黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

四国八十八箇所霊場・第七十五番札所「善通寺」

2020年01月09日 | 四国88箇所霊場

 

        

    済世橋      境内案内図     正覚門       仁王門

 

        

    仁王門      子安観音       中門       五百羅漢

 

          

   金堂(本堂)            本尊  五重塔     鐘楼

 

          

                       御影堂

 

 「善通寺」は香川県善通寺市にある寺院で真言宗善通寺派の総本山で屏風浦五岳山誕生院と号する。本尊は薬師如来で四国八十八箇所霊場の第七十五番札所で真言宗十八本山の一番札所で和歌山の高野山、京都府の東寺と共に弘法大師三大霊場に数えられる。

 

 平安時代初頭の807年に真言宗開祖の空海の父親である佐伯善通を開基として創建された寺院で広大な境内は創建地である東院(伽藍)と空海誕生地とされる西院(誕生院)に分かれている。

 

 空海(弘法大師)は讃岐国、現在の善通寺市の出身である。『多度郡屏風浦善通寺之記』に寄れば、善通寺は空海の父で地元の豪族であった佐伯直田公(さえき あたえだきみ、法名、善通)から土地の寄進を受け、大同2年(807年)に建立を始め、弘仁4年(813年)に落成したという。空海の入唐中の師であった恵果和尚が住んでいた長安の青龍寺を模して建立したといわれ、創建当初は、金堂、大塔、講堂などの15の堂宇あったという。寺号の善通寺は、父の名前である佐伯善通から採られ、山号の五岳山は、香色山、筆山、我拝師山、中山、火上山の五つの山の麓にある事から命名された。  

 

 善通寺の文献状の初見は『東寺百合文書』に収められた寛仁2年(1018年)の「讃岐国善通寺司解」と云う文書で此処で善通寺は、東寺の末寺として登場し、「弘法大師御御建立」「大師御霊所」とされ、空海の先祖に寄る創建だとする伝えが古くから存在した事が解かる。境内からは白鳳から奈良時代に遡る古瓦が出土して居り、善通寺は実際には佐伯一族の氏寺として創建されたのではないかと推定されている。

 

 本格的に興隆をむかえるのは鎌倉時代に入って、天皇や上皇からの庇護や荘園の寄進を受けてからで、此の保護の背景には、平安後期に広まった弘法大師信仰があり、誕生の地に伝わり大師自筆とされる「瞬目(めひき)大師像」への崇敬がある。建長元年(1249年)には誕生院が建立され、東の伽藍、西の誕生院と云う現在の形式が出来上がった。鎌倉時代の善通寺の本寺は、東寺、随心院、大覚寺、再び随心院と変転しながらも室町時代以降は足利氏の庇護を受けつつ自律的経営を目指した。

 

 永禄元年(1558年)三好実休の兵火に遭い伽藍を焼失するが、天正16年(1588年)に生駒親正から28石、生駒一正から35石の寄進を受けた事等で立ち直る。近世には高松松平家や丸亀京極家の庇護を受けて大いに栄えた。また明治に入ると付近に陸軍基地がおかれ、軍都として発展した。江戸時代までは現在の東院である善通寺と現在の西院である誕生院とは別の寺院であったが明治初年に単一の寺院となり現在に至って居る。

 

 此の日の納経は此の善通寺が最後と成り納経受付終了時間の17時の少し前に境内に入ったが沢山の巡礼者の姿が見られ賑わって居り、寺院の大きさや堂宇の荘厳さは四国八十八箇所霊場の札所の中で随一であった。

 

        

           天然記念物の大楠    納経所

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四国八十八箇所霊場・第七十四番札所「甲山寺」

2020年01月08日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 「甲山寺」(こうやまじ)は香川県善通寺市に在る真言宗善通寺派の寺院で、甲山(かぶとやま)の麓に位置し山号は医王山、院号は多宝院、本尊は薬師如来で、四国八十八箇所霊場の第七十四番札所である。

 

         

 

 伝説では、壮年期の空海が寺を建立しようと幼き時に遊んだ此の辺りを探索して居ると老翁が現れ、「此の地にお寺を建立すべし」とお告げをした。此の地の岩窟に住む毘沙門天の化身と悟った空海は、此の岩窟に毘沙門天を祀った。

 

 其の後、嵯峨天皇の勅命を受け、別当として満濃池の修築を命じられた空海は、此の地で薬師如来を刻み修法すると数万の人々が集まり、無事に築造を完成に導いた。弘仁12年(821年)その功績に対して朝廷から二万銭が与えられ、其の一部に寄って堂を建立したのが当寺の始まりと云われている。

 

 其の後の天正年間の兵火により本尊と僅かの寺宝が残ったのみと成ったが享保20年(1730年)に本堂が、寛保2年(1742年)に大師堂が再建され、保々、現在に近い形で復興され現在に至って居る。

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四国八十八箇所霊場・第七十三番札所「出釈迦寺」

2020年01月07日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

  「出釈迦寺」(しゅっしゃかじ)は香川県善通寺市にある真言宗御室派の寺院で四国八十八箇所霊場の第七十三番札所で我拝師山 求聞持院 出釈迦寺と号し本尊は釈迦如来である。

 

 寺伝に寄れば、空海(弘法大師)が7歳の時に倭斬濃山(わしのやま)現在の我拝師山に登り、「仏門に入って多くの人と衆生を救いたいのです。私の願いが叶わないのなら私の命を供養にします。」と願い、山の断崖絶壁から谷へと飛び降りた。すると、落下する空海の前に釈迦如来と天女が現れて抱き止め「一生成仏」と宣し、彼の願いが成就された。感激した空海は、釈迦如来が現れた山を「我拝師山」と名付け、其の山に出釈迦寺を建立し、釈迦如来の尊像を刻んで本尊にしたという。

 

 現在の寺の奥の院である山上のお寺は、曼荼羅寺の奥の院であったが1600年代半ばに我拝師山の麓に寺が建立され山上が札所であるが麓の寺でも納経する様に成って居たが大正9年(1920年)に札所は麓の寺に移されて現在に至って居る。

  

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四国八十八箇所霊場・第七十二番札所「曼荼羅寺」

2020年01月06日 | 四国88箇所霊場

 

          

 

 「曼荼羅寺」は香川県善通寺市吉原町曼荼羅寺に在る真言宗善通寺派の寺院で山号は我拝師山。本尊は大日如来で四国八十八箇所霊場の第七十二番札所である。

 

 寺伝に寄れば、空海(弘法大師)の出身氏族である佐伯氏の氏寺として推古天皇4年(596年)に創建され、当初は世坂寺(よさかじ)と称したという。

 

 空海が唐より帰国後、請来した両界曼荼羅を奉納し、対日如来を本尊として安置し再興、母(伝承では玉依御前)の菩提寺とし、曼荼羅寺と改称したと伝える。鎌倉時代には、後堀河天皇から寺領を給わるほど栄えた。然し、永禄3年(1560年)阿波の三好実休に寄る兵火で焼亡、さらに慶長年間(1596年~1615年)に戦火を受けたが其の後に復興して居る。

 

 

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四国八十八箇所霊場・第七十一番札所「弥谷寺」

2020年01月05日 | 四国88箇所霊場

 

          

 

 「弥谷寺」(いやだにじ)は香川県三豊市三野町に在る真言宗大本山の寺格を持つ仏教寺院で標高382mの弥谷山中腹に所在し、山頂の岩山全体が本堂と信仰されて居る。本堂後ろの岩山には創建時に千手佛が納められた岩穴が残る。此の寺は四国八十八箇所霊場の第七十一番札所で本尊は千手観音

 

 寺伝に寄れば、聖武天皇の勅願に寄り行基が堂宇を建立し、光明皇后の菩提を弔う為に大方広仏華厳経(伝・光明皇后書写)を祀り、寺院を創建したとされる。当初は中国、四国の八国が眺められた事にちなみ蓮華山八国寺と称したと云う。また、空海(弘法大師)は7~12歳の期間、当寺にある岩窟である獅子之岩屋で学問に励んだという。

 

 大同2年(807年)、唐より帰国後の空海は当地を再び訪問し獅子之岩屋にて護摩を修し千座満願のとき蔵王権現のお告げに寄り千手観音を安置し、唐から持ち帰った金銅四天王五鈷鈴と五柄の剣を納め、山号を剣五山、仏の住む山である弥山から仏の谷という意味とされる弥谷に改めたと伝わる。

 

 又、縁起に寄ると「此岩窟大師四十二歳ノ契天下泰平五穀豊穣或ハ四十二歳厄除衆生ヲ救為千座ノ護摩修行シ跡伝ワレリ」とあり、此れを聞いた後の住持が大師堂再建の折に弘法大師四十二歳の姿を刻み、奥之院本尊として厄除大師を祀ったと云われ、其の後、岩屋の中に石物の厄除大師像・佐伯善通卿像・玉寄御前像を建立し、其れまで祀って居た木像を秘仏とした事から、石造と木造の二体の厄除大師が祀られている。

 

 

        

 

  此の寺へは中腹近くの駐車場に車を入れた後、540の石段を登るコースと途中の400段目までをカットする有料送迎バスが用意されて居るので私達は迷わず送迎バスの方を利用した。送迎バスを降りて少し歩くと上段最初の写真の大師堂があり其れを右に進むと直ぐ左上に多宝塔が在り少し石段を進むと鐘楼が正面に在り其の前の石段を上がっていくと途中の右側に観音堂、左側に十王堂があり更に上に進むと護摩堂と水場(二段目最初の写真)があり更に進むと視界が開け其処に本堂が在る(二番目の写真) 

 

 大師堂は最初の場所に引き返した場所に在り、此の大師堂は四国八十八箇所霊場の中では珍しく堂内に入り座ってゆっくりと参拝する事が出来てお大師さんを身近に感じる事が出来て非常に印象に残る大師堂であった。また境内の木々の紅葉も可也進んで居り大変奇麗であった。

 

      

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四国八十八箇所霊場・第七十番札所「本山寺」

2020年01月04日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 「本山寺」は香川県三豊市に在る高野山真言宗の寺院で、山号は七宝山(しっぽうざん)院号は持宝院で鎌倉時代再建の本堂は国宝で、本尊は馬頭観音菩薩。四国八十八箇所霊場・第七十番札所である。

 

 寺伝に寄れば、大同2年(807年)、平城天皇の勅願寺として、空海(弘法大師)が自ら刻んだ馬頭観世音菩薩像を本尊、阿弥陀如来と薬師如来を脇侍として開創し長福寺と称したと云う。此の時、本堂は僅か一夜で出来たという「一夜建立」の伝説がある。

 

 中世には寺領2000石、24坊を持つ大寺と成って栄えたが天正年間(1573年~1593年)、長宗我部氏の戦いに寄り讃岐国の主要寺院の大半は兵火を受けた。当寺も例外では無く諸堂を焼失したが、境内に攻め入る兵士に切られながらも止めようとする住職を振り切って攻め入った兵士が、本堂内陣の厨子を開いたところ阿弥陀如来の体から血が滴り落ちるのを見て驚き、本堂(国宝)と仁王門(重要文化財)は焼かずに撤退したと云う。其の阿弥陀如来は「太刀受けの弥陀」と呼ばれる。其の後、江戸時代には領主の生駒氏と京極氏に寄り再興され、天保年間(1830年~1844年)には本山寺と改称されて現在に至る。

 

 又、境内には明治29年(1896年)に着工、明治43年(1910年)に完成した五重の塔が2015年に解体修理が着工され、今年の4月9日に竣工された立派な五重塔が聳え立っていた。

 

                

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四国八十八箇所霊場・第六十九番札所「観音寺」

2019年12月31日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 「観音寺」は、香川県観音寺市に在る真言宗大覚寺派の寺院で四国八十八箇所霊場の第六十九番札所で山号は七宝山、本尊は聖観音で六十八番札所神恵院と同じ境内にある。なお、所在の市名は「かんおんじし」であるが寺名は「かんのんじ」である。

 

 伝承に寄れば、大宝年間(701年~704年)に法相宗の日証が琴弾山で修行をして居たところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。此の老人が八幡大明神である事を知った上人は、其の琴と舟を祀り琴弾八幡宮と名付けた。其の神宮寺として当寺は建立され神宮寺法光院と称して居た。

 

 寺伝に寄れば、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年(807年)空海(弘法大師)が第七世住職として入山し、奈良の興福寺を模して中金堂に聖観世音菩薩像を刻み本尊とし、丈六の薬師如来を納めた西金堂や弥勒菩薩を納めた東金堂など七堂伽藍を整備し、更に此の地に仏塔を建て七宝を埋めじ地鎮した事から、名称も七宝山観音寺と改めたという。其の後、院号は神恵院に改められている。そして、桓武天皇をはじめ、三代の天皇の勅願所となり、室町時代には足利尊氏の子、道尊大政大僧正が45年間住職を務めるなど隆盛を誇った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               

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四国八十八箇所霊場・第六十八番札所「神恵院」

2019年12月30日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 

 「神恵院」は、香川県観音寺市にある真言宗大覚寺派の寺院で四国八十八箇所霊場の第六十八番札所で本尊は阿弥陀如来。

 

 法相宗の日証上人が琴弾山で修行をして居たところ、琴を弾く老人が乗る舟を海上に見た。此の老人は八幡大明神で在る事を知った上人は、其の琴と舟を山上に祀り琴弾八幡宮と名付けた。其の後、行基が養老6年(722年)に訪れた後、大同2年に空海(弘法大師)が訪れ、琴弾八幡宮の本地仏である阿弥陀如来を描き安置した。其の後、琴弾八幡宮は四国八十八箇所が成立した時に札所とされ、納経は別当の観音寺で行なわれていた。なお、観音寺も札所として選ばれたので、琴弾八幡宮の納経は神恵院の院号で「琴弾八幡宮 別富神恵院」と納経する事となった。

 

 然し明治初年に政府に寄る神仏分離令に寄り琴弾八幡宮に安置されていた本地阿弥陀如来図は観音寺境内の西金堂に移された為に西金堂は神恵院本堂となった。2002年、境内の別の場所に神恵院本堂が鉄筋コンクリートで新築され、元の本堂は薬師堂に戻され、其の横にあった神恵院大師堂は台風で失われたので、十王道の右半分が大師堂になった。

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 四国八十八箇所霊場・第六十七番札所「大興寺」

2019年12月28日 | 四国88箇所霊場

 

        

 

 「大興寺」は、香川県三豊市にある真言宗善通寺派の寺院で小松尾山(こまつおざん)、不動光院(ふどうこういん)と号す。本尊は薬師如来で四国八十八箇所霊場の第六十七番札所である。

 

 寺伝に寄れば、天平14年(742年)に東大寺の末寺として建立された。其の後、最澄の影響で天台宗となる。火災に寄り焼失して居た諸堂を、嵯峨天皇の勅願に寄って空海(弘法大師)が弘仁13年(822年)に現在地より北西に約1Kmに熊野三所権現を鎮護する霊場として再興し、また、本尊に薬師如来と脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで堂宇を建立し安置したと云う。其の後も東大寺の末寺として真言宗24坊、天台宗12坊の僧堂が連ね、空海と最澄の教えを修行する道場として栄えた。

 

 しかし、天正年間(1573年~1592年)に長宗我部元親の兵火に寄って本堂以外を焼失、慶長年間(1596年~1615年)に再建されたものの再び焼亡、本堂は寛保元年(1741年)に建立された。又、境内南側の熊野三所権現は明治の神仏分離までは此の寺の住職が別当を兼ねて居た。昭和の末までは、地元でもっぱら、小松尾寺と呼ばれていた。

 

 

        

 

 最後の写真が小松尾寺のカヤとクス木でカヤは樹高20m胸高幹周3.92m樹齢は、およそ1200年で香川県指定自然記念物に指定され、クスの木は樹高24m、胸高幹周7.5mで香川県保存木に指定されて居る見事な大木であった。

 

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四国八十八箇所霊場巡り結願、

2019年12月25日 | 四国88箇所霊場

        


 今年の1月19日から急に思い立った「お四国巡礼」を始めた。四国地方は弘法大師の出身地でもあり、真言宗の信者が多い事で、私の父親の時代は厄年に成ると地区の同年代の人が団体で巡礼装束で歩きの四国八十八箇所霊場を回る風習があった。


 私達の時代は其の様な風習は無く成ったが、やがて世の中は車時代に成り、個人的に容易に四国八十八箇所を巡る事が出来る様に成ると「四国巡礼」をする人は可也多い。私も何時かは此れを実行しなければ成らないと思いながらも煩悩の世界を彷徨って居たので其れを中々実行する事は出来なかった。然し私も70歳を迎えると段々と先行きが見えて来て、此れは元気な内に遣っておかねばの気持ちに成った。


 そして今年の新年、早々から「発心の地」の第1番札所の「霊山寺」からランダムに各札所を廻り始め、本日の14時20分で第88番札所「大窪寺」で結願した。四国を廻った日は合計すると約10日間であったが連続の巡礼の旅では無かったので結願に至るまでに保々、一年を要した。私は熱心な真言宗の信者では無いし、家内は1500年代に始まる古い寺(住職)の末裔ながら余り信心の無い方、其の二人の巡礼は「なんちゃって四国巡礼の旅」に成ったが其れでも四国中の弘法大師、所縁の八十八箇所霊場を廻ってみると私達の様な者でも形では無く、上手くは言い表せないが得るものがあった。


    
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四国八十八箇所霊場・第六十五番札所「三角寺」

2019年12月24日 | 四国88箇所霊場

        


         


      


  


 三角寺は愛媛県四国中央市金田町三角寺に在る高野山真言宗の寺院で由霊山(ゆれいざん)、慈尊院(じそんいん)と号す。本尊は十一面観世音で四国八十八箇所霊場の第六十五番札所である。


 三角寺は三角寺山(標高465m)の中腹、標高355m辺りにあり、かっては可也厳しい参道を登らねば成らぬ難所寺であった。更に大師像の参拝には、背後の法皇山脈のピークの平岩山(標高825m)の東尾根の地蔵峠(標高765m)を越えて行かねば成らなかった。現在でも、段差の大きい73段の石段を息を切らして上がり、仁王門をくぐって審判を受ける伊予の関所寺で伊予国の最後の札所である。


 寺伝に寄れば天平年間(730年~749年)に聖武天皇の勅願に寄り行基が弥勒浄土を具現化しようと開基される。其の後、弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)が来訪した際に十一面観音を刻んで本尊とし、更に不動明王を刻んで三角形の護摩壇を築き21日間「降伏護摩の秘法」を施したとされる。此の護摩壇の跡が境内に在る三角の池の中の島として現存し(二段目の二番目の写真)、寺院名の由来とされる。また嵯峨天皇が本尊を深く信仰し、寺領300町歩を下賜し、堂塔を建造したとされ、往時は12坊を持ち、七堂伽藍を備えていたいう。


 天正9年(1581年)長宗我部元親軍の兵火で本尊以外は焼失したが、寂本の四国遍礼霊場記には単層の本殿、弥勒堂、鎮守堂、庫裡が描かれていて復興して居る。現在の本堂は二層で其の後の嘉永2年(1849年)に再建された物で其の基礎部は昭和46年に木造からコンクリートに変更し修復された。


 私達は前回に愛媛を回った時に横峰寺への道をナビに騙されて1時間くらいロスした事に寄り其の日の予定の愛媛県内の最後の札所の此の三角寺の納経は残って仕舞ったので、今回の徳島市内からの出発に際し途中に在る香川県の一番最初の札所の(所在地は徳島県三好市)四国第66番札所の雲辺寺の納経を済ませてから此の伊予の最終札所の三角寺へと向かった。駐車場から本堂に向かう参道の途中の石段は一段毎の高さが普通の石段よりも可也高く、男の私でも可也登り難かったので女性達には登りも大変だったが降りる時が更に大変で転ばない為にも手摺から手を離す事は出来なかった。


 境内には此の時期には珍しく、写真の桜の花が咲いて居り遍路の方々は皆さん同様に驚いて居た。境内を掃除して居た御婦人に家内が此の桜の事を聞くと「年中チラホラと咲く桜で名前は四季桜という。」と教えて下さった。又家内が本堂と大師堂での納経が終った処で梵鐘を打ったら同じく境内を掃除していた男性が近寄って来られて「納経をした後に突く鐘は出鐘(出金)と云って御利益が無く成るのでもう一度、納経の為直しをしたほうが良い」と勧められた。其れまで此の事を知らなかった家内は此れを直ぐに実行し、其れ以後は各寺で境内に入った処で入り鐘を突く様に成ったが「知らなかったとは云え今までに随分お願い事などで損をして居た見たい。」と嘆いていた。

  
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四国八十八箇所霊場・第六十六番札所「雲辺寺」

2019年12月23日 | 四国88箇所霊場


        



        


 雲辺寺は、徳島県三好市池田町白地ノロウチの雲辺寺山、山頂(標高927m)近くに位置する真言宗御室派の寺院で本尊は千手観世音菩薩である。


 四国八十八箇所霊場・第六十六番札所で、所在地は徳島県(阿波)であるが霊場としては讃岐の札所として扱われ、「涅槃の道場」の始まりで八十八箇所中で最も標高が高い位置(本堂の位置で標高900m付近)にあり、最後の「関所寺」である。夏は、紫陽花が全山一面に咲き、晩秋には紅葉の名所と成り、冬はロープウェイ利用が可能なため、雪の風景となる。


 寺伝に寄れば延暦8年(789年)に佐伯真魚(後の空海、弘法大師)が善通寺建立のための木材を求めて雲辺寺山に登り、此の地を霊山と感得し堂宇を建立した事を起源とする。空海は又、大同2年(807年)には密教灌頂の修法行い、更に弘仁9年(818年)に嵯峨天皇の勅命を受けて本尊を刻んで、七仏供養を行なったという。後に「四国高野」と呼ばれ、僧侶の修行道場と成り、貞観年間(857年~877年)には清和天皇の勅願寺となった。


 承徳2年(1098年)火災で全山焼失するも、其の後に鹿を追って当地に入った猟師の与成は樹上に現れた観音菩薩の威厳にうたれて発心し堂宇の再建を果たした。平安末期の中興の祖と云われるに相応しい願西上人が住職のとき、現存する本尊、千手観音と毘沙門天が造られた。鎌倉時代には阿波守護の佐々木経高(経蓮)の庇護を受け、七堂伽藍が整えられた。応長元年(1311年)には京都西園寺家に寄り寺領が寄進され貞冶2年(1363年)には足利氏より法華経真読を依頼される。



         


 此の札所には香川県側のロープウェイを利用するか徳島県側の池田町白地からの道路を利用して雲辺寺に至るルートがあるが私達は車で徳島県側から道路を登る事にした。私は以前に此の山から無線の移動運用をする為に此の山道を登ったが真冬で在ったので路面が完璧に凍って居てタイヤがスリップして車が真横に成った経験が有り、今回は可也心配しながら車を進めたが前日が可也暖かい天気だったので幸いに路面の凍結は無かったが山を200mHも登らぬ内に寺名の如く車は雲海の中にスッポリ入り視界が悪く少し驚いた。頂上付近の駐車場から数百メートルを歩き山門を潜り階段を上がると右手に鐘楼が、其の正面奥には大師堂があり其の場所に至る石畳の表面上は完全に凍って居て油断すると滑り転倒する様な状態に成って居た。 


 此の日は納経所が開く07時頃に山門前に到着したが(当然一番の納経者と思って居たが)既に10人くらいのお遍路さんが居られ其の熱心さに驚いた。此の場所は可也山深い場所にあるが此の場所に此れだけの寺院を造るのには可也の困難と莫大な費用が掛かったと思うのだが?其れを何らかの形でバックアップする人々の信仰心の厚さに感服し、私の様な俄仕立ての「なんちゃって遍路旅」を大変申し訳なく思った。
  

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四国八十八箇所霊場・第六十四番札所「前神寺」

2019年12月22日 | 四国88箇所霊場

        


 前神寺は愛媛県西条市洲之内にある真言宗の寺院で石鎚山、金色院と号す。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所霊場・第64番札所で日本七霊場の一つ、霊峰石鎚山の麓に位置する。


 西日本最高峰・石鎚山の七合目の標高1400mにあり、発祥より千年法灯を守ってきた山岳寺院であったが、江戸時代以降の変遷に寄り麓の西(標高50m付近)に本拠を移すも、其の後の神仏分離令に寄り廃寺の憂き目にあったが苦難の末、再興し現在の隆盛に繋げている。本堂前での柴燈護摩は年三回ある。(節分、山開きの日と閉山の日)又不動護摩は、管長自ら導師として元旦の年明け直後に護摩堂と続いて奥前神寺とで行なわれ、又毎月20日夜に護摩堂でも催行されて居る。


 寺伝に寄ると役の行者(役小角)が石鎚山の頂上を目指すも余りの厳しさで諦めて下山しようとした時に、斧を砥石で磨く老人に出会い、行者が問うと曰く「之は磨いて針にするのだ。」と、此の言葉に行者は挫折しては成らない。「成せば成る」と自分に言い聞かせ再び頂上に向かい、遂には登り着き修行を続けると釈迦如来と阿弥陀如来が衆生の苦しみを救済するため合体し石鎚蔵王権現と成って現れたを感得した。其の後、行者が当地(石鎚神社中宮成就社のある場所)まで下山して来たとき「我が願い成就せり」と云ったといわれる。そして其の尊像を彫って祀ったのが当寺の開基とされて居る。


 後に石仙(しゃくせん)が当地に堂を建て常住舎と云われた。そして其の弟子の寂仙が山頂への登山道を整備した。桓武天皇(782年~805年)が病気を患った時、常住舎で平癒の祈願を成就した事に寄って当地に七堂伽藍が建てられ勅願寺とし「金剛院前神寺」の称号を下賜され、石仙には菩薩号を賜ったと伝えられる。更に空海(弘法大師)が19歳(793年)の時に石峯(石鎚山)に誇りてと「三教指帰」に自ら記されているように当山で修行をし、後年、当寺を巡錫している。また文徳天皇、高倉天皇、後鳥羽天皇、順徳天皇、後醍醐天皇など多くの歴代天皇の信仰が厚かったことでも知られ当寺に1591年に伊予の領主と成った福島正則が参籠した。其の後1610年に豊臣秀頼が神殿を修築、福島正則が其の普請奉行と成る。そして西条藩主・小松藩主も厚く遇した。


 江戸時代の初期には、札所としての便宜をはかる為に麓の橘郷に出張所として里寺納経所として通称里前神寺を設置したため、本寺を通称として奥前神寺と呼ぶように成った。真念の「四国遍路道指南」には里前神寺には前札所で本札所は麓より12里の石づち山前神寺(奥前神寺)と書かれて居て、寂本の「四国遍礼霊場木」には奥前神寺は本堂護摩堂其の他、堂宇相連なり本社は拝殿釣殿奥殿の重層で多数の摂者があり、と壮大な伽藍であった事を表している。なお、奥前神寺から山頂弥山への登拝は6月1日から3日の三日間しか許されて居なかった。1657年西条藩主・一柳直興が里前神寺に仏殿を建立し、西条藩主に成った松平家の信仰も集め松平頼純は寛永10年(1670年)東照宮を里前神寺にまつり。高三石を寄附し、三葉葵の寺紋を許した。1752年には徳川家重が1778年には徳川家治が、里前神寺に厄除け命じたとの記録がある。


 此の日、惣門をくぐって長い参道を進み左に折れて薬師谷川を渡ると右手に手水場、鐘楼が左手に庫裏、納経所がありそして右に折れると左に大師堂、穴薬師が右手には金比羅堂、修行大師像、水子地蔵菩薩が像が並び、浄土橋を渡ると右に水が滴り落ちる、お滝不動明王像、石段を上がると直ぐに護摩堂、薬師堂があり、最も奥に入母屋造りで屋根は青い銅板葺きの其れは立派な此の日訪れた札所の中では一番荘厳な本堂が建って居た。また参道の鬱蒼ととした杉・檜の木立や古い灯籠が何基も立並ぶ境内には老樹が生茂り、深山幽谷の佇まいを見せていた。



        
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四国八十八箇所・第六十三番札所「吉祥寺」

2019年12月20日 | 四国88箇所霊場

        



 吉祥寺は愛媛県西条市にある真言宗東寺派の寺院で密教山(みっきょうざん)胎蔵院(たいぞういん)と号し四国八十八箇所の第六十三番札所である。本尊は毘沙門天で此の毘沙門天を本尊とするのは、四国八十八箇所では此処だけと成って居る。


 寺伝に寄れば弘仁年間(810年~823年)に空海(弘法大師)が光を放つ檜から毘沙門天・吉祥天・善賦師童子を刻み、安置したのが起源と云われる。

 
 其の頃の寺は坂元山(現在地より南に約2Kmほど上った標高368m地点)に在り、塔頭を21坊も有する様に成って居たが、豊臣秀吉の四国征伐の際に全山焼失した。詳しくは天正13年(1585年)に小早川隆景が高尾城を攻めた時、其の山中にあった此の寺も兵に放火された。本尊だけは助け出されて麓の大師堂のあった所に移されていたが万治元年(1659年)に塔頭の檜木寺と合併して現在の場所に再建され現在に至っている。
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四国八十八箇所霊場・第六十二番札所「宝寿寺」

2019年12月19日 | 四国88箇所霊場

      


 宝寿寺は愛媛県西条市小松町に在る寺院で。天養山(てんようざん)、観音院(かんおんいん)と号す。本尊は十一面観世音菩薩。四国八十八箇所霊場の第六十二番札所である。


 聖武天皇の勅願に寄って天平年間(729年~748年)大国主大神の信託に寄り大国主大神ら三神を白坪の里(現在地より約1Km北に中山川があり、其の北岸辺り)に奉斎したという、其の際、道慈律師に寄って、其の法楽所として当時は傍らに建立され金剛宝寺と名付けられた。


 大同年間(806年~810年)空海(弘法大師)が逗留し光明皇后を模写した十一面観世音菩薩像を刻んで本尊とし、また、此の頃 国司だった越智氏の夫人が難産で空海に祈念を頼み、空海は境内の玉ノ井の水を加持し越智夫人に与えたところ、夫人は玉の様な男子を無事出産した。此れに因み、寺名を宝寿寺に改め、本尊は安産の観音として信仰を集めるように成った。


 天正13年(1585年)羽柴秀吉の戦禍に寄って荒廃したが寛永13年(1636年)宥伝上人に寄って当寺だけ新屋敷の現在地付近に移されて再興されたので、巡拝者は白坪の神社に札を納めた後、当寺で納経を行なう事と成ったが、其の後の延宝7年(1679年)藩主の命に寄り洪水を避ける為に今度は神社が当寺の横に移転された。


 明治初期の廃仏毀釈に寄って当寺は神社と分離され廃寺となったが、大石龍遍上人に寄って明治10年(1877年)神社の南隣に移し再興され大正10年(1921年)には予讃線鉄道工事に伴い更に南側の現在地に移転したという。


 私達が此の寺を巡礼した時には全く知らなかったのだが納経し納経所で記帳を御願いした処、他の札所よりも料金が高かったので驚いたが、此の寺だけ省く事は出来ずに仕方なく支払ったが不思議に思って帰ってからインターネットで調べたら八十八箇所札所の団体である霊場会と揉め事が在り裁判沙汰に成って此の寺は団体組織から脱会して居る(裁判では勝訴)らしく現在は別の場所に霊場会(八十八箇所霊場の団体会)の作った納経所が在るらしい。従って此の段階では第62番札所が二箇所在る事に成って居る。此の日私達は巡礼の効率を上げる為に札所を順番には回らなかったので其の事を知らずに宝寿寺に直接に向かったが境内にお遍路さんの姿が全く見当たらなかったので不思議な感じはしたのだが・・・・・・然し私は俄か仕立ての礼拝所(納経所)で本来あるべき御本尊は如何したのか?とか、お大師さん所縁で無い礼拝所で納経するのも如何なものかと疑問を感じた。此の問題は寺同士の揉め事で千数百年に渡る弘法大師所縁の寺を巡る私達巡礼者には何ら関わりのない事、(確かに納経時間の問題は在る様だが本当に純粋に、お大師さんを慕い所縁の寺を回る者にとっては此れは然程大きい問題では無い)私としては、どちらを支持するわけでは無く、仏の道に進み信者を導く立場の人達の集団が何故、円満な解決が出来なかったのか?現在の状況は如何なものか?と呆れると同時に弘法大師が此の現状を嘆いているのでは感じた。
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