パオと高床

あこがれの移動と定住

岡部隆介  詩「白桃」 一首一献 外伝

2017-09-20 13:11:08 | 詩・戯曲その他
斎藤茂吉の「白桃」からのつながり。
以下、別の場所で以前触れた山本哲也、岡部隆介という二人の詩人の詩と詩についての文章に手をいれたものだ。

まずひとつは福岡にあって、削るようにして厳しい詩句を書き、いつか自在を醸すようになった詩人岡部隆介の
「白桃」という詩。
1993年に発行された、ハガキ大30ページほどの小ぶりで洒落た詩集の一冊「火守」に収録された詩である。

  白桃

 わが誕生日に ゆくりなく
 スイス土産のナイフをもらった

 おお 〈尖端が拡がっている双刃(もろは)の短刀〉だ
 古いふらんす語ではボードレール

 このナイフの刃はアイガーやユングフラウの
 峨々たる雪の稜線を写した瞬間があるか知らん

 また レマン湖の朝霧に
 うっすら曇った瞬間があったか知らん

 わたしは冷たい白桃をひとつ
 冷蔵庫からとり出して柔らかな皮を削ぐ

 いくたびか 数知れず
 ひととおのれの心を同時に刺した

 この大詩人ゆかりの双刃(もろは)の尖端を うごく
 濡れた果肉の凹みに危くすべらせながら

第一連の「ゆくりなく」が効いている。「不意に」や「思いがけず」の意味を表す言葉だが、ここで「不意に」や
「思いがけず」にしてしまうと、この駘蕩としていながら、孕みこんだような緊張感は生まれない。もちろん、いきなり、
「わたしの誕生日に/スイス土産のナイフをもらった」と書き始めてしまうやりかたもあるのかもしれない。これで不意な感じはでる。
だが、この「ゆくりなく」は、それこそ「不意に」出現するのだ。「ゆくりなく」は「ゆくりなく」ナイフを差し出すのだ。
詩は、第二連でボードレールを呼び出す。詩の注釈に「〈 〉の中のことばは、河盛好蔵『パリの憂愁』に拠る」とある。
この本を開くと、

  ボードレールという名前は古いフランス語のバドレールbadelaireもしくは
 ボードレールbaudelaireから来ていて、この名詞は、「尖端が拡がっている双
 刃の短刀」を意味する。ラブレーの『第三之書』の巻頭のフランソワ・ラブレ
 ー師の序詞にもこの言葉が出てくるが、渡辺一夫訳では「幅廣新月刀」となっ
 ている。 
           (河盛好蔵『パリの憂鬱 ボードレールとその時代』)

と、書かれている。ナイフからボードレールへの跳躍が面白い。河盛は、さらにボードレールが自分の名前にこだわったと記述する。

  ボードレールは自分の名がまちがって書かれることを非常に厭がり、例え
 ば一八五三年にプーレ・マラシのところで『室内装飾の哲学』という小冊子を
 二十五部刷らせたとき、自分の名がBeaudelaireとなっているのを見て激怒し
 てその全部を破棄させたという話が残っている。彼の「履歴ノート」の4にも、
 「ボードレールという字は最初の綴りをeなしで書く」と記されている。美の
 使徒であった彼が、自分の名をbeau(美しい)と書きまちがえられることを
 拒否したのは面白い。

確かにbeauとの区別は面白い話である。ボードレールは自らの名前の表すものを気に入っていたのかもしれない。岡部はそこを
「いくたびか 数知れず/ひととおのれの心を同時に刺した」と詩語にする。
「双刃の短刀」だったボードレールと同様に、詩を書くことで「ひととおのれの心を同時に」刺してきた自らを重ねている。
このナイフは岡部隆介が知人からスイス土産にもらったナイフらしい。日本ではあまり見かけない、先が諸刃で尖ったもので、
岡部はナイフの輝きにスイスを思い浮かべる。これはナイフをくれた相手の旅への返礼であり、敬意である。旅行者が見てきたであろう風景を
ナイフ越しに柔らかくまなざす。「あるか知らん」と「あったか知らん」が音調を和らげているように思う。
「あるだろうか」ではない。脚の「ん」は押さえ口調ではなく、はねるような「ん」ではないのか。フランス語の語尾の上がりに似ているの
かもしれない。微妙なことだが、最初、「あるか知らん」なのが次の連では「あったか知らん」と促音便を引き出す形になっている。
これは「うっすら」と「曇った」の音便からのつながりだ。
そして桃をむく。桃の皮を削ぐ。傷つきやすい桃の皮は「柔らかな皮」でもある。ここで、詩は深みに転ずる。自省が宿る。さらりと。

岡部隆介は、1912年6月30日福岡県筑紫郡筑紫村(現・筑紫野市永岡)生まれ。教員をするかたわら、詩作を続けた。
「母音」「九州文學」などさまざまな詩誌に関わりながら、1958年46歳のときに「匈奴」創刊。1977年「木守」創刊。
詩集に『雉の眼』(1975年第一詩集)、『ナムビクワラのたき火』(1980年)、『冬木立』(1987年)、
『魔笛』(1995年)、『木の葉叢書』シリーズ5冊がある。福岡県直方市に暮らし、2001年5月14日没。

と岡部の詩についてあれこれ書きながら、斎藤茂吉の短歌からの連想。
つまり、斎藤茂吉は、

 ただひとつ惜しみて置きし白桃のゆたけきを吾は食ひをはりけり

と、惜しみながらも最後(?)の桃を食べたのだ。そして、食べ終わった愉悦を表現している。
彼は白桃の「ゆたけき」を食べ終わっている。何か桃自体が甘美ななにものかを象徴しているようでもある。それは恋か?
それに対して、岡部の詩は「白桃」にナイフを滑らせているところで終わる。その時に、わずかの悔恨のような
過ぎた時間への悔いや痛みのようなものがよぎる。それはナイフの出自へのあこがれも伴っている。

桃をめぐる詩の表れ方が、何か面白い。これに山本哲也の「白桃」の詩を置いてみる。それは次で。
山本哲也の「白桃」には野呂邦暢の小説「白桃」のその後のような雰囲気があるのだが…。
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