2023年にノーベル文学賞を受賞したノルウェーの作家の初の邦訳作品。
戯曲、小説、詩など広い執筆活動を展開している作家で、解説によると本人は自身を「詩人」と定義しているらしい。
で、この作品は戯曲である。
第7場からなり、登場人物は、彼、彼女、男の三人。場は海に面した入江にある家の庭とその中に限られている。
その家はノルウェーの西海岸の入江にあり、人の暮らす場所からは遠く、フィヨルドの海岸を連想させる。
彼と彼女は人から離れて、二人だけの暮らしをしたいと、この家を買い、逃げて(?)来た。
彼女 (陽気に)もうすぐ私たちの家に入れる
彼 おれたちの家
彼女 古いすてきな家
他の家から遠く離れて
そして他の人たちからも
彼 君とおれ二人だけ
彼女 だけではなくて
二人で 一緒
(彼の顔を見上げる)
私たちの家
この家で一緒に住む
あなたと私
二人だけで 一緒
これが冒頭の入りの会話だ。
二人だけの、二人で一人の暮らしを求める。だが、すでに二人には不安が兆す。
「だれか 来る」、「きっとだれか やってくる」と。期待して待つ「だれか」ではない。そして、来るのは予感ではなく、ほとんど確信に近い。
すでにベケットの『ゴドーを待ちながら』がベースにあるのだろうと推察できる。
ただ、「ゴドーが来た」といったそこからパロディーや二次的創造を行った戯曲ではない。
やってくるだれかをめぐる彼と彼女の会話の中にあるずれ。そして、訪れた男をめぐる彼と彼女のまなざしの動き。
彼らはわずかなまなざしの動きで、相手の心を自分の心を微妙に絡ませていく。それは交差と離反を繰り返す。静かに孤独が沁みだしてくる。
相手への疑いだけではなく、疑いを生みだしていく孤独が戯曲から立ちあがってくる。
やって来ないゴドーというのは辛かったが、現れてしまうだれかというのも辛い。
来るだれかによって、訪れる状況の怖さは、何もホラーだけではないのだ。
彼と彼女と男は、この入江の中で静かな生活を営めなかったのだろうか。なぜ、営めないのだろうか。
引用した部分でもわかるように、セリフは、セリフの訳は、詩のような行替えをしながら、短い会話を刻んでいく。
そして、たくさんの「間」が置かれていく。まるで、その「間」の中に存在のありかが隠れているように。
何かが起きるわけではない。ただ、ここには何も起こらないが存在を包む何かがある。人をずれさせる微妙な状況の動き。
その時、存在はどこか疎外される。求める状況から逸らされるように。
家のなかにある以前住んでいた人の生活の痕跡が、累積する時間と死の気配を伝えている。
作られた演劇空間自体が、そこに登場する人物を少しずつ不安にさせ、おびやかしていく。
戯曲なので演出によってさまざまな演劇ができるだろうと思う。その演出的解釈も広く取り得る戯曲だと思った。
また、解説が懇切だ。
それによると書かれた言葉は、ノルウェーの二つの公用語のうち西海岸で使われる少数派の、辺境語ともみなされがちな「ニーノルシュク」。
この言葉は「書き言葉」であるということで、フォッセはそれを「話し言葉」として使う試みを行っているらしい。その地域言語が世界へと出かけていく。すごいな。
それにしても翻訳はたいへんだっただろうと思う。
含意のある日本語だと思った。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます