黄昏叔父さんの独り言

 アマチュア無線と何でも有りのブログ

四国88箇所霊場 第38番札所 「金剛福寺」

2019年11月29日 | 四国88箇所霊場

         


            


         


 四国88箇所霊場、第38番札所は「金剛福寺」と呼ばれ寺伝に寄れば、弘仁13年(822年)に、嵯峨天皇から「補陀洛東門」の勅額を受けた空海(弘法大師)が三面千手観音菩薩を刻んで堂宇を建てて安置し開創したという。空海が唐から帰国の前に有縁の地を求めて東に向かって投げたといわれる五鈷杵は足摺岬に飛来したといわれている。寺名は五独杵は金剛杵とも云われ其れから金剛を観音経の「福聚海無量」から福を由来したとされている。また金峰上人が住持ち時、修行を邪魔する魔界のもの達を呪伏すると、そのもの達が地団太を踏んだ事から、山号を月輪山から蹉陀山に改めたといわれる。

 
 此の寺は歴代天皇の祈願所とされたほか、源氏の信仰が篤く、源 満仲は多宝塔を寄進、其の子、頼光は諸堂を整備した。平安時代後期には観音霊場として信仰され、後深草天皇の女御の使者や和泉式部なども参詣して居る。鎌倉時代後期には南仏上人が院主と成って再興したと伝えられ、また阿闇梨慶全が勧進を行なったとも伝えられている。


 此の日の私達は四万十町の第37番札所の「岩本寺」を13時過ぎに出発し四万十市を経由して四国の最南端である足摺岬に在る第38番札所の「金剛福寺」へと向かったが途中の四万十川の河口近くに架る四万十大橋を渡る頃には本降りの雨と成り、此処から足摺岬の先端までは土砂降りの大雨でワイパーの一番早いスピードでも前が良く見えない時期があって途中で休憩を入れた関係で金剛福寺に到着した時には16時を一寸過ぎて居て約3時間の時間が経過して居た。此の地は全88箇所霊場では徳島からは距離的には一番遠い札所で大変な事は覚悟はして居たが途中の大雨は予測出来ずに予定よりは可也遅れて仕舞ったが納経受付の最終時間には何途か間に合う事が出来た。


 此の近くの幡多郡大月町(39007E)や当時、高知県では一番要求度の高かった幡多郡三原村(39007C)に私は2010年の2月の中旬に移動運用で訪れた事があり其の時に足摺岬に行く予定で進んだが時間の余裕が無かった事と、余りにも距離的に遠くて途中で諦めて引き返したことがあったが9年振りの今回の機会に足摺岬に到達する事が出来て此れで漸く四国の東西南北の其々の岬、蒲生田岬、佐田岬、足摺岬、竹居岬の先端に到達と同時に四国の外周一周を達成した。徳島市から足摺岬までは直線距離でも200Kmは越えるので多分此の日走行距離は400Km近かったのでは?思われる。矢張り足摺岬は遠かった。



 


        
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 四国88箇所霊場 第37番札所「岩本寺」

2019年11月28日 | 四国88箇所霊場

         



 四国88箇所霊場、第37番札所「岩本寺」は清流四万十川が流れ、標高が300m程の高南台地が広がる四万十町に建立されて居る。此の寺の歴史は天平の世まで遡る。寺伝に寄れば、聖武天皇の勅を奉じた行基菩薩が、七難即滅、七福即生を祈念して現在地よりも北西約3Kmの付近にある仁井田明神の傍に建立されたと伝えられる末寺七ヶ寺を持つ福円満寺が全身とされる。仁井田明神の別当職(別当寺)であった事から、仁井田寺とも呼ばれていた。弘法大師が此の寺を訪ねたのは弘仁年間、大師は一社に祀られていた仁井田明神の、ご神体を五つの社に別け、其々の社に不動明王像、観音菩薩像、阿弥陀如来像、薬師如来像、地蔵菩薩像を本地仏として安置した。大師は更に末寺、五ヶ寺を建立された。此の事から福円満寺は七ヶ寺と合わせて十二福寺、また仁井田明神は仁井田五社と呼ばれていた。


 其の後の天正時代に兵火等で寺社共に一時衰退してしまう。再建の際に、此の地域の全ての神社を管掌下においていた岩本寺(当時は岩本坊)に、寺の法灯並びに別当職は遷され、継承された。戦国・江戸時代には武将や藩主等から寺領等の寄進を受け、神仏習合の札所として隆盛を誇っていが明治の世に成ると神仏分離の政策で仁井田五社と分離され、五尊の本地仏と札所が岩本寺に統一され、其れに伴う「廃仏き釈の法難」に遭い、寺領地の大半を失い再建には苦難の道が続いたが、少しずつ伽藍を整備し現在に至って居る。


 此の札所は数年前に兄夫婦と私達夫婦で以前から親交の在った四万十市の嶋村さんの所に電測車に搭載されていた電動伸縮ポールを貰い受けする為に訪れた時に義姉のたっての希望で4人で訪れた場所、兄とは水力発電所の送水管の超音波に寄る板厚測定の仕事で岩本寺のある直ぐ近くの民宿で1週間程、宿泊したので町筋を通った時も懐かしかった。私と兄とは共通の趣味であるアマチュア無線の事も在って又、兄の会社の仕事の関係で良く一緒に出掛ける事はあったが此の1年後に思いも寄らず兄は天国に旅立ったのでお互い近くに居ながら双方の夫婦連れで一緒に旅をしたのは此の時が最初で最後と成った。早いもので其の時からは5年近い月日が流れた。私が急に四国88箇所霊場を回る事を決心したのも兄の事で人の命は解からないものなので元気な内に行くを決めた。



          
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四国88箇所霊場 第36番札所「青龍寺」

2019年11月27日 | 四国88箇所霊場

        


        



 四国88箇所霊場、第36番札所の青龍寺の寺伝によれば弘仁年間(810年~824年)に空海(弘法大師)に寄って開基されたとされる。入唐求法の遣唐使として中国の青龍寺の高僧・恵果和尚より真言密教の奥義を伝授された空海が帰国の折、有縁の地に至るように祈願して独鈷杵を東方に向かって投げた。空海は其の独鈷杵が此の山中の松の木に在ると感得し、嵯峨天皇に奏上。弘仁6年(815年)に恵果和尚を偲び、唐の青龍寺と同じ名の寺院を建立したという。此の寺の御本尊の「波切不動」は、空海が乗った遣唐使船が入唐時に暴風雨に遭った際に、不動明王が現れて剣で波を切って救ったといわれ、空海が其の時の姿を刻んだ物であると伝えられて居る。


 私達が高知県内の札所を廻った11月18日は第35番札所までは天候の方は何途か時々の小雨状態で持ったが此の青龍寺辺りからは確りとした雨降り模様と成り写真の方は可也撮って来たが如何もハッキリとしない写真と成って仕舞って居る。
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四国88箇所霊場 第35番札所 「清瀧寺」

2019年11月26日 | 四国88箇所霊場

        


 四国88箇所霊場の第30番札所「善楽寺」での納経が終ると高知ICから高知自動道で土佐ICまで行き其処から北に向かうと135mほどの小高い山の上に第35番札所「清瀧寺」はある。


 此の寺には西側と東側の二通りの進入路が在るのだが偶々カーナビが選んだコースは西側の可也細いクネクネと曲がりながら登る道であった。此処は街中の札所とは違い小高い山の上に在り、南側は町並みが一望出来て素晴らしい景観、写真も撮ったのだが此の日は天気が悪かったのでモノトーンの世界で一寸残念で在った。


 此の寺の縁起に寄ると、養老7年に行基菩薩が行脚して居た頃、此の地で霊気を感得して薬師如来像を彫造した。此れを本尊として堂舎を建て開山したのが初めと伝えられて居る。後に弘法大師が此の地を訪ねたのは弘仁年間(810~824)の頃で本堂から300m程の上の岩上に壇を築き、五穀豊穣を祈願して十七日の修法を行い、其の満願の日に金剛杖で壇を突くと、岩上から清水が湧き出て鏡の様な池に成ったという。其処で山号や院号、寺名を現在の様に改め霊場にしたある。そして此の水は麓の田畑を潤す事は元より紙の原料である「みつまた」を晒し紙を漉く上で重宝され、やがては土佐和紙産業を興す事にも貢献して居る。


 此の寺は「厄除け祈願」の名刹で、其のシンボルが最後の写真の本堂の屋根より高い大きな薬師如来像で在る。


 
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四国88箇所霊場、第30番札所「善楽寺」

2019年11月25日 | 四国88箇所霊場


         


 此の日は先に四国八十八箇所霊場の第31番札所の「竹林寺」に向かい其の後、高知ICに引き返す恰好で其の近くの第30番札所である善楽寺に向かった頃には時折、雨が降る天気に成った。本来なら順番通りの順序で納経するのが良いのだが前回に30番と31番札所を残して仕舞った為に此の日の次の札所の第35番札所には高知IC~土佐IC間の高速道路を使う為に順路の効率を上げる為に高知ICの直ぐ傍の札所が後回しに成った。此の日は次の第35番札所「清瀧寺」、第36番札所「青龍寺」、第37番札所「岩本寺」までは何途か、崩れながらも天気は持ったが此処から足摺岬までの2時間強の移動中に天気は大きく変化し、車の走行中に先が良く見えない程の強い雨が降り始め正に台風の中を進む様な状態と成った。


 此の第30番札所は「善楽寺」と云い寺伝に寄れば大同5年(810年)空海(弘法大師)が高加茂大明神(土佐国一宮で現在の土佐神社)の別当寺として、神宮寺と供に創建したと云われて居る。


 


  


 
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 四国八十八箇所霊場 第31番札所 「竹林寺」

2019年11月22日 | 四国88箇所霊場

        


 四国八十八箇所霊場の中で高知県内に在る札所は第24番札所~第39番札所の16箇寺で其の数は四国四県の中では一番数が少ないが反面、高知県は地図を見ると直ぐに解かる様に東西に長く広がる形で其処に点在する札所は高知市内に密集している物の高知市内から西側に在る札所の中には札所と札所の距離が在り、特に第37番札所と第38番札所との距離は94Kmも離れて居て其の移動には約2時間半の時間を要する。


 従って東側の室戸岬から中央部の高知市内に点在する札所は我家からは如何にか日帰りで巡礼する事が出来たが高知市内より西側に点在する各札所を巡ると成ると日帰りでは如何しても無理で第38番札所(金剛福寺)の在る足摺岬か第39番札所(延光寺)の在る宿毛市辺りで1泊する事が必要に成る。


 此の春に「お四国参り」をした時には高知県の最初の札所である第24番札所(最御崎寺)から第29番札所(国分寺)と第32札所(禅師峰寺)から第34番札所(種間寺)までは終ったのだが日帰りの最後のコース上に在った第30番札所~第31番札所は帰路中に高知市内の交通渋滞に遭遇し納経最終時間の17時までには間に合わず納経を残す結果と成って仕舞った。

 
 今回の巡礼は前回に残して仕舞った30番と31番札所の納経を皮切りに第35番札所~第38番札所までの納経を終える事が今回の旅の初日の行程目標で18日に義姉の家を05時に出発し徳島ICから高速道路に乗って高知ICまで進み最初の第31番札所に到着したのは07時10分頃と成った。


 綺麗に整備された駐車場から山門に至る所に鐘楼が在り其の先の山門をくぐると石段が続き上がり切った正面には写真の立派な五重の塔が聳え立ち左側には大師堂が右側に進んだ奥には本殿が建って居た。


 此の第31番札所の「竹林寺」は「土佐の高知の播磨屋橋で坊さん簪買うを見た」で有名な「よさこい節」の舞台である他、学僧、名僧が集まる「南海第一道場」とされた学問寺院としても知られる。又、鎌倉時代から南北朝時代の高名な臨済宗の学僧「夢想国師(1275~1351)が山麓に「吸江庵」を建てて修行、2年余も後進の育成に務めたという。


 此の寺の縁起に寄ると神亀元年の頃、聖武天皇(在位724~749)が中国・五台山に登り、文殊菩薩に拝した夢を見た。天皇は、行基菩薩に五台山の霊地に似た山容を見付ける様に命じた。其の行基菩薩は此の地が天皇の霊夢に相応しいと感得、自ら文殊菩薩像を彫り、山上に本堂を建て安置した。其の後、大同年間(806~810)に弘法大師が此処に滞在して修法し、荒廃した堂塔を修復、霊場にされたという。



        


 上段、最初の写真の「文殊堂」と呼ばれる本堂は、江戸時代前期の建立で国の重要文化財に指定されて居る。
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お四国参りに行って来ます。

2019年11月18日 | 四国88箇所霊場

 今日から3日間、高知県と愛媛県の札所を回りますのでブログの方は休みと成ります。
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考えれば考える程、大変な道中に成りそうな感じ!

2019年11月11日 | 四国88箇所霊場

  


 11月中に予定して居た四国88箇所霊場の高知県の30番~31番と35番~39番までと愛媛県内の残りの40番~49番札所を巡る遍路旅は今日の昼からの我が旅グループの緊急ミーティングに寄り今月の18日~20日の2泊3日の予定で行う事に保々決定し、私の経費節減の目的で札所の宿坊(札所のお寺が経営する安い宿泊設備)に泊まっての巡礼の旅は女性陣(主に家内の思い)の反発で却下され「良い温泉と豪華な食事付きの宿泊地」に変更される事に成りました。


 今回は道中が可也長く特に38番札所の「金剛福寺」は高知県の南西部の突端の足摺岬に在り徳島からは一番遠い距離と成り手前の37番札所からは車で2時間半程掛かり徳島を朝の05時に出発しても各札所の納経締め切り時間の17時までに間に合うか如何か?微妙な状態なので如何しても最初の1泊目は足摺岬の近くの宿泊に成り、翌日は足摺岬から宿毛~愛媛県の南宇和~宇和島~西予~大洲~松山へと四国の西側の海岸線を通る私としては初めて走るコースだし此の間は高速道路が(高規格道路は在る様だが?)無い為に過去の北海道の旅の様にスピードを出す事も時間を前もって正確に予測する事も難しく現在の予定表作りの段階で2泊目の宿泊地を何処にするかで?可也迷って居る。


 現在もインターネットの情報サイトを利用して出来るだけ正確な行程表を作るべく、色々悩んで居るが如何やら今回の道中は3日間で保々四国内を一周する事に成るので距離や道路事情等を考慮すると如何やら此れまで私が全国を廻った旅の中でも一番大変な道中に成りそうな感じがする。
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来週には「お四国参り」に出掛ける予定

2019年11月06日 | 四国88箇所霊場

 11月に入っても台風23号が発生し其の進路が心配されましたが日本に近付く事無く遥か東の海上を進んでいるので一安心しました。多分此れ以降は日本に影響を及ぼす様な台風は無いと思われるので今年の春先から始めて夏場に一休みして居た四国88箇所霊場を巡る巡礼の旅の残り半分の44箇所を巡る旅を再開する事にしました。


 10月に不順だった天候の方も昨日辺りから青空が広がる此の時期独特の安定した気候に成って来たので来週の天気の良い日を選んで2泊3日で高知県と愛媛県の残った札所を廻ろうと思い今日一日を掛けて順路の行程表を作りました。


 高知県の札所で残って居るのは30~31番札所と35番から39番の延光寺を回る予定だが此の道中の37番札所の岩本寺から38番札所の金剛福寺までは2時間半の時間が掛かるとか?(四国88箇所霊場の公式情報サイト)何せ此の寺は足摺岬(高知県の南南西の端)に位置して居るので距離的には可也遠い。徳島を05時に出発して各札所が納経可能な07時に高知県の30番札所からスタートしても此の38番札所の金剛福寺の納経最終時間の17時に間に合うかどうか?の微妙な所、従って何れにしても最初の宿泊場所は此の足摺岬の近辺に成る。


 翌日は宿泊場所から高知県の最後の札所の38番札所の延光寺までが約2時間ほど掛かり其の後の40番札所から愛媛県に入り宇和島を経て第49番札所の浄土寺までに、もう一泊が必要な状況である(予定としては46番札所の前後で)が此れは現実に廻ってみないと解からない状況?然し此の辺は松山市の手前で豪華な宿泊地としては中途半端な場所に成って居る。私は今回の旅は観光旅行では無いので札所の宿坊に泊まることを考えて居るのだが女性達は如何やら温泉と豪華な食事を期待している感じで家内などは私が寺の宿坊に泊まる計画を話したら「ええ~!」と御不満の様子、夕方に義姉にも此の連絡電話を入れたら電話の向こうの声のトーンが少し沈んだので一寸御不満の様子で如何やら確りした宿を御希望の様子だ。


 何れにしても来週までは未だ時間があるので色々と検討してみる予定だが此処までの行程表を作るだけでも保々半日以上も掛かり今日はアンテナ関係の作業をするだけの余裕は無かった。
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11月から「四国88箇所霊場の巡礼」の旅を開始、

2019年11月01日 | 四国88箇所霊場

 暑い時期や台風が四国に接近の可能性が在る10月の後半までは四国霊場巡礼の旅は大変なので出掛けられませんでしたが明日からは11月に入り多分、台風の心配も無く成るので愈々今年の春先に始めた巡礼の旅の残り半分を今月中に再開する事にして大まかな計画を検討し始めました。


 残りの霊場は高知県の高知市周辺の第35番札所の清瀧寺から始め其れ以後は高知県の西方面の札所である一番遠い土佐清水市足摺岬にある第38番札所の金剛福寺へ其の後は四国の西部を宇和島方面へ北上しながら(第40番札所~第43番札所)松山市方面の札所を回り前回に廻った第50番札所の繁多寺の手前の浄土寺まで廻る事に成ります。私は四国に生まれながら宇和島方面には未だ一度も行った事が無く(ショート・カットの四国一周はして居る)此の辺は非常に楽しみにして居るのですが可也の走行距離に成りそうです。


 然も此の行程は徳島からは距離的に一番遠いので日帰りで巡礼する事は時間的にとても無理なので高知県内か愛媛県内で一泊する事に成り私としては今までに一度も経験した事の無い何処かの霊場の宿坊に宿泊してみようか?と考えて居るのですが今回も我が旅グループの三人旅に成るので日曜日に義姉の所に出向いて出発日と宿泊地(お寺の宿坊、ビジネス・ホテル、温泉が楽しめる宿の何れか?)を決める予定です。


 後の残った霊場は一番遠い札所で新居浜市から徳島寄りの場所で其の大半が香川県内の札所に成るので2回に分けて日帰りで十分に巡礼し終えるので今度は日本三大聖地の真言宗の総本山の高野山に行く事に成りますが此方は余り急ぐ必要が無いので場合に寄っては来年の春に成っても良いと考えて居ます。先ずは四国88箇所霊場の巡礼が出来れば良しと考えて居ます。


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四国八十八箇所霊場 第34番札所「種間寺」

2019年03月30日 | 四国88箇所霊場

        


     種間寺の歴史・由来


 土佐湾の沿岸は四国霊場が多く並び種間寺も其の一つで土佐湾の航海に結びついた興味深い話が伝えられて居る。6世紀の頃、敏達天皇の6年(577)百済の皇子から多くの経論とともに、仏師や造寺工を贈る旨の勅書が届いた。彼等が渡来したのは用明天皇(在位585~87)の時代で大阪・四天王寺の造営に当たった。漸く落慶し其の帰途の航海中に土佐沖で強烈な暴風雨に襲われ種間寺が建つ本尾山に程近い秋山の港に難を逃れて寄港した。彼等は海上の安全を祈って約145cmの薬師如来坐像を彫造し、本尾山の山頂に祀った。此れが寺の起源とされて居る。


 其の後、200年以上が経過して、唐から帰朝した弘法大師が此の地を訪ねたのは弘仁年間で大師は其の薬師如来像を本尊として安置し、諸堂を建てて開創された。其の折に唐から持ち帰った種子の米、麦、あわ、きび、豆またはひえの五穀を境内に蒔いたことから、種間寺と名付けたといわれる。天歴年間(947~57)には、時の村上天皇(在位946~67)が「種間」の勅額を下賜され、また土佐藩主の山内公からの加護が厚く、広大な田畑や山林を寄贈されており、堂舎の修築も行われて居る。


 此の寺に到着したのは納経所の受付が終わる17時少し前だったが可也広い駐車場は満杯状態で車を停める場所が無く困って居たら年配の方が近寄って来られ「お遍路、御苦労様です。今日は此の寺の大きな行事が有るので駐車場が満杯状態です。今から私の車を移動させるので此処に車を駐車して下さい。」と言って態々駐車スペースを作ってくださり「有難う御座います。」と申し上げ感謝、感謝!急いで本堂に向かうと沢山の方々が座って居られ住職の読経が聞えて居たのでお邪魔に成ってはいけないと早々と納経を終えて、何とか時間内に終える事が出来たが如何やら慌てていた性か?本堂関係の写真を撮るのを忘れて仕舞い此の寺院だけは写真が無い。


 多分、私達がお遍路姿をして居なければ駐車場で地元の方からの、お声掛けは無かったか?と思われ、此の時はお大師さまに助けられた気がしたし、また此の日の二つ前の禅師峰寺の納経所で「雪渓寺への巡礼ルートの事」をお尋ねしていた事を外で休憩していた地元女性の親子連れの方が聞いて居られたのか?私達が駐車場まで下ったら態々待って居られ「もし雪渓寺に行かれるのなら?私達も次は向かうので宜しければ先導しますから後に付いて来てください。」と声掛け頂き非常に有難かった。四国路においては巡礼者に対して「おせったい」という形で1200年に及ぶ長い間、此の独特の文化は廃れる事無く今日まで引き継がれている有難い事だ。



 


 
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四国八十八箇所霊場 第33番札所「雪渓寺」

2019年03月29日 | 四国88箇所霊場

     


     雪渓寺の歴史・由来


 土佐湾の桂浜は、白砂の美しい月の名所として知られる。幕末の志士、坂本龍馬の銅像が立って居る事でも名高い。雪渓寺は其処から西へ約4Km程の距離にある。此の寺の縁起は、まず3つの特色がある。一つ目は四国八十八箇所霊場の内、2ヶ寺しかない臨済宗妙心寺派の寺院である事、弘法大師に寄って弘仁6年に開創された頃は真言宗で「高福寺」と称した。其の後、寺名を「慶運寺」と改めて居るが、廃寺と成って居た寺を再興したのは戦国時代の土佐領主・長宗我部元親公で、元親の宗派である臨済宗から月峰和尚を開山として初代住職に招き、中興の祖とした。元親の死後、四男の盛親が後を継いで長宗我部家の菩提寺とし、元親の法号から寺名を「雪渓寺」と改め、今日に至って居る。

 (雪渓寺の「けい」の字は本来、第二水準の漢字だが変換出来なかった為に本来の漢字では無い第一水準の漢字を使用して居る)


 二つ目は鎌倉時代の高名な大仏師、運慶と其の長男、湛慶が此の寺に滞在し、運慶は本尊の薬師如来像と脇侍の日光・月光菩薩を制作、また湛慶は毘沙門天像と吉祥天女像、つぶらな瞳で小首をかしげる可愛い「ぜんにし童子像」を彫造して安置したとされる。一時、慶運寺と名乗ったのも、こうした由縁で此れ等は全て国の重要文化財に指定されて居る。


 三ッ目は「南学発祥の道場」と云われ、江戸初期の住職、天質僧正が朱子学南学派の祖として活躍し、野中兼山などの優れた儒学者を多く輩出して居る。


 此の寺を訪れた段階では事前知識は全く無く、此れまで訪れた寺院とは少し違った印象を持ったが(豪華さや華美では無い造り)帰って来て色々調べている中で臨済宗(禅宗)である事に気付き、成る程と理解した。其の性か?撮った写真の枚数も非常に少なく2枚しか無かった。
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四国八十八箇所霊場 第32番札所「禅師峰寺」

2019年03月28日 | 四国88箇所霊場

        



     禅師峰寺の歴史・由来


 禅師峰寺は太平洋のうねりが轟く土佐湾の沿岸に近い、小高い山、82m程の峰山の頂上にある事から地元では「みねんじ」とか「みねでら」「みねじ」と呼ばれ、親しまれている。また海上の交通安全を祈願し建立されたと云う事で海の男達は「船魂の観音」とも呼んでいる。漁師達に限らず、藩政時代には参勤交代などで浦戸湾から出港する歴代の藩主達は、みな此の寺に寄り航海の無事を祈った。


 縁起に寄ると、行基菩薩が聖武天皇(在位724~49)から勅命を受けて土佐沖を航行する船舶の安全を願って、堂宇を建てたのが起源とされて居る。後の大同2年、奇岩霊石が立並ぶ境内を訪れた弘法大師は、その姿を観音の浄土、仏像の理想の山とされる天竺・捕陀落山さながらの霊域であると感得し此処で虚空蔵求聞持法の護摩を修法された。此の時、自ら十一面観世音菩薩像を彫造して本尊とされ「禅師峰寺」と名付け、また峰山の山容が八葉の蓮台に似て居た事から「八葉山」と号した。


 以来、土佐初代藩主・山内一豊公はじめ歴代藩主の帰依をうけ、「船魂」の観音さんは今も一般の漁民達の篤い信仰を集めている。仁王門の金剛力士像は、鎌倉時代の仏師、定明の作で国指定重要文化財。堂宇はこじんまりと肩を寄せ合う様に立って居るが、境内は樹木に覆われ、奇怪な岩石が多く幽寂な雰囲気を漂わせている。



      


 此の札所に訪れた時には殆どお遍路さんの姿は見えなかったが何か迷いでもあるのか?本堂で普段着ではあったが熱心に般若心経を唱える若い外人さんが居られて非常に印象に残った。其の姿を見ると私の様な「何チャってお遍路旅」では申し訳ない気持ちに成って仕舞った。


 




  
  
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四国八十八箇所霊場 第59番札所「国分寺」

2019年03月27日 | 四国88箇所霊場

        



    国分寺の歴史・由来


 伊予の国分寺は、伊予の国府があったところで、此の地域は伊予文化発祥の地とも言える。往時の国分寺は今の寺から150m程の東に在った。東塔跡と見られる遺跡には13個の巨大な礎石があり、国の史跡とされている。礎石の配置等から推測される七重塔の高さは60m程で豪壮な七堂伽藍を構えた寺観は、伊予の仏教界に君臨した天平の昔を偲ばせ、その面影を今に残している。


 国分寺は天平13年、聖武天皇(在位724~49)の勅願に寄り行基菩薩が本尊の薬師如来像を彫造して安置し、開創したと伝えられる。第3世住職・智法律師の時、弘法大師が長く滞在して「五大尊明王」の画像一幅を奉納、また大師の弟子・真如も2年間留まり「法華経」の一部を書写して納められている。


 其の後の伊予国分寺は、悲運な災禍の歴史に見舞われる。先ず天慶2年(939)の「藤原純友の乱」に寄り灰燼に帰した。次に、元歴元年(1184)源平合戦の戦火による焼失。3度目は南北朝時代の貞治3年(1364)讃岐・細川頼之の兵火に寄って焼かれ、さらに4度目は長宗我部元親の「天正の兵火」にかかり、堂塔を焼失している。相次ぐ罹災で寺は荒廃、元禄2年(1689)の寂本著「四国禮霊場記には茅葺の小堂が寂しく建つのみ」旨が記されて居る。此の寺の本格的な復興は江戸時代後期からであった。




  


 上記の写真は国分寺の境内の南側に在った薬壺には其の円周上に目、手、足・・・・・・等の体の名称が彫り込まれ各人の健康状態の悪い部位の其の部分を触ると良くなると云われて居るので私は全てを触っていたら家内が「弘法大師さんも沢山の人の願いを聞かねば成らず可也忙しいので御願いする場所は一箇所にして下さい。」的な事が書き込まれていたと私に言って来たので思わず笑って仕舞ったが其の家内が其の後に全ての部分を触っていた事に大笑いした。


 
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四国八十八箇所霊場 第58番札所「仙遊寺」

2019年03月26日 | 四国88箇所霊場

        


    仙遊寺の歴史・由来


 仙遊寺の境内は山号に成って居る作礼山の山頂に近い標高300mの高台にあり、今治市街地や四国一高い今治国際ホテルは眼下に望める。その先には瀬戸内海に浮かぶ島々、さらには平成11年に開通した「しまなみ海道」も一望出来る眺望豊かな地にある。


 創建は天智天皇(在位668~71)の勅願に寄り伊予の国主・越智守興公が堂宇を建立、本尊の千手観音菩薩像は天皇の念持仏として、海から上がって来た竜女が一刀三礼しながら彫って安置したとされる。此の事から「作礼山」が山号と成り、竜宮から届けられた云う伝説もある。


 更に仙遊寺には、阿坊仙人という僧が40年にわたって籠り、七堂伽藍を整えるなどをしたが、養老2年(718)に忽然と姿を消してしまったという伝説が残って居る。寺名は其の阿坊仙人に由来して居る。


 弘法大師が四国霊場開創の折に此の寺で修法をされた時、病に苦しむ人々を救済しようと井戸を掘り「お加持の井戸」として多くの諸病を救ったと伝えられ、信仰されて居る。江戸時代には荒廃して本堂と12社権現だけと成って居たが明治時代の初期に、高僧・宥蓮上人は明治4年、日本最後の即身成仏(真言密教の教義で、人間が現世の肉体の侭で仏に成る事、生きたままで仏に成る事)として入定している。境内には上人を供養した五輪塔がある。


            
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