成熟なんて、老成なんて、詰めこんだあれやこれやの前では、フンッ! なのよ、とでも言っているようで、と、書くと、勝手気儘な詩集と思う人がいるかもしれないが、まったく違う。柔軟だが勝手ではない。
で、また、ある時期を経て自在になった表現、というのとも違って、自在さにおいても、じゅうぶんに企むこと、そして、ことばがその企みを受け入れること、企みが表現のきわで表現を支えていること、その、いっぱいの、あれやこれやが、詩を放出しているのだ。そんな愉しさに出会う。最近、愉しさという言葉をよく使うが、そう、読む快楽があるのだ。そんな詩集である。
詩集冒頭の詩「階段を昇り降りする裸体」で、まず引き込まれる。ああ、他者性と自己性は、こんな感じで出し入れできてしまうのだ。
若い医師に診てもらう日なので
念入りに化粧する
全身のMRIを受けたあと
診察室に入ったら
胴体の輪切りだけではなくて
裸の体もならべてある
ジーパンもつけたままでいいですよといわれたのに
下半身もヘアまでも写っている
心電図を撮るために
コードにつながれ
五分ほど階段を昇り降りする
負荷運動をくりかえしている
そこにはもはや私ではなく
デュシャンのモデルがいるのだった
(全篇)
どこまで私でどこから私は私でなくなり、どこから私は物性化するのだろう。そこを往き来する手際がいい。
そして、疾走感。同音の失踪感とは違う。そう、駆け走ることは、なにものかを振り捨てることなのかもしれない。しかし、疾走は、何かに向かってであり、振り捨てながらなお、得ることへと向けた行為なのかもしれない。または、何かに向かってではなかったとしても、疾走それ自体は振り捨てられる運動エネルギーの総量への挑戦なのだ。つまり、挑発される空虚なのだ。
そして、「あれやこれや」という詩篇に出会う。最初の一行がいい。
あれやこれや が居座っている
今はもう婆になってしまった六人姉妹の二番目の婆が
とうとう猫車に乗せられて往ってしまった
いつかは超えねばならぬ
時間の隙間を
桜の開花も待たないで
往ってしまった
黒塗りのキャデラックではなく
残された五人の婆が交替で押す猫車に乗せられて
往ってしまった
第一連の一行のあと、すぐ展開される。含まれた物語への契機。そして、詩は幻視の情景を呈示する。物語は「あれやこれや」の中に封じて、詩は、開花していない桜の道を行く婆を乗せた猫車を描き出す。「開花も待たないで」と書きながら、桜という言葉が書き込まれることで、実は桜が見えるのだ。また、「キャデラックではなく」と書かれることで、なぜか、猫車の横を擦り抜けていくキャデラックも見えるのだ。それが、「五人の婆が交替で押す猫車」を際立たせる。
そこに、聞こえてくる。第三連の二行。
般若心経のあと
いろはにほへと ちりぬるを と坊さんが朗々と唄う
「桜」という言葉の残像がある。「いろはにほへと」が呼応する。そして、「ちりぬるを」が引き出され、散る花と散った婆のイメージを補完する。
で、四連で戻るのだ。
いつまでも あれやこれや が居座っている
白いカサブランカの匂いが部屋中に充満している
両手に抱えきれないほどの花に混ざって
猫車のきしむ音も連れてきてしまった
第三連が、前の「桜」と第四連の「カサブランカ」の双方に掛かる。「いろはにほへと」が「カサブランカの匂い」にかかり、坊さんの声を縫って、猫車の「きしむ音」が聞こえてくるのだ。「居座っている」あれやこれやは、「充満している」部屋中の匂いと同じで、たくさんの「あれやこれや」であり、「両手に抱えきれないほど」の「花」のように、それに混ざった「あれやこれや」であって、猫車に乗った婆のように猫車に乗っているのだ。言葉が幾つにも交差しあっている。
そして、最終連。
びろうどの可愛らしいセーラー服を着て
鳩ポッポをうたっている写真があって
小さな手が拍子をとっている
カーテンをひくように一瞬に向こう側に隠れてしまって
逆さまに落ちていく猫車
木製の車輪が風車のように回っている
(「あれやこれや」全篇)
三行で、写真の中から語りかけてくる婆の時間が浮かぶあがる。それは、同時に写真の中の婆の過去に語りかけている作者のまなざしを感じさせるのだ。「小さな手」の「拍子」は生きていたときの日常の拍動であり、生きているときに体が発した拍子なのだ。写真の像が音を出している。その日常の生の時の流れが、四行目「カーテンをひくように」で、「一瞬」に幕を閉じられてしまう。手際という言葉が思い浮かんだ。巧みな手際が、ここにはある。詩の巧みな手際が、生の手際ということを連想させる。
そして、最終二行。奈落は空につながっているか。「落ちていく猫車」は奈落に落ちるようにして、車輪は空に浮かぶように「風車」のように回っている。「木製の車輪」を抜ける風が見えたような気がする。猫車に運ばれる婆は、落下する猫車を尻目に中空に浮かんでいるように見えたのは、それは、もう読者の勝手な想像かもしれない。しかし、「逆さまに」落ちる以上、婆は猫車から弾き出されているはずなのだ。そこに、中空の空間がイメージされる。映像が、読者に手渡されて、詩は終わるのだ。
何だか、この落下する猫車を見ている自分たちの立ち位置が、浮かんでいるような、そんな世界のまっただ中まで、感じとってしまった。
謎めいた戦後詩を彷彿とさせる「洪水」。いきなり笑える「牛乳を注ぐ女」は、当世のフェルメール・ブームと重ねて読んでも面白いし、他者と自己との出し入れの巧みさを味わうこともできる作品。などなど、興味は、それこそ収録作品の題名のように「キリが無い」。毒気も斜度も持ちながら、引きつける感性、吐き出す感性織り交ぜて、一冊読み終わった頭のなかには、それこそ心地良く「あれやこれや」が残る。
で、また、ある時期を経て自在になった表現、というのとも違って、自在さにおいても、じゅうぶんに企むこと、そして、ことばがその企みを受け入れること、企みが表現のきわで表現を支えていること、その、いっぱいの、あれやこれやが、詩を放出しているのだ。そんな愉しさに出会う。最近、愉しさという言葉をよく使うが、そう、読む快楽があるのだ。そんな詩集である。
詩集冒頭の詩「階段を昇り降りする裸体」で、まず引き込まれる。ああ、他者性と自己性は、こんな感じで出し入れできてしまうのだ。
若い医師に診てもらう日なので
念入りに化粧する
全身のMRIを受けたあと
診察室に入ったら
胴体の輪切りだけではなくて
裸の体もならべてある
ジーパンもつけたままでいいですよといわれたのに
下半身もヘアまでも写っている
心電図を撮るために
コードにつながれ
五分ほど階段を昇り降りする
負荷運動をくりかえしている
そこにはもはや私ではなく
デュシャンのモデルがいるのだった
(全篇)
どこまで私でどこから私は私でなくなり、どこから私は物性化するのだろう。そこを往き来する手際がいい。
そして、疾走感。同音の失踪感とは違う。そう、駆け走ることは、なにものかを振り捨てることなのかもしれない。しかし、疾走は、何かに向かってであり、振り捨てながらなお、得ることへと向けた行為なのかもしれない。または、何かに向かってではなかったとしても、疾走それ自体は振り捨てられる運動エネルギーの総量への挑戦なのだ。つまり、挑発される空虚なのだ。
そして、「あれやこれや」という詩篇に出会う。最初の一行がいい。
あれやこれや が居座っている
今はもう婆になってしまった六人姉妹の二番目の婆が
とうとう猫車に乗せられて往ってしまった
いつかは超えねばならぬ
時間の隙間を
桜の開花も待たないで
往ってしまった
黒塗りのキャデラックではなく
残された五人の婆が交替で押す猫車に乗せられて
往ってしまった
第一連の一行のあと、すぐ展開される。含まれた物語への契機。そして、詩は幻視の情景を呈示する。物語は「あれやこれや」の中に封じて、詩は、開花していない桜の道を行く婆を乗せた猫車を描き出す。「開花も待たないで」と書きながら、桜という言葉が書き込まれることで、実は桜が見えるのだ。また、「キャデラックではなく」と書かれることで、なぜか、猫車の横を擦り抜けていくキャデラックも見えるのだ。それが、「五人の婆が交替で押す猫車」を際立たせる。
そこに、聞こえてくる。第三連の二行。
般若心経のあと
いろはにほへと ちりぬるを と坊さんが朗々と唄う
「桜」という言葉の残像がある。「いろはにほへと」が呼応する。そして、「ちりぬるを」が引き出され、散る花と散った婆のイメージを補完する。
で、四連で戻るのだ。
いつまでも あれやこれや が居座っている
白いカサブランカの匂いが部屋中に充満している
両手に抱えきれないほどの花に混ざって
猫車のきしむ音も連れてきてしまった
第三連が、前の「桜」と第四連の「カサブランカ」の双方に掛かる。「いろはにほへと」が「カサブランカの匂い」にかかり、坊さんの声を縫って、猫車の「きしむ音」が聞こえてくるのだ。「居座っている」あれやこれやは、「充満している」部屋中の匂いと同じで、たくさんの「あれやこれや」であり、「両手に抱えきれないほど」の「花」のように、それに混ざった「あれやこれや」であって、猫車に乗った婆のように猫車に乗っているのだ。言葉が幾つにも交差しあっている。
そして、最終連。
びろうどの可愛らしいセーラー服を着て
鳩ポッポをうたっている写真があって
小さな手が拍子をとっている
カーテンをひくように一瞬に向こう側に隠れてしまって
逆さまに落ちていく猫車
木製の車輪が風車のように回っている
(「あれやこれや」全篇)
三行で、写真の中から語りかけてくる婆の時間が浮かぶあがる。それは、同時に写真の中の婆の過去に語りかけている作者のまなざしを感じさせるのだ。「小さな手」の「拍子」は生きていたときの日常の拍動であり、生きているときに体が発した拍子なのだ。写真の像が音を出している。その日常の生の時の流れが、四行目「カーテンをひくように」で、「一瞬」に幕を閉じられてしまう。手際という言葉が思い浮かんだ。巧みな手際が、ここにはある。詩の巧みな手際が、生の手際ということを連想させる。
そして、最終二行。奈落は空につながっているか。「落ちていく猫車」は奈落に落ちるようにして、車輪は空に浮かぶように「風車」のように回っている。「木製の車輪」を抜ける風が見えたような気がする。猫車に運ばれる婆は、落下する猫車を尻目に中空に浮かんでいるように見えたのは、それは、もう読者の勝手な想像かもしれない。しかし、「逆さまに」落ちる以上、婆は猫車から弾き出されているはずなのだ。そこに、中空の空間がイメージされる。映像が、読者に手渡されて、詩は終わるのだ。
何だか、この落下する猫車を見ている自分たちの立ち位置が、浮かんでいるような、そんな世界のまっただ中まで、感じとってしまった。
謎めいた戦後詩を彷彿とさせる「洪水」。いきなり笑える「牛乳を注ぐ女」は、当世のフェルメール・ブームと重ねて読んでも面白いし、他者と自己との出し入れの巧みさを味わうこともできる作品。などなど、興味は、それこそ収録作品の題名のように「キリが無い」。毒気も斜度も持ちながら、引きつける感性、吐き出す感性織り交ぜて、一冊読み終わった頭のなかには、それこそ心地良く「あれやこれや」が残る。
特に「あれやこれや」をあのようにお読みいただけたことを
とても感謝しています。
これからもよろしくお願いいたします。
こちらこそ
よろしくお願い致します。