論座2022年4月27日 10時0分
今年、2022年は沖縄にとって大きな意味を持つ年である。1952年にサンフランシスコ平和条約が発効し、主権を回復した日本から沖縄が日本の施政権から切り離された「屈辱の日」から4月28日で70年を迎え、27年間に及ぶアメリカによる統治を経て1972年に沖縄が日本に返還されてから、5月15日で50年を迎えるからだ。
日本にとって、「沖縄」とは何なのか。そして沖縄にとって「日本」とは何なのか。
多くの人が、今この問いに様々な観点から向き合っている。
僭越ながら私もこの問いに国際人権法という観点から向き合い、一つの推論を提示したい。
「ウチナーの未来はウチナーンチュが決める」
先日惜しまれながら亡くなった、沖縄選出の前衆議院議員・照屋寛徳氏は、生前「ウチナーの未来はウチナーンチュが決める」という言葉をよく繰り返していた。これはまさに「自己決定権」をわかりやすくあらわした言葉と言えるだろう。沖縄返還から50年という節目にあたり、沖縄ではこの「自己決定権」という言葉に、今あらためて注目が集まっている。
しかし、国際法における「自己決定権」は、非常に複雑で難しい権利である。
自己決定権は第二次大戦後、植民地支配をはじめ、外国による支配や搾取に苦しむ人びとがその支配を断ち切り、独立を勝ち取る権利として発展した。しかしその後、たとえば先住民族など国内における特定の集団が高度な自治を確立する権利も含むようになるなど、その内容が国際社会の変容を受けて変化をしている権利でもある。
また、国際人権法で保障されている権利のほとんどが「個人の権利」であるのに対し、「自己決定権」の主体は個人ではなく「people」、つまり集団であり、そのために自己決定権を考える際には、法主体である「people」たりえる人びとはどのような集団か、という問題がついてまわるのだ。沖縄のケースで言うと、沖縄の人びとが国際人権法上、自己決定権を有する「people」なのか、という問いである。
筆者は、その問いを考えるための重要な起点が、70年前のサンフランシスコ平和条約と、50年前の沖縄返還である、と考えている。まだまだ研究の途上ではあるが、沖縄返還から50年という節目に、考え続けてきたこの問いに対し一つの可能性を提示したい。
(本稿の内容はAsian Journal of International Law で公開予定の筆者の論文「An Outstanding Claim: The Ryukyu/Okinawa Peoples' Right to Self-Determination under International Human Rights Law」に基づく要約である。)
その前に、私が「沖縄の自己決定権」を考えるきっかけとなった経緯を少し紹介したい。
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「自己決定権は先住民族固有の権利」~翁長知事に向けられた批判は適切か?
筆者が「自己決定権」という言葉に強い関心を持ったのは、2015年9月、当時の翁長雄志沖縄県知事(故人)がスイス・ジュネーブの国連人権理事会で口頭声明を発表し、「沖縄の人びとは自己決定権や人権をないがしろにされています」と主張したときだった。(当時私は「島ぐるみ会議・国連部会」のスタッフとして同行しており、その経緯は2年前の論座 沖縄の翁⻑前知事が菅新政権の喉元に残した「楔」 で記した。)
この声明はいっときは大きな話題を呼んだものの、帰国後の県議会で野党・自民党の議員が「自己決定権は先住民族に固有の権利」であり、「沖縄県民は先住民族であるという間違った印象を広めた」という趣旨の発言を繰り返し、翁長知事は猛烈な批判にさらされた。翁⻑知事は先住⺠族という認識ではなく、琉球併合や本⼟復帰などの歴史に基づいて沖縄の⼈びとの⾃⼰決定権という意味で使った、と繰り返し説明したが、新聞でも県議会での追及が⼤きく報道され、「⾃⼰決定権=先住⺠族に固有の権利」というイメージが定着した。
しかし一部の議員が繰り返した「⾃⼰決定権は先住⺠族の固有の権利」という⾔説は、国際⼈権法に基づけば正確ではない。
元々、自己決定権は植民地支配をはじめ、外国による支配や搾取に苦しむ人びとがその支配を断ち切り、独立を叶えるための基本原則として発展し、1960年に国連総会で採択された植民地独立付与宣言によって権利として確立した。先住民族に自己決定権が認められるようになったのは、そのもっと後、2007年に先住民族の権利宣言が採択されてからであり、むしろ先住民族は自己決定権を主張できる多様な「people」の一つ、と考える方が適切だ。
さらに言えば、自己決定権は近年、「独立する権利」から、特定の集団が国家の中に存在しつつ「⾼度な⾃治を確⽴する権利」としての意味も含まれるようになっている。そのため⾃⼰決定権を主張することが、直接的に独⽴・分離を求めることにつながるという単純な図式にもならない。
知事の宿題~「歴史に基づく自己決定権」を主張できるか?
沖縄で自己決定権の議論をこれまで牽引して来たのは、琉球・沖縄にルーツを持ち、先住民族としての自己認識を持つ人びとの団体やアカデミアである。
先住民族であるかどうかは沖縄の人びとが決定するべき事柄であり“本土”出身の私が口を挟むべきことではないが、筆者も琉球・沖縄の人びとは「先住民族の権利に関する国際連合宣言」(UNDRIP)に基づき、「先住民族」として自己決定権を主張できると考えている。(先住民族としての沖縄の人びとの権利の可能性については、去年3月に記した 沖縄県民投票に「意味はあった」~あれから2年、大浦湾に潜った に記した)
とはいえ、翁長知事の国連演説をめぐり県議会で野党から強い批判があったことや、県内の市議会で「琉球・沖縄の人びとを先住民族と認識すること」を勧める国連人種差別撤廃委員会の勧告の撤回を求める意見書が採択されたことなどから考えると、先住民族としての自己認識を持たない人がいるのもまた事実だ。前述したように翁長知事もまた、批判にさらされた県議会で「自己決定権」について「先住民族という認識ではなく、琉球併合や本土復帰などの歴史に基づき、沖縄の人びとの自己決定権という意味で使った」と説明を繰り返していた。
それでは、翁長知事が言うように琉球併合や本土復帰などの沖縄の歴史に基づき、「先住民族」とは別のpeopleとして、琉球・沖縄の人びとが自己決定権を主張することはできるのか?
当時、島ぐるみ会議・国連部会のボランティアスタッフであり、また翁長知事が県議会で批判に晒されたときに何もできなかった一人の人間として、知事の残したこの問いに答えを見つけることは、筆者が知事から受け取った重い「宿題」だった。2015年からこの問いを考え続けるなかで、筆者は一つの可能性に辿り着いた。
辿り着いた答え~沖縄は「非自治地域」に類似する
その可能性とは、琉球・沖縄の人びとが国連憲章や国連総会決議に基づき、第一に「非自治地域に準ずる地域の人民」として自己決定権を有していたと主張しうるのではないか、さらにその帰結として、「人民」としての自己決定権を主張しうるのではないか、という推論だ。その鍵となるのが70年前の「サンフランシスコ平和条約」と50年前の「沖縄返還」である。前編ではまず、「非自治地域」について考えたい。
「非自治地域」という言葉を耳慣れない人も多いだろう。
第二次世界大戦後に国際連合が作られたとき、敗戦国が有していた植民地などは「国連信託統治制度」の元に置かれ、戦勝国が有していた植民地は国連憲章11章に基づき、「非自治地域」として施政国が当該地域の発展や福祉の増進に責任を負うとされた。
しかし世界的な脱植民地運動の広がりを受け、1960年12月の国連総会で、植民地独立付与宣言が採択され、信託統治地域、非自治地域、およびまだ独立を達成していない他のすべての地域において、植民地主義を早急に終わらせ、独立を達成させることを各国が合意した。つまり、非自治地域を含む、外国による人民の征服、支配および搾取が行われ、独立を達成していない全ての地域の人々について、自己決定権を有することが確認されたのだ。
では、その当時沖縄は「信託統治地域」や「非自治地域」だったのだろうか?
厳密に言えば、「信託統治地域」や「非自治地域」と認められるためには国連から指定を受ける必要があり、その意味では確かに琉球・沖縄は正式に「信託統治地域」・「非自治地域」として国連に指定されたことはない。しかし当時の琉球・沖縄はそれらの地域と多くの類似点があることやサンフランシスコ平和条約によって琉球・沖縄が置かれた奇妙な法的立場を鑑みれば、国連憲章11章の定める非自治地域に類似する地域、いってみれば「準非自治地域」とでも表すべき地域であったと主張できる、と考えている。
「植民地支配」との批判をかわす「施政権」「潜在主権」の二重構造
植民地独立付与宣言から遡ること8年前、1952年にサンフランシスコ平和条約が発効した。「サ条約」によって日本の主権が回復したが、沖縄は日本から切り離され、アメリカの統治下に置かれるようになったことはみなさんがご存知の通りだ。


「沖縄復帰50周年記念特別展」で展示されているサンフランシスコ平和条約の資料=2022年4月22日午後、東京都千代田区の国立公文書館、代表撮影
しかし条約をよく読むと、本来はアメリカによる沖縄統治は、アメリカが「琉球・沖縄を含む南西諸島を国連の信託統治下に置くまで」という条件付きであったことが見て取れる。
しかし現実には信託統治への移行は行われず、それどころかアメリカが「施政権」を有し日本が「潜在主権」を有するという奇妙な二重構造の元に沖縄は置かれることになった。
この状況はアメリカにとっては非常に都合の良いものだった。第二次世界大戦後、国際社会は植民地主義に対して批判的になり、アメリカによる沖縄統治は異民族による植民地支配とも、領土拡大とも批判される可能性があったが、沖縄に日本の「潜在主権」を名目上残すことで、この批判をかわしながら沖縄を事実上軍事的な植民地として統治することが可能になったのだ。
アメリカによる統治は厳しいものだった。日本からもアメリカからも市民権を与えられず、いずれの憲法からも保護されることはなかった。土地は軍によって強制的に奪われ、米兵による度重なる暴力や殺人、事故による被害、そしてそれらの不処罰が蔓延していた。
琉球・沖縄の人びとがアメリカによる支配からの解放を切望し、日米両政府に琉球・沖縄の日本への復帰を繰り返し要求する中で、国際的な脱植民地化運動の高まりとともに、琉球・沖縄の人びとは新たな視点を獲得することになる。
フルシチョフの演説草稿にあった「Okinawa」「植民地支配の時代の生き残り」
1960年、ソヴィエト連邦のニキータ・フルシチョフ共産党第一書記が国連総会で植民地独立付与宣言に関する演説を行った。国連総会に提出されたその演説草案では、大規模な植民地や信託統治領に加え、大国が保持する「強力な拠点」として西イリアン、ゴア、プエルトリコとともに沖縄を挙げ、これらの領土を超大国が保有することは「かつての植民地支配の時代の直接の生き残り」であると批判している。
フルシチョフは実際の演説では琉球・沖縄を削除してはいるが、古関彰一・豊下楢彦両氏が「沖縄 憲法なき戦後」で指摘するように、フルシチョフが琉球・沖縄を「植民地あるいは半植民地と“同列に”沖縄を位置づけた」ことが草稿からは伺える。
その後採択された植民地独立付与宣言に基づき、琉球政府立法院は1962年2月1日に「施政権返還に関する要請決議」(2.1決議)を採択し、すべての国連加盟国に向けて発信した。この中で立法院は植民地独立付与宣言に言及し、米国による沖縄統治が民族自決の方向に反していると批判し、すべての国連加盟国に対し「日本領土内で住民の意思に反して不当な支配がなされていることに対し、…沖縄に対する日本の主権がすみやかに完全に回復されるよう尽力」するよう強く要請した。この決議を読み上げた人こそ、翁長雄志氏の父である、翁長助静議員(当時)だった。
しかし、日本政府の考えは違っていた。
日本政府は、(1)琉球・沖縄はすでに独立している日本が潜在主権を有している領域であり(2)外国人による搾取はないという見解に基づき、琉球・沖縄を植民地や非自治地域と認識することは一度もなかった。その当然の帰結として日本政府はその琉球・沖縄が自己決定権を有する主体であると考えることもなかった。日本政府は琉球処分から積み上げてきた琉球・沖縄の領土的内地性と、サンフランシスコ平和条約以来繰り返してきた実態を伴わない「日本の潜在主権」という議論に基づき、琉球・沖縄を自己決定権の議論から排除したのである。


沖縄軍用地の接収と補償に関する米国のプライス勧告に反対して本土を訪れた沖縄軍用地問題折衝団代表。左から2人目が翁長助静・沖縄県真和志市長(当時)=1956年7月22日、羽田空港
沖縄は植民地独立付与宣言に基づき、自己決定権を有していた
ここで重要なカギになると考えるのが、植民地独立付与宣言の翌日に採択された「国連総会決議1541」である。この決議では、非自治地域を「統治している国(administrating state)から地理的に分離し、民族的及び/又は文化的に異なる領域」と定義している。つまり、ここで大事なのは「潜在主権を有している国」ではなく「統治している国」なのだ。
サンフランシスコ平和条約締結の際、確かに琉球・沖縄について日本が「潜在主権」を有すると確認されたが、それと同時に施政権はアメリカに渡ったことを思い出してほしい。とするならば、ここでいう施政権を持つ統治国(administrating state)はアメリカであり、琉球・沖縄はアメリカから「地理的に分離し、民族的及び/又は文化的に異なる領域」であることから、「総会決議1541」が定める定義に基づけば、琉球・沖縄はアメリカを統治国とする「非自治地域」に該当するということが導き出せる。
また、この決議では、「宗主国(metropolitan state)と当該地域との間の行政、政治、司法、経済又は歴史的関係」が恣意的に当該地域を「従属的地位又は状態」に置く場合、その地域は非自治地域に該当するとも定めている。
ここで思い出してほしいのが「サ条約」では元々、アメリカが琉球・沖縄を国連の信託統治下に置く“まで”、アメリカが施政権を有する、と定めていた、ということだ。しかし、現実にはアメリカは信託統治へ移行することなく、琉球・沖縄を従属的地位に置き、その人民に対してあらゆる権力を行使し続けた。
「非自治地域」として正式にリストアップされてはいないとはいえ、これらの事実を踏まえれば、琉球・沖縄は「国連総会決議1541」のいう「非自治地域」の定義を満たしており、いわば「非自治地域に類する地域の人びと」として、植民地独立付与宣言に基づき自己決定権を有していたと主張することが可能ではないか、と筆者は考えている。
沖縄返還で自己決定権は終了したか?~後編の論点


屋良朝苗知事が「沖縄県の誕生」を高らかに宣言して始まった県主催の「新沖縄県発足式典」。公募して決めた真新しい県章(式壇右上)と「沖縄県民の歌」が紹介された=1972年5月15日、那覇市民会館
ここまで、植民地独立付与宣言や関連する国連総会決議をもとに琉球・沖縄は「非自治地域」に類似し、その人々が自己決定権を有していたと考えうると議論してきた。ここで問題になるのが、50年前の「沖縄返還(本土復帰)」をどう考えるか、という点だ。
たとえ琉球・沖縄の人々が米国統治下において「非自治地域」に準ずる地域の人びととして自己決定権を有していたと主張できたとしても、日本に返還された時点で主権が回復したと考えれば、「植民地独立付与宣言」に基づく自己決定権は終了したと捉えることもできるからだ。ここで冒頭に述べた、二つ目の論点が浮かび上がってくる。それは琉球・沖縄の人びとが「人民」として自己決定権を主張しうる、という推論だ。
この点については、「沖縄返還(本土復帰)」と合わせて後編でさらに論じることにしたい。
後編は沖縄返還から50年の5月15日前後に公開する予定です。こちらの記事も、ぜひお読みください。
(阿部 藹 琉球大学客員研究員)
https://news.livedoor.com/article/detail/22072107/