黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

四国八十八箇所霊場・第六十番札所「横峰寺」

2019年12月18日 | 四国88箇所霊場

         


 横峰寺は愛媛県西条市小松町にある真言宗御室派の寺院で石鎚山、福智院と号す。本尊は大日如来で、四国八十八箇所・第六十番札所


 此の横峰寺は標高745m付近に在り伊予国で最高所にて関所寺、四国八十八箇所霊場の中で雲辺寺に次いで2番目の高さ、本堂の本尊は金剛界大日如来像、向かって右脇仏は石仙菩薩、同左脇仏は蔵王権現で、いずれも秘仏であるが明治の神仏分離で一時期、横峰社と成った名残で、脇陣にいる右大臣と左大臣が拝見できる。又本堂の前には一対の狛犬がいる。


 此の寺は湯波と虎杖と白滝の三箇所の何れかからの険しい遍路道を登るしか行き着けなかった為、麓に前札所のある三つの札所の一つであったが、昭和59年に此の寺より1.5Kmの所まで林道が開通し、残り30分程度の緩やかな道を歩くのみと成り、更に其の後に林道は延びて今では500m程を歩くだけに成って居る。私達は本堂より高い位置の駐車場に車を停めて下りの参道で本堂へと向かったので行きは楽であったが帰りは上り坂を上がる何時もとは逆のパターンで女性達には一寸大変な様子であった。


 寺伝に寄れば、白雉2年(651年)に役行者が石鎚山を臨む星ヶ森で修行をして居たところ、山頂付近に蔵王権現が現れたので其の姿を石楠花の木に刻んで小堂を建て安置したのが創建と云われ、其の後、行基が天平年間(729年~748年)に入山した。又、延暦年間(782年~806年)石仙が往持し桓武天皇の脳病平癒を成就した事から菩薩号を賜り、当寺には金の御幣を賜ったと伝えられる。


 大同年間(806年~810年)には空海(弘法大師)が入山し星ヶ森で星供養の修法をした際、蔵王権現を感得し、大日如来を刻んで本尊とし堂宇を整備したという。 




        


 此の日、私達は何時も通りに第61番札所を出発する時にカーナビに横峰寺の電話番号を入力しカーナビのガイド通りに何の疑いもせずに車を進ませたらトイレと駐車場の在る場所に辿り着いたが参道らしき物も山門も無いので不思議に思った。調度、其処に清水が湧き出て居るのか?若い二人の男性がポリ容器に水を汲んで居たので「横峰寺に行く予定でナビ設定をしたら此処に案内されたのですがお寺に行くには如何すれば良いのでしょうか?」と尋ねたら其の若い男性は「皆さん良く迷われる様ですが此処からは歩きの遍路道で途中の道は険しく大変でお寺までは大体40分程掛かるので此のルートは止められて、一度入って来た11号線まで戻り其の道を6Km程東に進み左手に石鎚自動車、右手にローソンが在る交差点を右折すると横峰寺に至る有料道路に突き当たるので其処でお金を払うと後は一本道です。」と地面に地図を書きながら丁寧に教えて下さった。お礼を述べると「遠路ご苦労さまです。お気を付けて」と笑顔で見送ってくれた。



 思わぬ失敗で?可也の距離を引き返し時間的には約1時間近いロス、此の事が此の日に愛媛県の最後の札所、第65番札所「三角寺」(川之江市)まで終える予定が此の日は残念ながら最終記帳時間に僅かに間に合わず愛媛県内の札所を一つだけ残す事と成った。


 上段最初の写真は横峰寺の駐車場から西条市の瀬戸内海側を撮った物。下段の最後の写真は西日本の最高峰、1982mの霊峰・石鎚山方面を撮った物、頂に雪を被っている。


 


 
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四国八十八箇所霊場・第六十一番札所「香園寺」

2019年12月17日 | 四国88箇所霊場

      


 香園寺は、愛媛県西条市小松町南川に在る真言宗系の単立寺院(元御室派の寺院)栴檀山(せんだんさん)、院号は教王院(きょうおういん)、本尊は大日如来、四国八十八箇所霊場の第六十一番札所で在り、子安大師の寺として親しまれている。


 寺伝に寄れば、用明天皇の病気平癒を祈願して聖徳太子が建立し、天皇からは教王院の勅号を賜ったとされる。天平年間(729年~749年)には行基が巡錫、大同年間には、空海(弘法大師)巡錫中、当寺の門前で身重の婦人が苦しんで居た。空海は栴檀の香を焚いて加持祈祷をすると元気な男の子が無事に出産した。また、栴檀の香を焚いて、安産・子育て・身代り・女人成仏を祈る護摩修法をした。以来、安産・子育ての信仰の寺となったという。


 実際の創建年は不詳であるが、奥の院の白滝不動から北に行った海岸辺りで山中川下流に大日という場所が在り、其処にあった大日堂が白滝不動で修行する人達の納経所に成って、さらに大日如来を本尊とする寺に成り、現在地に移ったとも云われて居る。


 天正年間(1573年~1592年)に兵火に遭って焼失したが、江戸時代に入り小松藩主、一柳氏の帰依を得て寛永年間(1624年~1644年)に再興されて居る。また古くは高鴨神社の別当寺であったとされる。


 此の寺の参道を進むと左側に手水場が、右手に写真の鐘楼が在り、其の奥に遍明堂(釈迦堂)、正面に本堂と大師堂を兼ねた大聖堂が建って居る。2番目の写真は戦争慰霊観音像、右の御手には兵隊さんが抱かれている。此の寺は四国八十八箇所霊場の中で唯一、近代的な鉄筋コンクリート造りと成って居る。


 松山市内から伊予西条方面の第五十番札所の繁田寺から第五十九番札所の国分寺は以前の巡礼で既に納経は終わって居たので今回の松山市の第四十九番札所の「浄土寺」の納経が終ったら次は西条市の此の札所からの巡礼コースと成った。
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四国八十八箇所霊場・第四十九番札所「浄土寺」

2019年12月16日 | 四国88箇所霊場

        


 浄土寺は、愛媛県松山市に在る真言宗豊山派の寺院で山号は西林山、院号は三蔵院と云い本尊は釈迦如来で四国八十八箇所霊場・第四十九番札所である。


 伝承に寄れば、天平勝宝年間(749年~757年)に孝謙天皇の勅願を受けて恵明(えみょう)上人が開創、本尊として行基が刻んだ釈迦如来像を祀ったという。当初は法相宗であったが、空海(弘法大師)が伽藍を再興した際に真言宗に改宗したと云う。


 平安時代中期の天台宗の僧空也が天徳年間(957年~960年)に此の寺に滞在し布教に努めた。建久3年(1192年)に源 頼朝が堂宇を修復するが応永23年(1416年)には兵火で焼失、河野通宣に寄って文明14年(1482年)に再建された。現在の本堂(上段4番目の写真)其の時のものである。慶安2年(1649年)には大規模な修繕、昭和36年には解体修理が行なわれ現在に至って居る。


        
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四国八十八箇所霊場・第四十八番札所「西林寺」

2019年12月15日 | 四国88箇所霊場

        


 西林寺は、愛媛県松山市高井にある真言宗豊山派の寺院。清滝山(せいりゅうざん)、安養院(あんよういん)と号し、本尊は十一面観世音菩薩で四国八十八箇所霊場の第四十八番札所である。


 伊予の関所寺(別の寺が関所寺と云う説もあり)で、境内は周り寄り一段低い場所に在り、邪悪な者が此処に踏み入れると無間地獄に落ちると考えられている。


 寺伝に寄れば、現在地よりも北東に3Kmの小野播磨塚の辺りの「徳威の里」に、聖武天皇の勅願を受け、天平13年(741年)に行基が伊予国国司の越智氏と共に一宮別当として堂宇を建立、本尊の十一観世音菩薩を刻んで開基したという。大同2年(807年)に空海(弘法大師)が巡錫の折、今の場所に寺を移されたと云われて居て、日照りに苦しむ里人のため、奥の院に成っている杖の渕の清水を湧出させたとも伝えられている。


 17世紀末に火災で焼失したが、元禄13年(1700年)松平定直らに寄って一部再建、其の後の宝永4年(1707年)には中興の祖の覚栄法印が村人の「雨乞い祈願」を成就して松山藩に帰依され本堂と鐘楼堂が再興、更に文化10年(1813年)に大師堂、天保14年(1843年)に仁王門が再建された。


 此の寺の前に立てば立派な仁王門が聳え立ち其の山門を入ると左側に鐘楼、其の奥に庫裏・納経所が右側に手水場、正面奥には本堂が建ち、其の左には阿弥陀堂が在り、本堂右に大師堂が在る。



            
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 四国八十八箇所霊場 第四十七番札所「八坂寺」

2019年12月14日 | 四国88箇所霊場

        
  


 八坂寺は愛媛県松山市浄瑠璃町八坂にある。真言宗醍醐派のの寺院。熊野山、妙見院と号する。本尊は阿弥陀如来。四国八十八箇所霊場の第47番札所であり、伊予十三仏霊場第十番札所である。


 寺伝に寄れば役行者に寄って開基され、大宝元年(701年)に、伊予の国司、越智玉興が、文武天皇の勅願を受けて堂宇を建立したという。此の時に八ヶ所の坂道を切り開いて創建した事から寺名に成ったといわれている。一時荒廃するが、弘仁六年(815年)に来錫した空海(弘法大師)が再興したとされる。本尊の阿弥陀如来は恵心僧都源信の作と伝えられて居る。


 其の後、紀州から熊野権現を勧進して十二社権現と共に祀り、修験道の根本道場として栄え、十二坊、八十四の末寺を持ち多くの僧兵を抱える大寺と成った。天正年間(1573年~1592年)には兵火に寄って焼失してからは寺域も縮小し、現在の境内と成って居る。


 私達は前日に可也頑張って松山市から距離的に遠い第45番札所の「岩屋寺」の納経が終って居た事で、此の札所は松山市の宿泊場所からは距離的に近く御蔭で此の日の巡礼の旅は随分と楽な行程と成った。



        
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四国八十八箇所霊場・第四十六番札所「浄瑠璃寺」

2019年12月13日 | 四国88箇所霊場

    



 [浄瑠璃寺]は愛媛県松山市浄瑠璃町に在る真言宗豊山派の寺院で医王山、養珠院。本尊は薬師如来で四国八十八箇所霊場の第四十六番札所である。


 寺伝に寄れば、和銅元年(708年)に大仏開眼を前にした布教に訪れた行基が堂宇を建立、本尊の薬師如来と脇侍の日光菩薩と・月光菩薩、十二神将を刻んで安置して開基したと云う。其の後の大同2年(807年)に空海(弘法大師)が本寺を再興したと伝えられている。


 室町時代末期には当寺に帰依した足利幕府の武将・平岡道奇が伽藍を整備した。正徳5年(1715年)の山火事で焼失し、江戸時代中期の天明5年(1785年)に住職・尭音の尽力に寄り復興して現在に至って居る。


 県道から写真の石段を上がると木々に覆われた境内に入り右側に鐘楼が、仏手石が左に納経所がある。先に進むと手水場、右にイブキビャクシンの木があり正面に本堂が建ち右側に大師堂がある。更に奥に進むと境内に隣接した弁天池は蓮園に成って居て開花時期には全面に古代ハスの花が咲く。
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四国八十八箇所霊場・第45番札所「岩屋寺」

2019年12月12日 | 四国88箇所霊場

        



 岩屋寺は愛媛県上浮穴郡久万高原町に在る真言宗豊山派の寺院で山号は海岸山。本尊は不動明王で四国八十八箇所霊場・第四十五番札所。


 此の寺の本堂は標高585m付近に在り本堂の位置で比較すると八十八箇所中、4番目の高さで交通機関を最大利用する者でも30分近く参道を歩いて登らねば辿り着けない車遍路には最大の難所と成って居る。参道途中に夥しい数の石仏が重なり様に置かれて居て、境内には山に向かって右が金剛界峰、左が胎蔵峰と呼ばれる天を突く礫岩峰に挟まれ堂宇は巨岩の中腹に埋め込まれる様で、神仙境を思わせる山岳霊場である。尚、本堂が大師堂より小さいのは山全体が本尊されて居るかららしい。


 寺伝に寄れば、弘仁6年(815年)霊地を探して山に入った空海(弘法大師)は山中で神通力を備えた法華仙人と云う女性と出会う。仙人は空海に帰依して山を献上した。空海は不動明王の木像と石像を刻み、木像は堂宇を建立し本尊として安置、石像は奥の院の岩窟に祀って秘仏とし、岩山全体を本尊にしたと云う。


 鎌倉時代中期に時宗の祖、一遍が此の寺に参篭した事は「一遍聖絵」に描かれて居る。そして、何時からか第四十四番の大寶寺の奥の院とされて居たが、明治7年に初代住職が着任したが明治31年(1898年)に仁王門と虚空蔵堂を残し堂宇と資料宝物の殆どを焼失した。其の後、大正9年に大師堂を、昭和21年に本堂を、同9年に山門、同27年に鐘楼、同38年に宿坊、同53年に迫割不動堂と白山権現堂と順次再建され現在に至って居る。


 私達が此の日に第四十四番札所で納経を終えたのが16時25分頃で先に納経所に入った方が此の寺の住職と思われる方に「出来れば今から第45番さんに行きたいのだが納経締め切り時間の17時までに間に合うでしょうか?」と尋ねられて居た。住職は「参道は可也厳しい道だが貴方ならお若いので少し走れば大丈夫だろう」と答えていた。次に最終の私達が終ると「貴方達は如何するの?」と聞いてこられたので「私達は一度松山市内で宿泊した後、明日、また此方方面に引き返して岩屋寺に参る心算です。」と答えたら「然し、松山市内から明日再び此方に来て岩屋寺で納経すると又、松山市内方向に帰る事に成り午前中の時間は潰れるので其れは余りにも時間的に勿体無い、納経締め切り時間に絶対に間合うとは?云えないが出来れば此れから頑張ってみなさい。普通の歩きだと30分程掛かるが可也急げば15分程で本殿まで上がれるかも?然し少々は参道を走るくらいの覚悟はいるよ!其れと同行の年配の方は無理だから申し訳ないけど諦めなさい。」と優しく行く事を勧めてくれた。


 急いで大寶寺を出て岩屋寺までの距離は車を飛ばして参道への上がり口の駐車場に車を停めて急いで参道を上がり始めたが階段の無い可也勾配のある坂道を私は走りながら登り始めたが此の参道は平坦な部分の無い連続した坂道で直ぐに心臓はバクバク物で最初の200mで早くも息切れが始まった。家内は50m以上遅れて登って来ていたが其の息使いが私にもはっきりと聞こえる位の状態に成って居る。半分くらい?登った処で下山するお遍路さんと対向したので「本堂までは後どれ程ですか?」と尋ねたら「頑張ったら5分程度か?でも走ったら駄目ですよ!本堂手前の最後の石段は可也キツイので歩きなさい。」とアドバイスがあった。そして残り70m位の階段下で私が過呼吸の様な状態に成り一休みして居たら歩いて上がって来た家内が追いついて来たので「もうアカン頼むぞ、先ず納経所に声掛けして於いて!」とバトンタッチをした。家内も可也息が上がって居たが最後の坂をヨレヨレで登り切り、納経所の扉を開ける音のあと「御願いします、御願いします」の絶叫に近い声が下の方まで聞えて来た。日頃の毎日の散歩でも歩きの速さ等で負けた事の無い私だったが最初の段階で坂道を走った事が仇に成り、此の日は家内に完敗し日頃から此処一番で力を発揮しない家内だが「女の執念か?此処一番の底力を見せ付けられた!」以後、此の事で暫くは頭が上がらない状態に成って居る。


 上がり切った納経所で時計を見たら納経締め切り時間まで(17時)10分程度の余りが在ったので参道は約12分程で登り切った事に成り、兎に角、結婚以来、二人が此処まで後先を考えずに必至に頑張った事は初めての事で記憶に残る事に成った。取敢えず先に納経帳と掛軸の記入を頂き外のベンチで休んだが呼吸が落ち着くまでに20分位の時間を要した。其の後に本堂で納経をする時には周囲は可也暗くなりカメラ撮りはストロボを発光させねば写らない状態に成って居た。


 帰り道は足元が見え辛い程に暗く成って居たので転ばない様にゆっくりと下山したが駐車場に辿り着いた時には周囲は真っ暗に成って居た。此の日の段階で四国八十八箇所の巡礼は全体の6割程度の進捗率であったが私には多分、此の第45番札所の「岩屋寺」が其の道中の過酷さと高い場所に在る事から紅葉が綺麗で一番記憶に残る札所に成る事は間違いない様に思える。


 



        
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 お四国参りも当初の計画通りには行かず

2019年12月11日 | 四国88箇所霊場

 四国内に生まれると一生に一度は出掛けなければと云われる。「お四国参り」に前々から行かねば!とは思いながらも「其の内に其の内に!」と延ばし延ばしに成ってい居た事を今年こそはと一念発起し今年の1月頃から家内と二人で四国八十八箇所霊場・第1番札所の「霊山寺」からスタートし、此の前に高知県内と愛媛県内の札所が保々終り、年の瀬も押し迫った12月中には完成させたいと、今月の10日の早朝に出発し一泊二日で愛媛県内で唯一残って居た第六十五番札所の「三角寺」から香川県内にある第八十四番札所の「屋島寺」まで何途か回る事が出来た。


 今回、出掛ける前の段階で残って居た札所は24箇所だったので上手く効率良く行けば今回で廻りきる事は可能で、「もしかすると1~2箇所が廻り切れずに後日に成るかも?」の予定で出発し、初日は可也の早出した事で12箇所を終わり、今朝は第七十七番札所の「道隆寺」からスタートしたが女性達が前日の四国霊場内で一番標高の高い場所に在る難所の第六十六番札所の「雲辺寺」と「途中で階段を登るのが嫌になる弥谷寺(いやじ)」と云われる此れまた難所で女性達の(家内と家内の姉)体力面のダメージが大きく此れが翌日に出て今日は最終的に第八十四番札所の「屋島寺」で終わって仕舞い四箇所を廻り切れずに残し19時前には我家に無事帰り着いた。


 今回も「お四国参り」で色んな事があったので今後のブログに書き込んでいく予定です。
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四国八十八箇所霊場・第四十四番札「大寶寺」

2019年12月10日 | 四国88箇所霊場

          


 大寶寺は、愛媛県上浮穴郡久万高原町にある真言宗豊山派の寺院で本尊は十一面観世音菩薩で四国八十八箇所霊場の第四十四番札所で「中札所」と云われ標高550m付近に在り八十八箇所の札所の中では5番目の高さと成って居る。


 寺伝に寄れば百済から来た聖僧が携えて来た十一面観世音菩薩を山中に安置したのが始まりである。大宝元年に安芸から来た明神右京、隼人の兄弟の猟師が其の観音像を見付けて草庵を建て祀ったといい、奏上を受けた文武天皇の勅命に寄って寺院が建立され、元号に合わせて寺号を定めたと云われて居る。其の後の弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が来錫、此の際に天台宗から真言宗に改宗されたという。


 仁平2年(1152年)に失火に寄り寺は焼失、保元元年(1156年)、後白河天皇の勅使が天皇の脳の病気平癒を祈願したところ病が治ったため、天皇は妹宮を住職として下向させ「管生山」の勅額を送り、勅願寺として七堂伽藍を有する寺院として再興されたという。


 其の後、天正年間(1573年~1592年)には長宗我部元親の兵火で再度焼失するも、元禄年間(1688年~1704年)に伊予松山藩主・加藤嘉明などの支援で雲秀法師が再興し、松平の祈願所にも成った。其の後の明治7年(1874年)には三度目の全焼を被ったが地元の人々に寄って再興され現在に至って居るという。


      


 私達の此の日の巡礼の旅は高知県内の第39番札所の「延光寺」から始まり宇和島市~西予市~松山市近くから東方向に可也走って久万高原町までの距離を進んで此の第四十四番札所での納経が終ったのが16時20分頃で次の札所の第45番札所の岩屋寺は四国八十八箇所中でも難所中の難所で今日は此の寺で諦めて松山市の予約して居たホテルに行き、明日に行く予定であったが此の寺の住職と思われる方が「次の札所までは車で15分程度で行ける。駐車場からお寺までは頑張れば15分で行けるから頑張ってみなさい。今日中に岩屋寺の納経が終ると終わらないでは明日の予定が半日分違って大違いに成るから間に合う確証は持てないが?兎に角、頑張ってみたら」と優しく勧めてくれたので私達は挑戦する事と成ったが此の道中は死ぬかと?と思う程に過酷な物あった。詳しくは次回のブログで・・・・・・   
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四国八十八箇所霊場 第43番札所「明石寺」

2019年12月09日 | 四国88箇所霊場

        


 四国八十八箇所霊場・第43番札所の「明石寺」は愛媛県西予市にある天台寺門宗の寺院で本尊は千手観世音菩薩である。

 寺伝に寄れば6世紀、欽明天皇の勅願に寄り正澄上人が唐からの渡来仏である千手観世音菩薩を祀るため創建したという。天平6年(734年)に寿元行者が熊野より十二社権現を勧請し修験道の中心道場としたとされる。弘仁13年(822年)に空海(弘法大師)が再興したという。


 縁起の通りであれば飛鳥寺や四天王寺以前の創建と云う事に成るので此れは史実とは考えられず、実際の創建年は不明らしい。建久5年(1194年)に、源 頼朝が池禅尼の菩提を弔うために阿弥陀仏如来を安置、経塚を築き堂宇の修繕をした。此の時に山号を現光山から源光山に改めたという。其の後も武士からの信仰が篤く、室町時代は西園寺氏の祈願所となり、寛文12年(1672年)には宇和島藩主・伊達宗利が堂宇を建立した。



      


 此の札所は西予市の市役所の北北東の山中に入り境内の木は紅葉が始まって居た。
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四国八十八箇所霊場・第42番札所「佛木寺」

2019年12月05日 | 四国88箇所霊場

        


 四国八十八箇所霊場・第42番札所の「佛木寺」は愛媛県宇和島市にある寺院で本尊は「大日如来」である。


 此の寺伝に寄ると大同2年(807年)に空海(弘法大師)が此の地で牛を牽く老人に勧められて牛の背に乗って進むと、唐を離れる際に有縁の地を求めて東に向かって投げた宝珠が楠の大樹にかかって居るのを見つけた。其処で、此の地が霊地で在ると悟り楠木で大日如来を刻んで、其の眉間に宝珠を埋め、堂宇を建立して開創したという。牛の背に乗って此の地に至ったと云う所から家畜守護の寺とされている。


 鎌倉時代は宇和島領主、西園寺氏の菩提寺として栄えた。此の寺の弘法大師像は正和4年(1315年)10月5日開眼の胎内銘が入り、銘入りの大師像としては日本最古のものと云われて居る。本堂は享保13年(1728年)に、吉田藩主、伊達村賢が立てた物、毎年、四月十九日は此の寺の縁日で、本尊の大師像が開帳される。なお、不動堂は元の大師堂で現大師堂の場所から移動され、前立の大師像は現大師堂が昭和時代に成って建てられた時に共に造られた。


      


 下段、二番目の写真は聖徳太子堂、最後の写真は珍しい茅葺屋根の鐘楼堂で2014年に葺き替えられた。




  
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第四十一番札所に無線のアンテナが!

2019年12月04日 | 四国88箇所霊場

         


 此の日、第四十一番札所の境内に入ると納経所の奥にアマチュア無線用と思われるパラボラアンテナや50MHz帯から1200MHz帯のアンテナが立って居て私としては納経する前に其のアンテナ関係を拝見する事に成った。見た感じではHF帯のアンテナを見付ける事は出来なかったがタワーに取り付けられたパラボラ・アンテナは可也気合が入った物で徳島県内では見た事が無い物であった。


 此の辺はアマチュア無線が盛んなのか?宇和島~西予方面を走行中にタワーに取り付けられたHF帯用の大型ビーム・アンテナを良く見掛けたが今回の巡礼旅で札所内でアマチュア無線のアンテナを見掛けたのは初めての事であった。HF帯のアンテナが上がっていたら、ひょっとすると過去にQSOしていただいた可能性もあるのでお声掛けしようと思ったがU・VHF帯の運用では其の可能性は無いのでアンテナを眺めるだけで終った。


 後でパラボラアンテナの写真を詳しく見ていたら此のパラボラ・アンテナは業務用の物かも知れない。納経所の建物に取り付けられて居るアンテナ関係を見て私は安易に判断して仕舞った。
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四国八十八箇所霊場・第四十一番札所「龍光寺」

2019年12月04日 | 四国88箇所霊場

        


 龍光寺は愛媛県宇和島市にある寺院で稲荷山、護国院と号し本尊は十一面観音で四国八十八箇所霊場の第四十一番札所となっている。


 寺伝に寄れば、空海(弘法大師)が此の地を巡錫した際、白髪の老人に出会った。其の言動から五穀大明神の化身と悟り、稲荷明神像を刻んで安置した。本地仏として十一面観世音菩薩、脇侍に不動明王と毘沙門天を刻んで、四国霊場の総鎮守の寺とされ、開基したと伝えられて居る。


 元は稲荷田に在ったが火災に寄り、承応2年(1653年)澄禅が巡拝した時には田んぼの中に小堂が在るだけに成って居たが元禄元年(1688年)広田杜が在った現在地に移され、稲荷社が壇上中央に、其の東側に観音堂、其の下段に大師堂が建てられ、江戸時代中期頃までには現在に続く景観が成立し神仏習合の「三間の稲荷」として親しまれていた。


 其の後、明治の世に神仏分離で、稲葉神社と当寺に分離され、旧本堂は稲葉神社の社殿と成り、旧本堂に祀られていた稲葉大明神像は新しく下段に建てられた本堂に向かって右に旧観音堂に祀られていた本地十一面観音像は本尊として中央に移された。また、納経も其れまでは「本社稲荷大明神 本地十一面観音」と書かれて居たが「本尊十一面観音」に変更された。



        


 四国88箇所霊場の第39番札所の在る宿毛市までは私は以前に高知県内への無線移動運用で訪れた事はあったが海岸線を通っての宇和島市へのルートは私には初めての経験で、抜ける様な青空の下、想像した寄りは遥かに良い道路をドライブ気分で走行する事が出来た。
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四国88箇所霊場・第40番札所「観自在寺」

2019年12月03日 | 四国88箇所霊場

        


      



 四国88箇所霊場・第40番札所の観自在寺の寺伝に寄れば平安時代初期の大同2年(807年)に平城天皇の勅願によって、空海(弘法大師)は、一本の霊木から本尊の薬師如来、十一面観世音菩薩を刻み安置して開創したと伝えられて居る。此の時に残った霊木に庶民の病根を除く祈願をして「南無阿弥陀仏」と彫ったと云われる。なお、其の版木に寄り晒し木綿に押印された宝印守を購入する事が出来る。また、嵯峨天皇は勅額「平城山」を下賜し、当地に行幸したと云われ、一切経と大般若経を奉納、毎年勅使を遣わして護摩供の秘法を修したとされている。


 江戸時代初期の寛永15年(1638年)に京都の空性法親王が巡拝、薬師院の号を受けた。其の後、宇和島藩主、伊達宗利の勅願所に成ったという歴史を持って居る。一時は七堂伽藍を持ち四十の末寺を有したが、火災で焼失し延宝6年(1678年)に再建されたが、昭和34年(1959年)に失火で本堂を焼失し昭和39年に再建、大師堂は平静5年(1993年)に再建された。


 此の日の最初に訪れた第39番札所の「延光寺」で高知県内の札所の巡礼は終わり、此の「観自在寺」から愛媛県内の札所の巡礼の旅がスタートした。
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四国88箇所霊場・第39番札所「延光寺」

2019年12月02日 | 四国88箇所霊場

        


 四国88箇所霊場・第39番札所「延光寺」の縁起によると神亀元年に行基菩薩が聖武天皇(在位724~749年)の勅命を受けて、安産、厄除けを祈願して薬師如来像を彫造、此れを本尊として本坊の他、十二坊建立したのが開創と云われて居る。当時は、薬師如来の瑞相にちなんで亀鶴山と称し、院号は施薬院、寺名を宝光寺と呼び、又、本尊の胎内には行基菩薩が感得したという仏舎利を秘蔵したと伝えられている。


 其の後、弘法大師が此の寺を訪ねたのは延暦年間(782~805年)で桓武天皇(在位781~805年)の勅願書として再興、日光・月光菩薩像を安置して、七堂伽藍を整えた。此の時に大師が錫杖で地面を突いて湧き出た霊水が、今日に伝わる「眼洗い井戸」である。


 伝説に寄れば延喜11年(911年)に赤い亀が境内にある池から居なくなったが、やがて銅の梵鐘を背負って竜宮城から帰って来た(2番目の写真)。其処で現在の山号、赤亀山(しゃっきざん)寺山院(じさいん)の寺号に改めたと云われて居る。


        


 此の日は早朝から青空が広がり昨日、豪雨の中を走った道を足摺岬から四万十市に戻り其の後に宿毛市にある此方の札所へと向かった。下段2番目の写真が弘法大師が錫杖で地面を突いたら霊水が湧き出たと云われる「眼洗いの井戸」


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