できるのは、東京、神奈川、埼玉の3都県のみ。所在を証明するために、ミャンマーの軍事クーデターへの反対活動をしている様子を撮影、印刷して、写真にある自分の顔にマル印と場所などを記入して、2カ月半ごとに入管に提出しなければならないという。
「移動の理由を、『民主化活動のため』と書いただけでは許可してもらえない。ちゃんと証拠も見せないといけないんです。もしミャンマーでクーデターがなかったら、『活動のため』という理由も通らない」
■ロヒンギャ大虐殺で家族はバングラデシュに避難 
 17年、ミョーさんの出身地であるミャンマー西部のラカイン州では、国軍の掃討作戦によってロヒンギャの虐殺が起きていた。9000人以上が殺害され、74万人以上ものロヒンギャが隣国バングラデシュに逃げて難民になった。ミョーさんの家族は、18年にバングラデシュに避難していた。
 自分名義の携帯電話を契約することができないミョーさんは、周囲の手を借りながらやっとの思いで弟とフェイスブックでつながった。弟と話をすると「もう手遅れだよ」と泣いていた。ミョーさんの父親は、がんに侵されていたのだ。
「お父さんは、元気なときだけビデオ通話に出てくれた。でも、わかるんですよ。痩せてきて、顔色が悪くなっているのが見えるから。本当につらかった……」
 ミョーさんは19年12月から21年4月まで、再び出入国在留管理局に収容された。弟によると、この間に父親は、せきをすると血が出るほど病状が悪化していた。だが、就労することが許されないミョーさんに、できることはなかった。
 22年2月6日、弟から連絡が入った。「お父さんは今朝亡くなった」と。
「長男として何もできなかった。助けたいけど、日本で働けないから、治療費を送金することもできなかった。私はこんなに安全な国にいて、こんなに丈夫な体なのに。働けるんだったらなんでもしますよ。ちゃんと働いて日本の税金だって納めたい。せめて、お父さんの葬儀代を送りたかった……」
 入管からは何度も「ミャンマーに帰りなさい」と言われてきた。だが、ミャンマーは、ロヒンギャを国民として認めていない。ミョーさんは途方に暮れる。
「ミャンマーのどこに帰る場所があるのか。私のような難民は、帰りたくても帰る場所がない。どうしたらいいんでしょうか……」
【後編】に続く。
(AERA dot.編集部 岩下明日香)
※注1『ミャンマー政変 ――クーデターの深層を探る』北川成史著 (ちくま新書)を参照
https://www.msn.com/ja-jp/news/national/e3-83-9f-e3-83-a3-e3-83-b3-e3-83-9e-e3-83-bc-e3-81-a7-e6-8b-b7-e5-95-8f-e3-82-92-e5-8f-97-e3-81-91-e3-81-a6-e6-97-a5-e6-9c-ac-e3-81-ab-e9-80-83-e3-81-92-e3-81-a6-e3-81-8d-e3-81-9f-e3-83-ad-e3-83-92-e3-83-b3-e3-82-ae-e3-83-a3-e7-94-b7-e6-80-a7-e5-b8-b0-e3-82/ar-AAWFP4P?ocid=BingNewsSearch

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最終回迎えた『ゴールデンカムイ』の展覧会に潜入! 笑いあり、涙ありの“闇鍋”のような空間は必見

2022-04-29 | アイヌ民族関連
クランクイン4/28(木) 12:40配信

「ゴールデンカムイ展」の様子
 野田サトルによるコミック『ゴールデンカムイ』(集英社)の魅力に迫る展覧会「ゴールデンカムイ展」が、4月28日(木)から、東京ドームシティ内にあるギャラリー「Gallery AaMo(ギャラリー アーモ)」で開催。ついに本日最終回を迎え、8年の連載に幕を降ろす本作の展覧会ということもあり、チケットは一部日程を除き完売続出。そんな本展に、クランクイン!トレンドが、一足お先にお邪魔してきました。思わず目頭が熱くなる“胸熱”な展示から、本作ならではの“くすり”と笑える展示まで、魅力たっぷりな本展の様子をピックアップしてご紹介します。(取材・文・写真=河内香奈子) ※なお、本展はコミック最新刊までの展示があるため、ネタバレを含みます。ご注意ください
■迫力満点! ヒグマの剥製に驚がく
 今回開催される「ゴールデンカムイ展」は、『ゴールデンカムイ』の笑い、涙、過去、未来を全部煮込んだ“超特盛闇鍋展覧会”。6つのゾーンで構成されており、120点を超えるイラストや作中に登場したアイテムの展示を通して、本作の魅力に迫ることができます。
 まずエントランスから足を踏み入れると、第1ゾーン「金塊争奪戦の開幕」に到着。ここでは、本作の核となる“金塊争奪戦”に参加した杉元一行、第七師団、土方一派など、主要キャラクターが集結するゾーンで、彼らのグラフィックや印象的なシーンの原画、そしてモデルとなった実物資料が飾られています。
 原画はもちろん、実物資料の展示はレア! 各キャラクターが作中で身に着けている衣装や武器のモデルとなった資料が展示されており、激しい金塊争奪戦の中で、食らいつくように生きていた彼らの姿をありありと感じられます。また、野田先生のコメントが掲載されているのですが、「杉元(佐一)の所持品は少ない」「尾形(百之助)が最後の方で使っていた銃」といった一言が合わさることで、まるで彼らが私たちと同じ世界で生きているかのようなリアリティーを感じられました。
 早くも目頭が熱くなりながら歩みを進めると、目の前に大きなヒグマの剥製が! 作中で何度も登場するヒグマですが、実際に目の前に現れると、本物ではないと分かっていても恐怖心を覚えるものです。ヒグマと何度も敵対し、勝利を収めている杉元たちは、とんでもない精神力&戦闘力の持ち主だ…と再確認できたゾーンでした。

「ゴールデンカムイ展」の様子
■ヤバイ奴ら全員集合! 網走監獄を再現
 そして、個人的に1番テンションが上がったのが、第2ゾーンの「24人の刺青(いれずみ)囚人」の展示! 金塊の在りかを示す暗号の刺青が彫られた24人の囚人たちが、網走監獄をイメージした空間の中で、今にも脱獄しようとにらみを利かせています。
 縦長の通路に展示ゾーンがあり、壁には囚人たちの人相手配書と原画がずらりと掲載。そして、“不敗の牛山”こと牛山辰馬は壁を破り、“脱獄王”の白石由竹は手配書から脱獄しているなど、囚人たちの強烈すぎる個性がありありと再現されています。何より作中で登場する網走監獄に潜入した気分になり、思わずテンションが上がってしまうゾーンとなっていました。
 ちなみに、上を見上げると、いままさに網走監獄に潜入しようとしている杉元&白石&アシ(リ)パたちの姿が! 果たして彼らは、無事に潜入できるのでしょうか…?
■バーニャ! 笑って学べる展示ゾーンは必見
 それから、本作で欠かせない北の大地に息づく暮らし、食事、歴史背景など、多様な文化に触れられる第3ゾーン「命を繋ぐものたち」も必見! 作中で実際に登場したアイヌ民族の食事「チタタ(プ)」のサンプルや、アシ(リ)パがしばしば手にする制裁棒「ストゥ」など、さまざまな文化的資料が飾られています。
 こちらのゾーンの最後には、本誌掲載時にラッコ回を超える衝撃回と話題を集めた“バーニャ”シーンの大型展示、そして宙を舞う谷垣源次郎の姿が! 思わずくすりと笑ってしまう展示が畳みかけられているのも、本展ならではの魅力といえるかもしれません。
 このほかにも本展では、網走決戦、樺太ゲリラ戦、札幌大激戦から成る3つの戦いを迫力満点の展示で振り返れるゾーンや、美麗なカラーイラストの展示ゾーンなどが登場。さらに、展示の最終コーナーとなる第6ゾーンは、1歩、また1歩と歩く度に目頭が熱くなり、最後はなんだかほっこりしてしまうゾーンとなっていました。気になる詳細は、ぜひとも会場でチェックしてみてください。
 そして、4月28日(木)発売の「週間ヤングジャンプ」(集英社)掲載号で、ついに最終回を迎えた『ゴールデンカムイ』。楽しみである反面、「本当に終わるの?」「鶴見中尉の劇場はもう見られないの?」と終わってほしくない寂しさでいっぱいです。名残惜しみながらも、最後まで彼らの生きた証をしかと見届けたいと思います。
※アシ(リ)パの「リ」は小文字が正式表記
※チタタ(プ)の「プ」は小文字が正式表記
【「ゴールデンカムイ展」概要】
日程:4月28日(木)~6月26日(日)
場所:東京ドームシティ Gallery AaMo(ギャラリー アーモ)
https://news.yahoo.co.jp/articles/9ac392bf4d34cd257ac826e121a835641a135030

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動物名、アイヌ語の看板で おびひろ動物園 29日から夏季営業

2022-04-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞04/27 22:15

エゾタヌキ舎の前に設置された看板
 おびひろ動物園の夏季営業が大型連休初日の29日から始まる。新たにエゾタヌキやエゾフクロウなどの飼育舎前にアイヌ語名を紹介した看板を設置し、動物の生態を通じてアイヌ文化を学ぶ環境を整えた。
 アイヌ文化復興拠点「民族共生象徴空間(ウポポイ)」(胆振管内白老町)が2020年7月に開業し、帯広でもアイヌ文化発信に力を入れる試み。看板は縦80センチ、横89センチで、エゾタヌキ、エゾフクロウ、エゾモモンガ、エゾシカの飼育舎前に設置。エゾタヌキの看板では、生態などに加え、ヒグマの巣穴を利用する習性からアイヌ語で「ヒグマの叔父さん」と呼ばれていることを解説した。
 開園初日は飼育員らが園内の動物を写したカレンダーを先着100人に無料配布する。昨年度コロナ禍の影響で中止した「よるの動物園」を7、8月に開催予定。柚原和敏園長(59)は「四季を通して足を運んでもらい、いろんな魅力を感じてほしい」と話す。
 また、新たな動物としてベニコンゴウインコのつがい1組が仲間入りする。5月6日まで来園者からインコの愛称を募る。夏季営業は11月3日まで。(田口友博)
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/675026

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アイヌ民族の「刀」に見る文化の豊かさ 苫小牧市美術博物館が企画展

2022-04-28 | アイヌ民族関連
北海道新聞04/27 21:49 更新

エムシを手にする岩波学芸員
 苫小牧市美術博物館(末広町3)は29日から、アイヌ民族の儀礼用の刀剣「エムシ」などをテーマにした企画展「アイヌ刀 エムシ・タンネプイコロ(長い宝刀)・タクネプイコロ(短い宝刀)」を始める。同館所蔵の刀剣や刀掛帯を展示し、講演会や「リムセ」(舞踊)も披露する。同館は「アイヌ文化の豊かさや和人とのつながりを知るきっかけに」と来場を呼び掛けている。
 アイヌ文化や歴史への理解を深めてもらう狙いで、2020年に開催した収蔵品展「イクパスイ(捧酒(ほうしゅ)べら)」に続く第2弾。今回は、資料の少なさもあり、あまり展示の対象にされていないというアイヌ民族の「刀」に焦点を当てた。
 エムシはオヒョウなどの皮で織られた「エムシアッ」(刀掛帯)で肩から下げ、儀礼で男性が使う。つばを緩めて刀を納め、リムセで踊ったときに音が鳴る仕組み。和人から交易でもたらされた刀身にアイヌの人々がさやや柄を製作し、アイヌ文様の彫刻を施した。「魔物を再生しにくい」との伝承から、刀身をあえてさびさせているという。
 展示品はエムシやエムシアッ、タンネプイコロなど102点で、そのほとんどが初公開。日本刀も展示され、エムシとの違いを見比べられる。担当学芸員の岩波連さん(34)は「アイヌ刀は(これまでの研究で)あまり着目されておらず、分からないことが多い。今回の展示に注目してもらい、光を当てられれば」と期待する。
 5月28日午後2時から、北海道博物館の学芸主査を招いた講演会「アイヌ民族の刀帯 その変化と復興のあゆみ」を開催。6月11日午後2時からは苫小牧アイヌ協会によるリムセを無料で公開する。
 企画展は6月26日まで。観覧料は一般300円、高校・大学生200円、中学生以下は無料。講演会は事前申し込みが必要。問い合わせは同館(電)0144・35・2550(月曜休)へ。(竹田菜七)
※「エムシ」の「シ」、「プイコロ」の「プ」と「ロ」、「リムセ」の「ム」は小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/674919

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【出版】ウィズコロナとデジタル化の時代に向けた “暮らすように旅をする―新しいライフスタイルの提言『Nomads of the North北の遊牧民』“刊行

2022-04-28 | アイヌ民族関連
特定非営利活動法人 森の学校2022年4月27日 23時43分
フランスの哲学者ジル・ドゥルーズなどが提唱する「ノマド」的な遊牧民の思考。北海道をキャンピングカーで旅をする。四季の変化を感じながら、地元の人々との交流を生み、不思議な感覚を呼び覚まします。
NPO法人 森の学校(〒104-0061東京都中央区銀座七丁目18-13-203 https://www.morinogakkou.jp 代表:佐伯剛正)は、暮らすように旅をする、新しいライフスタイルの提言書『Nomads of the North北の遊牧民』を刊行しました。

Nomads of the North「北の遊牧民」
北海道をキャンピングカーでひとり旅をする。
哲学者ジル・ドゥルーズなどが提唱する「ノマド」的な遊牧民の思考をもち、四季の変化を五感で感じながらテーマを持った旅は、北の大地の深い自然と歴史の中で暮らす地元の人たちとの交流を生み、自然に対する不思議な感覚を呼び覚まします。
旅人の目に触れた、自然、野生動物、先住民族の文化と伝統、北の大地に恋した人たち…。
瞬間を切り取った多くの写真や文からは、読む人にとっての新たな生き方のヒントが見えてくるかもしれません。
写真家であり、実践家でもある著者が、デジタル化とウィズコロナの時代の今だからこそ「遊牧民的ライフスタイル」を提言します。
<テーマ>============================
1.暮らすように旅をする
 スマートフォンやPCの進化は、ウエブでのビジネスを大きく進化させてきた。都市部にいた人々も、地方など好きな場所で従来通りの仕事を続けられるようになっている。
 若い世代も単独、あるいは家族を伴い、キャンピングカーで出かけてネットを使ってビジネスをしながら長期滞在したり、移住している人々も増えている。
 これらは、新しい視点を生み出して行く。フランスの哲学者ジル・デゥールズなどが提唱する「ノマド」的な遊牧民の思考に近い。
 中央から離れ、周辺を移動し、多種多様な社会感覚を持つ人々。そうした人々の考え方を彼は「ノマドの思考」と呼ぶ。
 気に入った場所に長期間滞在することによって、通りすがりの旅人とは異なる視点も芽生えてくる。その土地への移住へと導かれていくかもしれない。そして地方自体にも新しい風が入ってくる。
2.「野生」に出会える貴重な北の大地
 オオカミは、今ではその姿を消したが、ヒグマは野生を失わず生きている。
 そのヒグマが生きているという実感は、私たち人間の中にある「野生」に気付ける貴重な機会を持つ事ができる。
3.北の大地には、私達の先住民族であるアイヌの人々が暮らしている。
 アイヌ民族の知恵が今こそ必要な時代ではないかと思う。自然を敬い、共に生きてきた人々から学ぶべきことは多い。

第13章 アイヌ民族の知恵
<このような方々に読んでいただきたい>==================
1.ネットを活用し、好きな場所で暮らしたいと考えている人々
2.キャンピングカーで、余裕のある旅を楽しみたいと考えている人々
3.北海道へ移住をしたいと考えている人々
4.自然とふれあいながら、写真を撮ったり絵を描いて楽しみたいと考えている人々
5.北海道の貴重な野生動物(鳥など)に出会いたいと考えている人々
6.日本の先住民アイヌ民族の文化や伝統にふれあいたいと考えている人々
<目次>==================
はじめに ―暮らすように旅をする―
第1章 北へ旅立つ
第2章 遊牧民的ライフスタイル
第3章 豊穣の海、知床へ
第4章 オホーツクの民・網走市
第5章 人類一万年の旅・ポー川史跡と国境の町・標津町
第6章 消えゆくサイロのある風景・根室市
第7章 木の文化が息づく町・置戸町
第8章 森林鉄道の痕跡が残る町・滝上町
第9章 石器と文学の町・遠軽町
第10章 コタン・コロ・カムイ(シマフクロウ)
第11章 輪廻転生の川と森
第12章 ミヤベイワナが棲む湖
第13章 アイヌ民族の知恵
第14章 パイオニアプランツ “白樺”
第15章 野生動物たちと共に
第16章 カーティスクリーク
第17章 北の湖は命の揺りかご
第18章 川は人を哲学者に、彫刻家に、またある時は科学者に
第19章 北の大地に恋した人
・水中のドラマに魅せられたひと
・木工作家はフライフィッシャー
・ライブハウスのオーナーもフライフィッシャー)
・森の人
・皮なめしの達人
・ヴァイオリンを作るシェフ
・林業男子はフライフィッシャー
・気球乗りは養蜂家
第20章 旅の出発地・中札内村
第21章 ある日、ある時、ある所

https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000098212.html

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いつか使える?『ゴールデンカムイ』で学んだクセ強な豆知識4選 ラッコ鍋の効果は…

2022-04-28 | アイヌ民族関連
マグミクス / 2022年4月27日 19時10分

■最高のエンタメとクセ強の知識が合わさった『ゴールデンカムイ』
 2022年4月28日(木)に最終回を迎える『ゴールデンカムイ』(著:野田サトル)。それに先駆け4月7日(木)からWEBコミックサイト「となりのヤングジャンプ」、アプリ「ヤンジャン!」で全話無料公開が行われ、最終回同日から東京ドームシティ Gallery AaMoで「ゴールデンカムイ展」も開催されるなど、クライマックスに向け熱狂を見せています。『ゴールデンカムイ』では野田先生が丹念に取材を行ったアイヌ文化の紹介や、北海道の大自然におけるサバイバル知識など、魅力的なクセの強い豆知識がたくさん登場するのも魅力です。この記事ではそんな知識を、ごくごく一部ですがご紹介します。「ああ、あの時に登場したやつだ」と、思い返していただければ幸いです。
●カエデの枝が折れて樹液がツララになったものを舐めると甘くて美味しい
 第3巻の 21話に登場したこちらの豆知識。アイヌの少女アシリパ(リが小文字)さんが、主人公の杉元に「あれを取りたい」とわざわざ肩車をさせて採取したカエデのツララに関する知識でした。
 正確にはカエデの枝が折れて、そこから滲み出た樹液がツララになったものが甘いそうです。カエデとはつまりメープルであり、舐めてみるとこれがほんのり甘く、まさに「天然の氷菓子」とのこと。さらに、「先端が最も甘い」というダメ押しの情報つきです。こちらは作中の料理を再現した、2016年9月22日の1日限定オープン「渋谷道玄坂ゴールデンカムイ軒」でも、再現したメニューが提供されました。この知識を役立てるかいなかは、私たち次第です。
●ラッコの肉を食べると、なんだか無性にムラムラするらしい
 どうにも最近、精力的な衰えを感じる、夫婦関係が冷え込んでいる……そんな方にオススメの知識がこちら、「ラッコ鍋を食べるとなんだかムラムラする」です。
 単行本12巻115話・116話で描かれた「ラッコ鍋」のエピソードはファン人気も一段と高く、さまざまなクラスタからも注目を集めました。同エピソードでは大量のバッタが外を飛び回るなか、「ラッコ鍋」を食らった『ゴールデンカムイ』が誇る筋骨隆々の男衆たちが、互いのむせかえるほどの色気にやられて、やり場のないムラムラを相撲で発散する名シーンが登場します。作中で説明されたアイヌの言い伝えでは「ラッコの煮える臭いが欲情を気絶するほど刺激する」「ラッコの肉を煮るときは必ず男女同数で部屋にいなければならないと信じられている」と説明されていますが、絶滅危惧種であるラッコの肉は当然市場には出回っていないので、実際に体験する機会はなさそうなのが残念です。
 また、このエピソードではみんなが賢者モードになった後に、谷垣源次郎とインカラマッ(ラは小文字)が初めて「オチウ」をし、物語も大きく動きました(その光景を見てチカパシは怖くて泣きました)。
※ここから先の記事では、物語の核心に触れないよう留意していますが、まだアニメ化されていない原作マンガの内容についての記載があります。未読の方はご了承のうえお読みください。
●極寒の川に落ちたら生存できるタイムリミットは10分
 北国ならではの初期豆知識は、第1巻7話で登場したこちら。まだ出会ったばかりだった主人公・杉元と脱獄王・白石が、一緒に極寒の川へ落ちた際にナレーションで挿入された情報です。
 あまりの寒さに運動能力や判断能力が一瞬にして低下、そうなってしまえば死は免れません。したがってこの10分間のうち、いかに暖をとる術を勝ち得るかが生死の分かれ目になるのです。
 そんな危機的状況のなか、のちにさまざまな名シーン珍シーンを生んだ杉元&白石コンビは記念すべき「初めての共同作業」を行い、何とか生き残りました。判断力が下がった白石が太すぎる木をゴリゴリして火を起こそうとしたり、銃弾をゴプッと吐き出したり、生死をかけた状況でもギャグが挟まれるテイストは、この時からキレキレです。
●五稜郭が星型なのは「死角」を生まないため!
 最後に最新29巻からも、北海道の名所に関する豆知識を紹介します。歴戦の猛者・土方歳三が語るところによると、「五稜郭が星(☆)の形状をしているのは、全方位に死角を作ることなく攻撃できるようにするため」だそう。その名の通り、五方に稜堡(りょうほ・城壁や要塞などの外に向かって突き出した角の箇所)があるため、例えばひとつの稜堡の石垣の死角に敵が入っても、隣の稜堡から視認して射撃できるのです。
 なるほど、義務教育時代に習った時はただ星型で面白いと思っただけのあの「五稜郭」ですが、「城郭」としてそんな設計意図があったとは。クライマックスまで、『ゴールデンカムイ』は知的好奇心を真っ当に刺激しまくってくるのですからたまりません。
 他にも「ヒグマの脳は小さいので頭部を撃っても殺せない可能性がある(あと、ヒグマの土饅頭に埋められた獲物は掘り返しちゃダメ)」「頭部に被弾しても生き残った実例は割とある」「アイヌの子供は6歳くらいまで病魔が近寄らないように、あえて汚い名前で呼ばれる」「タンニンなめしをした皮は濡れた状態で鉄に触れると黒く変色してしまう」「ハゲワシのような巨鳥や黒光りする大蛇の目撃例が実際にあった」……などなど、『ゴールデンカムイ』は私たちに凄まじいエンタメ体験と、普通に生きていれば覚えなかったであろう知識まで与えてくれました。
 アシリパさんの名前ひとつとっても、「(リは小文字)」の注釈ではじめて「そんな文字表記あったんだ」と驚くばかり。『ゴールデンカムイ』は、夢中で読んでいるうちにいろんなまめ知識が身につく最高の「教科書」です。(片野)
https://news.infoseek.co.jp/article/magmix_88584/

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沖縄に「自己決定権」はあるか~翁長前知事の宿題に対する筆者の回答(前編)

2022-04-28 | ウチナー・沖縄
論座2022年4月27日 10時0分
 今年、2022年は沖縄にとって大きな意味を持つ年である。1952年にサンフランシスコ平和条約が発効し、主権を回復した日本から沖縄が日本の施政権から切り離された「屈辱の日」から4月28日で70年を迎え、27年間に及ぶアメリカによる統治を経て1972年に沖縄が日本に返還されてから、5月15日で50年を迎えるからだ。
 日本にとって、「沖縄」とは何なのか。そして沖縄にとって「日本」とは何なのか。
 多くの人が、今この問いに様々な観点から向き合っている。
 僭越ながら私もこの問いに国際人権法という観点から向き合い、一つの推論を提示したい。
「ウチナーの未来はウチナーンチュが決める」
 先日惜しまれながら亡くなった、沖縄選出の前衆議院議員・照屋寛徳氏は、生前「ウチナーの未来はウチナーンチュが決める」という言葉をよく繰り返していた。これはまさに「自己決定権」をわかりやすくあらわした言葉と言えるだろう。沖縄返還から50年という節目にあたり、沖縄ではこの「自己決定権」という言葉に、今あらためて注目が集まっている。
 しかし、国際法における「自己決定権」は、非常に複雑で難しい権利である。
 自己決定権は第二次大戦後、植民地支配をはじめ、外国による支配や搾取に苦しむ人びとがその支配を断ち切り、独立を勝ち取る権利として発展した。しかしその後、たとえば先住民族など国内における特定の集団が高度な自治を確立する権利も含むようになるなど、その内容が国際社会の変容を受けて変化をしている権利でもある。
 また、国際人権法で保障されている権利のほとんどが「個人の権利」であるのに対し、「自己決定権」の主体は個人ではなく「people」、つまり集団であり、そのために自己決定権を考える際には、法主体である「people」たりえる人びとはどのような集団か、という問題がついてまわるのだ。沖縄のケースで言うと、沖縄の人びとが国際人権法上、自己決定権を有する「people」なのか、という問いである。
 筆者は、その問いを考えるための重要な起点が、70年前のサンフランシスコ平和条約と、50年前の沖縄返還である、と考えている。まだまだ研究の途上ではあるが、沖縄返還から50年という節目に、考え続けてきたこの問いに対し一つの可能性を提示したい。
 (本稿の内容はAsian Journal of International Law で公開予定の筆者の論文「An Outstanding Claim: The Ryukyu/Okinawa Peoples' Right to Self-Determination under International Human Rights Law」に基づく要約である。)
 その前に、私が「沖縄の自己決定権」を考えるきっかけとなった経緯を少し紹介したい。
>>この記事の関連記事
「自己決定権は先住民族固有の権利」~翁長知事に向けられた批判は適切か?
 筆者が「自己決定権」という言葉に強い関心を持ったのは、2015年9月、当時の翁長雄志沖縄県知事(故人)がスイス・ジュネーブの国連人権理事会で口頭声明を発表し、「沖縄の人びとは自己決定権や人権をないがしろにされています」と主張したときだった。(当時私は「島ぐるみ会議・国連部会」のスタッフとして同行しており、その経緯は2年前の論座 沖縄の翁⻑前知事が菅新政権の喉元に残した「楔」 で記した。)
 この声明はいっときは大きな話題を呼んだものの、帰国後の県議会で野党・自民党の議員が「自己決定権は先住民族に固有の権利」であり、「沖縄県民は先住民族であるという間違った印象を広めた」という趣旨の発言を繰り返し、翁長知事は猛烈な批判にさらされた。翁⻑知事は先住⺠族という認識ではなく、琉球併合や本⼟復帰などの歴史に基づいて沖縄の⼈びとの⾃⼰決定権という意味で使った、と繰り返し説明したが、新聞でも県議会での追及が⼤きく報道され、「⾃⼰決定権=先住⺠族に固有の権利」というイメージが定着した。
 しかし一部の議員が繰り返した「⾃⼰決定権は先住⺠族の固有の権利」という⾔説は、国際⼈権法に基づけば正確ではない。
 元々、自己決定権は植民地支配をはじめ、外国による支配や搾取に苦しむ人びとがその支配を断ち切り、独立を叶えるための基本原則として発展し、1960年に国連総会で採択された植民地独立付与宣言によって権利として確立した。先住民族に自己決定権が認められるようになったのは、そのもっと後、2007年に先住民族の権利宣言が採択されてからであり、むしろ先住民族は自己決定権を主張できる多様な「people」の一つ、と考える方が適切だ。
 さらに言えば、自己決定権は近年、「独立する権利」から、特定の集団が国家の中に存在しつつ「⾼度な⾃治を確⽴する権利」としての意味も含まれるようになっている。そのため⾃⼰決定権を主張することが、直接的に独⽴・分離を求めることにつながるという単純な図式にもならない。
知事の宿題~「歴史に基づく自己決定権」を主張できるか?
 沖縄で自己決定権の議論をこれまで牽引して来たのは、琉球・沖縄にルーツを持ち、先住民族としての自己認識を持つ人びとの団体やアカデミアである。
 先住民族であるかどうかは沖縄の人びとが決定するべき事柄であり“本土”出身の私が口を挟むべきことではないが、筆者も琉球・沖縄の人びとは「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(UNDRIP)に基づき、「先住民族」として自己決定権を主張できると考えている。(先住民族としての沖縄の人びとの権利の可能性については、去年3月に記した 沖縄県民投票に「意味はあった」~あれから2年、大浦湾に潜った に記した)
 とはいえ、翁長知事の国連演説をめぐり県議会で野党から強い批判があったことや、県内の市議会で「琉球・沖縄の人びとを先住民族と認識すること」を勧める国連人種差別撤廃委員会の勧告の撤回を求める意見書が採択されたことなどから考えると、先住民族としての自己認識を持たない人がいるのもまた事実だ。前述したように翁長知事もまた、批判にさらされた県議会で「自己決定権」について「先住民族という認識ではなく、琉球併合や本土復帰などの歴史に基づき、沖縄の人びとの自己決定権という意味で使った」と説明を繰り返していた。
 それでは、翁長知事が言うように琉球併合や本土復帰などの沖縄の歴史に基づき、「先住民族」とは別のpeopleとして、琉球・沖縄の人びとが自己決定権を主張することはできるのか?
 当時、島ぐるみ会議・国連部会のボランティアスタッフであり、また翁長知事が県議会で批判に晒されたときに何もできなかった一人の人間として、知事の残したこの問いに答えを見つけることは、筆者が知事から受け取った重い「宿題」だった。2015年からこの問いを考え続けるなかで、筆者は一つの可能性に辿り着いた。
辿り着いた答え~沖縄は「非自治地域」に類似する
 その可能性とは、琉球・沖縄の人びとが国連憲章や国連総会決議に基づき、第一に「非自治地域に準ずる地域の人民」として自己決定権を有していたと主張しうるのではないか、さらにその帰結として、「人民」としての自己決定権を主張しうるのではないか、という推論だ。その鍵となるのが70年前の「サンフランシスコ平和条約」と50年前の「沖縄返還」である。前編ではまず、「非自治地域」について考えたい。
 「非自治地域」という言葉を耳慣れない人も多いだろう。
 第二次世界大戦後に国際連合が作られたとき、敗戦国が有していた植民地などは「国連信託統治制度」の元に置かれ、戦勝国が有していた植民地は国連憲章11章に基づき、「非自治地域」として施政国が当該地域の発展や福祉の増進に責任を負うとされた。
 しかし世界的な脱植民地運動の広がりを受け、1960年12月の国連総会で、植民地独立付与宣言が採択され、信託統治地域、非自治地域、およびまだ独立を達成していない他のすべての地域において、植民地主義を早急に終わらせ、独立を達成させることを各国が合意した。つまり、非自治地域を含む、外国による人民の征服、支配および搾取が行われ、独立を達成していない全ての地域の人々について、自己決定権を有することが確認されたのだ。
 では、その当時沖縄は「信託統治地域」や「非自治地域」だったのだろうか?
 厳密に言えば、「信託統治地域」や「非自治地域」と認められるためには国連から指定を受ける必要があり、その意味では確かに琉球・沖縄は正式に「信託統治地域」・「非自治地域」として国連に指定されたことはない。しかし当時の琉球・沖縄はそれらの地域と多くの類似点があることやサンフランシスコ平和条約によって琉球・沖縄が置かれた奇妙な法的立場を鑑みれば、国連憲章11章の定める非自治地域に類似する地域、いってみれば「準非自治地域」とでも表すべき地域であったと主張できる、と考えている。
「植民地支配」との批判をかわす「施政権」「潜在主権」の二重構造
 植民地独立付与宣言から遡ること8年前、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効した。「サ条約」によって日本の主権が回復したが、沖縄は日本から切り離され、アメリカの統治下に置かれるようになったことはみなさんがご存知の通りだ。

「沖縄復帰50周年記念特別展」で展示されているサンフランシスコ平和条約の資料=2022年4月22日午後、東京都千代田区の国立公文書館、代表撮影
 しかし条約をよく読むと、本来はアメリカによる沖縄統治は、アメリカが「琉球・沖縄を含む南西諸島を国連の信託統治下に置くまで」という条件付きであったことが見て取れる。
 しかし現実には信託統治への移行は行われず、それどころかアメリカが「施政権」を有し日本が「潜在主権」を有するという奇妙な二重構造の元に沖縄は置かれることになった。
 この状況はアメリカにとっては非常に都合の良いものだった。第二次世界大戦後、国際社会は植民地主義に対して批判的になり、アメリカによる沖縄統治は異民族による植民地支配とも、領土拡大とも批判される可能性があったが、沖縄に日本の「潜在主権」を名目上残すことで、この批判をかわしながら沖縄を事実上軍事的な植民地として統治することが可能になったのだ。
 アメリカによる統治は厳しいものだった。日本からもアメリカからも市民権を与えられず、いずれの憲法からも保護されることはなかった。土地は軍によって強制的に奪われ、米兵による度重なる暴力や殺人、事故による被害、そしてそれらの不処罰が蔓延していた。
 琉球・沖縄の人びとがアメリカによる支配からの解放を切望し、日米両政府に琉球・沖縄の日本への復帰を繰り返し要求する中で、国際的な脱植民地化運動の高まりとともに、琉球・沖縄の人びとは新たな視点を獲得することになる。
フルシチョフの演説草稿にあった「Okinawa」「植民地支配の時代の生き残り」
 1960年、ソヴィエト連邦のニキータ・フルシチョフ共産党第一書記が国連総会で植民地独立付与宣言に関する演説を行った。国連総会に提出されたその演説草案では、大規模な植民地や信託統治領に加え、大国が保持する「強力な拠点」として西イリアン、ゴア、プエルトリコとともに沖縄を挙げ、これらの領土を超大国が保有することは「かつての植民地支配の時代の直接の生き残り」であると批判している。
 フルシチョフは実際の演説では琉球・沖縄を削除してはいるが、古関彰一・豊下楢彦両氏が「沖縄 憲法なき戦後」で指摘するように、フルシチョフが琉球・沖縄を「植民地あるいは半植民地と“同列に”沖縄を位置づけた」ことが草稿からは伺える。
 その後採択された植民地独立付与宣言に基づき、琉球政府立法院は1962年2月1日に「施政権返還に関する要請決議」(2.1決議)を採択し、すべての国連加盟国に向けて発信した。この中で立法院は植民地独立付与宣言に言及し、米国による沖縄統治が民族自決の方向に反していると批判し、すべての国連加盟国に対し「日本領土内で住民の意思に反して不当な支配がなされていることに対し、…沖縄に対する日本の主権がすみやかに完全に回復されるよう尽力」するよう強く要請した。この決議を読み上げた人こそ、翁長雄志氏の父である、翁長助静議員(当時)だった。
 しかし、日本政府の考えは違っていた。
 日本政府は、(1)琉球・沖縄はすでに独立している日本が潜在主権を有している領域であり(2)外国人による搾取はないという見解に基づき、琉球・沖縄を植民地や非自治地域と認識することは一度もなかった。その当然の帰結として日本政府はその琉球・沖縄が自己決定権を有する主体であると考えることもなかった。日本政府は琉球処分から積み上げてきた琉球・沖縄の領土的内地性と、サンフランシスコ平和条約以来繰り返してきた実態を伴わない「日本の潜在主権」という議論に基づき、琉球・沖縄を自己決定権の議論から排除したのである。

沖縄軍用地の接収と補償に関する米国のプライス勧告に反対して本土を訪れた沖縄軍用地問題折衝団代表。左から2人目が翁長助静・沖縄県真和志市長(当時)=1956年7月22日、羽田空港
沖縄は植民地独立付与宣言に基づき、自己決定権を有していた
 ここで重要なカギになると考えるのが、植民地独立付与宣言の翌日に採択された「国連総会決議1541」である。この決議では、非自治地域を「統治している国(administrating state)から地理的に分離し、民族的及び/又は文化的に異なる領域」と定義している。つまり、ここで大事なのは「潜在主権を有している国」ではなく「統治している国」なのだ。
 サンフランシスコ平和条約締結の際、確かに琉球・沖縄について日本が「潜在主権」を有すると確認されたが、それと同時に施政権はアメリカに渡ったことを思い出してほしい。とするならば、ここでいう施政権を持つ統治国(administrating state)はアメリカであり、琉球・沖縄はアメリカから「地理的に分離し、民族的及び/又は文化的に異なる領域」であることから、「総会決議1541」が定める定義に基づけば、琉球・沖縄はアメリカを統治国とする「非自治地域」に該当するということが導き出せる。
 また、この決議では、「宗主国(metropolitan state)と当該地域との間の行政、政治、司法、経済又は歴史的関係」が恣意的に当該地域を「従属的地位又は状態」に置く場合、その地域は非自治地域に該当するとも定めている。
 ここで思い出してほしいのが「サ条約」では元々、アメリカが琉球・沖縄を国連の信託統治下に置く“まで”、アメリカが施政権を有する、と定めていた、ということだ。しかし、現実にはアメリカは信託統治へ移行することなく、琉球・沖縄を従属的地位に置き、その人民に対してあらゆる権力を行使し続けた。
 「非自治地域」として正式にリストアップされてはいないとはいえ、これらの事実を踏まえれば、琉球・沖縄は「国連総会決議1541」のいう「非自治地域」の定義を満たしており、いわば「非自治地域に類する地域の人びと」として、植民地独立付与宣言に基づき自己決定権を有していたと主張することが可能ではないか、と筆者は考えている。
沖縄返還で自己決定権は終了したか?~後編の論点

屋良朝苗知事が「沖縄県の誕生」を高らかに宣言して始まった県主催の「新沖縄県発足式典」。公募して決めた真新しい県章(式壇右上)と「沖縄県民の歌」が紹介された=1972年5月15日、那覇市民会館
 ここまで、植民地独立付与宣言や関連する国連総会決議をもとに琉球・沖縄は「非自治地域」に類似し、その人々が自己決定権を有していたと考えうると議論してきた。ここで問題になるのが、50年前の「沖縄返還(本土復帰)」をどう考えるか、という点だ。
 たとえ琉球・沖縄の人々が米国統治下において「非自治地域」に準ずる地域の人びととして自己決定権を有していたと主張できたとしても、日本に返還された時点で主権が回復したと考えれば、「植民地独立付与宣言」に基づく自己決定権は終了したと捉えることもできるからだ。ここで冒頭に述べた、二つ目の論点が浮かび上がってくる。それは琉球・沖縄の人びとが「人民」として自己決定権を主張しうる、という推論だ。
 この点については、「沖縄返還(本土復帰)」と合わせて後編でさらに論じることにしたい。
後編は沖縄返還から50年の5月15日前後に公開する予定です。こちらの記事も、ぜひお読みください。
(阿部 藹 琉球大学客員研究員)
https://news.livedoor.com/article/detail/22072107/

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北海道の雪原に『ゴールデンカムイ』スノーアート 足跡のみで約100m×70mの巨大な絵 【動画公開】

2022-04-28 | アイヌ民族関連
オリコンニュース4/28(木) 0:16配信

『ゴールデンカムイ』のスノーアート (C)野田サトル/集英社
 人気漫画『ゴールデンカムイ』(作者:野田サトル)が、28日発売の連載誌『週刊ヤングジャンプ』(集英社)22・23合併号で最終回(314話)を迎えた。2014年8月の連載スタートから約8年の歴史に幕を下ろした。これを記念して、物語の舞台である北海道の雪原にアシリパと杉元を描く様子を収めたWEB動画と駅広告などによるビジュアル<THE SNOW COMIC>が公開された。
 「THE SNOW COMIC」は、『ゴールデンカムイ』連載完結を記念して、人の足で実際に雪を踏みしめることで、メインキャラクターであるアシリパと杉元を北海道の雪原に描くという企画。北海道在住のスノーアーティスト梶山智大さんにとっても初となる巨大なキャラクターのスノーアート制作となり、足跡のみで約100m×70mという規模の巨大な絵を描いた。
 何度もテストと修正を繰り返し、大雪によるアクシデントにも見舞われ…。その制作の過程を収めたメイキングムービーが公開され、試行錯誤しながら雪を踏みしめスノーアートができ上がっていく過程と、出会いからラストまでのアシリパと杉元の軌跡がオーバーラップする内容になっている。
 また、「THE SNOW COMIC」をドローンで空撮したグラフィック・映像を使用した、記念広告が品川・新宿・札幌・帯広にて掲出中。「ふたりの足跡は、北の大地に刻まれている。」というコピーと共に、スノーアートの実際の大きさを感じられるグラフィックに仕上がっている。
 2014年8月より『週刊ヤングジャンプ』で連載がスタートした同作は、明治時代の北海道を舞台に、アイヌが遺したという大金を手に入れるため、日露戦争の死線を潜り抜けた元軍人の杉元佐一が、アイヌの少女・アシリパと行動をともにし、一攫千金を夢みる物語。
 これまでテレビアニメが3度放送(1期2018年4月~6月、2期同年10月~12月、3期2020年10月~12月※4期が10月より放送予定)、「マンガ大賞2016」など数々の漫画賞を受賞する人気作品で、実写映画化されることも決まっている。コミックはシリーズ累計1900万部を突破しており、30巻は6月17日、31巻は7月19日に発売される。
https://news.yahoo.co.jp/articles/fd8b06c2baa42c56767ec564c2bae76e0f6506e3

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『ゴールデンカムイ』完結、連載8年に幕 表紙&巻頭カラーで「またな!」

2022-04-28 | アイヌ民族関連
オリコンニュース4/28(木) 0:00配信

『ゴールデンカムイ』最終話が掲載された『週刊ヤングジャンプ』22・23合併号 (C)Takeo Dec./集英社
 人気漫画『ゴールデンカムイ』(作者:野田サトル)が、28日発売の連載誌『週刊ヤングジャンプ』(集英社)22・23合併号で最終回(314話)を迎えた。2014年8月の連載スタートから約8年の歴史に幕を下ろした。
 同号では表紙&巻頭カラーを飾り、登場人物たちの旅路を振り返る“通知表”が特別付録となっている。表紙では「駆けずり回って約8年」のキャッチコピーとともに、「あばよ!! なんて言わせないぜ 実写映画化決定!!」と告知し、巻頭カラーでは「会えば必ず別れあり、別れは、次の扉なり。またな!」と伝えている。
 2014年8月より『週刊ヤングジャンプ』で連載がスタートした同作は、明治時代の北海道を舞台に、アイヌが遺したという大金を手に入れるため、日露戦争の死線を潜り抜けた元軍人の杉元佐一が、アイヌの少女・アシリパと行動をともにし、一攫千金を夢みる物語。
 これまでテレビアニメが3度放送(1期2018年4月~6月、2期同年10月~12月、3期2020年10月~12月※4期が10月より放送予定)、「マンガ大賞2016」など数々の漫画賞を受賞する人気作品で、実写映画化されることも決まっている。コミックはシリーズ累計1900万部を突破しており、30巻は6月17日、31巻は7月19日に発売される。
 作者・野田サトル氏は、北海道北広島出身。2003年デビューで、2011年から12年にかけて「週刊ヤングジャンプ」で『スピナマラダ!』(全6巻)を連載、14年より『ゴールデンカムイ』の連載をスタートさせた。
https://news.yahoo.co.jp/articles/df674d6d973ba0265fa6d7e763636cf31423ca38

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「ゴールデンカムイ展」きょう開幕、新作イラストや120点以上の原稿展示

2022-04-28 | アイヌ民族関連
読売新聞4/27(水) 19:27配信

(写真:読売新聞)
 人気漫画の世界が体感できる大規模展「ゴールデンカムイ展」が28日に開幕する。会場の東京ドームシティ・ギャラリーアーモ(東京都文京区)で27日、報道陣向けの内覧会が開かれた=写真=。
 明治末期の北海道などを舞台に、金塊争奪戦を巡る元兵士とアイヌ少女らの活躍を描いた同作は、丁寧な取材に基づいたアイヌ文化の描写でも高い評価を得た。会場には作者の野田サトルさんが同展のために描いた新作イラスト、120点以上の原稿などのほか、野田さんが集めたアイヌの民具など約40点が展示されている。連載は2014年から「週刊ヤングジャンプ」(集英社)で始まり、28日発売号で完結。既刊単行本は29巻で、累計発行部数は1900万部超。
 会期は6月26日まで。開幕から5月8日までと土日祝日は日時指定制となる。
https://news.yahoo.co.jp/articles/6706db6716ece833632d88efd986293373c8e91d

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匠の技、平取町が購入し支援 二風谷アイヌ博物館で工芸品展

2022-04-27 | アイヌ民族関連
北海道新聞04/26 05:05

展示されているアイヌ工芸品に見入る来館者
 【平取】町立二風谷アイヌ文化博物館で企画展「アイヌ伝統工芸のわざ~コロナ禍の博物館活動~」が開かれている。新型コロナウイルスの影響で経営が悪化した町内のアイヌ工芸品制作者らを支援するため、町が二風谷民芸組合から購入した工芸品87点が並ぶ。
 同組合の2020年度や21年度の売り上げはコロナ前の19年度に比べ、いずれも半減した。町は21年度に工芸品を購入。財源として国の新型コロナウイルス対応の地方創生臨時交付金約500万円を活用した。
 企画展では「二風谷イタ」(盆)や「チカラカラペ」(木綿衣)のほか、アイヌ文様がデザインされた名刺入れやネクタイ、スマートフォンケースなどを展示。いずれも同博物館に近い二風谷工芸館などで購入できる。
 フィンランドの大学職員で、道内旅行中に企画展に立ち寄った羽田勝之さん(42)は「着物の色が鮮やかで、自分にはできない匠(たくみ)の技だと思った。スマホケースは日常使いでき、フィンランドでも(販売すれば)人気が出そう」と話した。
 入館料は高校生以上400円、小中学生150円で町民は無料。5月22日までの午前9時~午後4時半で無休。問い合わせは同館(電)01457・2・2892へ。(杉崎萌)
(注)記事中の「チカラカラペ」の「ラ」は小さい字
https://www.hokkaido-np.co.jp/article/674083

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「ゴールデンカムイ」監修者がアイヌ語を書き起こし幻の祭が明らかに 「チロンヌプカムイ イオマンテ」本編映像

2022-04-27 | アイヌ民族関連
映画.COM2022年4月26日 14:00

アイヌ長老の入魂の祈りを35年ぶりに甦らせる
(C)VisualFolklore
アイヌ民族の知られざる祭祀を記録したドキュメンタリー「チロンヌプカムイ イオマンテ」の特別映像が公開された(※タイトル「チロンヌプ」の「プ」は小文字が正式表記)。司祭の日川善次郎エカシによる「火の神への祈り」が映し出される。本作は、実写映画化も決まった漫画「ゴールデンカムイ」のアイヌ語監修者・中川裕がアイヌ語の現代日本語訳を担当しており、日川エカシの祈りの言葉はアイヌ語だが、中川がそのすべてを翻訳したことで、チロンヌプカムイの旅立ちを見守るアイヌの長老の思いが初めて明らかになった。
1986年、屈斜路湖を望む美幌峠で、75年ぶりに「チロンヌプカムイ イオマンテ」が行われた。狩猟民族であるアイヌの教えでは、動物は自らの肉や毛皮を土産にして人間の国へやって来るとされる。彼らはキタキツネを我が子のように育てると、そのキタキツネに祈りを捧げて歌や踊りで喜ばせ、土産を背負わせて神の国へ送る「イオマンテ」を執り行う。祭祀を司るアイヌ長老・日川善次郎エカシは、祈りの言葉の一言一句に魂を込める。60年代から日本とアジアの民族文化を撮り続けてきた北村皆雄監督が、86年当時の映像に2Kレストアを施し、貴重な祭祀の様子をよみがえらせた。
このほど公開された映像は、チロンヌプカムイの霊魂を確実に神の国に送り届けるため、火の神の助けを借りようと、囲炉裏の火に向かってカムイノミ(神への祈り)を行う様子が切り取られている。火の神は人間の生活の側にいる一番身近なカムイだ。日川エカシは繰り返し繰り返し、言葉を唱えて願いを伝えようとする。言葉を間違えたり、手落ちがあれば、チロンヌプカムイが神の国に帰ることができずに大変なことになるため、居合わせる者の真剣な表情から、神事の重さが伝わる。さらには、民族衣装に正装したアイヌたちがイクパスイ(献酒箸)で酒をすくって、火の神への供物・依り代であるイナウに捧げる姿など伝統的なアイヌ文化も確認できる。
4月30日から、ポレポレ東中野ほか全国順次公開。
https://eiga.com/news/20220426/12/

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アイヌ民族の知られざる祭祀の全記録 映画『チロンヌプカムイ イオマンテ』本編特別映像が公開

2022-04-27 | アイヌ民族関連
otocoto4/26(火) 14:00配信

ドキュメンタリー映画『チロンヌプカムイ イオマンテ』
1986年に行われた祭祀「チロンヌプカムイ イオマンテ」の全記録、ドキュメンタリー映画『チロンヌプカムイ イオマンテ』。本作は、チロンヌプカムイ(キタキツネ)の霊魂を神の国に送り返し、毛皮と肉を背負ってまた人間の国にやってきてほしいと願うアイヌ民族の重要な祭祀を映し出している。大正時代から75年ぶりに行われた祭りの貴重な記録映像を2Kレストアし、歌、踊り、言葉をよみがえらせた。まもなく最終回を迎える人気漫画『ゴールデンカムイ』のアイヌ語監修者である中川裕が、アイヌの長老の入魂の祈りを全て書き起こし、現代日本語訳をつけた。
司祭の日川善次郎エカシによる「火の神への祈り」のシーンがおさめられた本編特別映像が公開された。
チロンヌプカムイの霊魂を確実に神の国に送り届けるため、火の神の助けを借りようと、囲炉裏の火に向かってカムイノミ(神への祈り)を行う。火の神は人間の生活の側にいる一番身近なカムイ。日川エカシは繰り返し繰り返し、言葉を唱えて願いを伝えようとする。言葉を間違えたり、手落ちがあれば、チロンヌプカムイが神の国に帰ることができずに大変なことになる。居合わせる者の真剣な表情が神事の重さをものがたる。
映像には、民族衣装に正装したアイヌたちがイクパスイ(献酒箸)で酒をすくって、火の神への供物・依り代であるイナウに捧げるようすなど伝統的なアイヌ文化が映し出される。日川エカシの祈りの言葉はアイヌ語だが、中川がそのすべてを翻訳したことで、チロンヌプカムイの旅立ちを見守るアイヌの長老の思いが初めて明らかになった。
ポレポレ東中野では、4月30日(土)より〈公開記念トーク〉が各回上映後に開催される。
ドキュメンタリー映画『チロンヌプカムイ イオマンテ』は、4月30日(土)よりポレポレ東中野ほか全国公開。
https://news.yahoo.co.jp/articles/8541a9eb09f017e6d7878d3b77031374d048708f

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