私が小学校低学年の頃はテレビは普及しておらず家庭に有る電気製品と言えばラジオは並4程度のST管の時代で余り感度も良くなかった様に思う。確か小学校の2~3年生時分に今思い返すと変な話だが小学校の講堂でラジオの見本市みたいな事が開かれて休み時間に講堂に行き色とりどりの綺麗なプラスチック・ケースの5球スーパーラジオ成る物を見て子供心に胸が高鳴った事を覚えている。其の商品を買って貰う事は夢の又夢で親に言う事すら出来なかった。勿論その頃はラジオの中身の事に関しては全く知らなかったが我家で「文明の利器」と言える様な物はチャペルの様な恰好をした古びた木箱に入った並4ラジオと2眼レフのカメラしか無かった。近所でもカメラを持って居る人は余り見る事は無かったがラジオはどこの家庭でも有ったが我家のラジオは可成りの年代物で母親の実家から貰って来た物だったらしい。とにかく貧乏だったのか?其の様な物に我家の大人は全く興味が無かったのか?テレビ、洗濯機、冷蔵庫等の導入は隣近所と比べて遅かった様に思う。
少し話の内容が前後に成るが私の兄(JA5CHQ)が中学2年生の頃に小遣いを貯めて買ったのか?鉱石検波器のラジオの組み立てキットを手に入れ遊んでいた。今思うと簡単な構造のラジオだが真空管が付いて居ないし、カーボナイトで作られたヘッドフォンから出る音を初めて聴かせてくれた時、「兄ちゃんて凄いな?」と思った。今思うと鉄板の振動子で音は良くなかったがヘッドフォンと言う代物を見たのも聞いたのも初めてだったし電気代は要らないし何より其れまでの真空管式のラジオと違い直ぐに音声が聞こえて来るのが不思議で有った。大げさな話だがこの時に子供心に初めて「我が家にも初めて文明の利器が来たか?」と感じた。私と兄とは8歳違いなので多分私は未だ小学校にも行って居なかったと思うのだがヘッドフォンを片耳づつに外し二人で銭形平次の連続放送を聞いた記憶が残っている。
テレビを初めて見たのは小学校4年生位の時、学校の図書室に14型の白黒テレビが導入された。当時は生徒が勝手に触らない様に2m程の高さのパイプで組まれた台の上に鎮座していて勿論勝手にスイッチを入れる事は許されなかったが図書委員に成ると図書館の管理を任されるのでテレビが見たさに志願して図書委員に成って当時、NHKでアナウンサーをしていた黒柳徹子さんが小学生と一緒に絨毯に乗り空を飛び回る番組を良く見ていた。それ以外でテレビを見る機会は銭湯に行った時と近所のお金持ちの家に見せて貰いに行って「怪傑ハリマオ」や「ナショナル・キッド」「てなもんや三度笠」等の番組を見に行って居たが今思うと近所の悪ガキが大挙押しかけて子供番組の主題歌を大合唱したりしていたので迷惑この上なく良く辛抱して頂いたなと申し訳なく思う。最近其の家の奥さんと御会いする機会があったので「子供の頃は迷惑も顧みずテレビが見たくて大勢で押し掛けて申し訳有りませんでした」と言ったら其の方も既に85歳を越えて可也のお婆ちゃんに成って居たが「そんな事もあったね?でも楽しかったわね」と笑って居た。
小学校高学年頃に我家にも漸くテレビが入り他所に御邪魔しなくてもテレビが見られる様に成ったが母屋が茅葺屋根で有った為に屋根にアンテナが乗せられず10m位で低く、海を渡って来る大阪からの電波を捉えて居たがチャンネル毎に微妙に方向が違うので写りが悪い時にはチャンネルを切替えると外に出てアンテナポールを回して最良の所で合わせて見ていたが今考えると随分のどかな事をしていたな?と思う。
私が小学校4~5年生頃には兄は既に社会人に成って居たので子供の頃に恵まれなかった反動で欲しい物は何でも手に入れて居た。其の当時では未だ非常に珍しかったトランジスターでラジオを組み立てたりして居たので其の手の雑誌や部品が転がって居て理論は余り良く解って居なかったが「門前の小僧 習わぬ経を読む」でラジオに興味は持っていた。そして中学2年生の時に技術家庭の科目でラジオの組み立て授業が有り5グループに分かれて組み立てが有ったが最初から音が出たのは私のグループだけ、其の頃には 私には配線図が完璧に頭に入って居たので先生が鳴らないグループの原因を探って行くのだが其れ等の原因は先生が解る前に殆ど解ったので生意気にも「技術家庭の先生と言っても大した事は無いなぁ~」と思って居た。そして此の少し後でアマチュア無線とひょんな事で出会う訳だが其れが嵩じて電気の道に進む事と成った。
私が工業高校の電気科に進んだ時に其の技術家庭の先生は既に同校の機械科の先生に成っておられ入学して1週間位したら「おう日下久し振りやのう、お前は多分電気の道に進むと思って居た 頑張れよ!」と声を掛けてくれた。先生は余り電気には強い様には思えなかったが矢張り機械が専門で有ったのだと其の時に初めて状況を理解した。在学中の私は無線ばかりして余り学業は頑張らなかったが卒業後に縁有って家電業界に入り初めて松下電器の茨木のテレビ事業部に行った時、其処にある大きな看板を見た時に何か懐かしい感じがしたが?良く見ると小学校の子供の頃に良く見て居た「ナショナル・キッド」がタイトル時の空を飛ぶ時にテレビ事業部の上を旋回して居た事を初めて知った。現役をリタイヤして今思い返すと余り関係無い様に思って居た其々の出来事が実は不思議な糸で結ばれて居た様に感じる。