パオと高床

あこがれの移動と定住

李承雨(イ・スンウ)『真昼の視線』金順姫訳(岩波書店)

2013-05-02 12:43:23 | 海外・小説
このところ、コン・ジヨン、ハン・ガン、パク・ソンウォンと、韓国の小説家の小説を一作ずつ読んできたが、どれも面白くて、この小説も、その面白さの中に入る一冊。
作者イ・スンウは1959年、全羅南道生まれ。

「不在の父」を探して、「三十八度線から近い人口三万人の小さな都市であるこの町に真夜中に到着」する主人公の意識の旅は、リルケの『マルテの手記』からの引用で始まる。
「人々は生きるためにこの都会に集まってくるらしい。しかし、僕はむしろ、ここではみんなが死んでゆくとしか思えないのだ」という『マルテの手記』の書き出しの文章を、二十九歳の大学院生である主人公ハン・ミョンジェは、「民間人の出入統制区域近く」の都市に行くバスの中で思い浮かべる。彼は、意識の奥に隠し込んでいた父を探しに旅に出る。そして、この書き出しを思い浮かべた彼もまた、「一体、僕はそこに生きるために行くのか、死ぬために行くのか」と考える。

小説は「僕」という一人称で書かれている。リルケ、カフカ、さらにオルハン・パムクなどの作品を織り込み、訳者が述べているように、ジョイスの「意識の流れ」の手法を用いながら、主人公「僕」の内面の旅を描きだしていく。それは、「不在の父」を意識の上で「いない」にしていた「僕」が、意識の下にいた「父」に気づく旅であり、その「父」を殺し、克服する旅である。「父殺し」のテーマが、存在をめぐる問題として探求される。

訳者も引いていたが、意識下の「父」に気づく場面が印象に残る。
結核にかかり、田園住宅に移り住んだ「僕」の近所に暮らす定年退職した大学教授が、主人公に「お父さんは?」とたずねる。それに対して、「僕」は「父はいない」と応える。元教授は「いつ亡くなられたんだね?」と聞く。「僕」は、「いないと言ったんで、亡くなったとは言っていないと笑いながら言い返」す。が、彼は、反論する。

  いないとは存在しないことで、近くにいようと遠くにいようと、いる
 のにいないというのは理屈に合わない。距離であれ関係であれ同じだが、
 近くにいてもいることで、遠くにいてもいることだ。特に、誰も否定で
 きずどんな場合にも否定できないものがあるが、父親とはまさしくそん
 な存在だろう。死なない限りはいないとは言えないのだ。どんな場合に
 でも、死んでも、死んだままで存在しているのが父親なんだ。

「僕」は、心に「何か得体の知れない不安な粒子が漂いながら内なる安らぎを攻撃してくるのを感じ」る。父の名前も知らない「僕」に、元教授は言う。

  存在しない者の名前は呼ばない。そんなことはない。なぜかというと
 初めからなかったものに名前はつけないから。名前を探しているとした
 ら、それは存在しないとは言えないだろう。こんなふうに考えてみなさ
 い。ある記憶は無意識の中に抑圧されて意識の表面から消え去る。消え
 去ったからといって存在しないことになるのだろうか。

そして、「僕」は父捜しの旅に出る。ここで、さらに元教授は語る。

  人間は根本的に何かを探して追求する存在なのだ。時には自分が何を
 探しているのかも分からないままに探し追求するものだ。夢遊病者のよ
 うに。探しても探せなくなったとしてもその追求は無意味ではない。

名指されないままのものの名前を求めること。それが、ある不安と抑圧を与えることにおいて、訳者が解説で書くように「父」はあらゆる権威、権力のメタファーになる。だが、同時に克服と解放への問いが求められる。

このあと、もちろん「僕」は、すぐに「父」に出会えたりはしない。小説中にもカフカに関する部分があるように、一方でカフカ的世界(?)を読者に示しながら、筋は筋で展開する。そこには、行為の逡巡や暴力性の介在などが描かれていく。そして、後半、小説は「愛」の問題を追いかけていく。
父と子の関係において、

  愛は父の権利であったり義務だ。愛さない父は自分の権利を使わなか
 ったり義務を遂行したりしない。しかし、息子たちには愛したり愛さな
 かったりする権利も義務もない。愛する父であれ、愛さない父であれ違
 うところがない。彼はただ父であるだけだ。息子たちはただ父である存
 在を探しているだけだ。あるときは愛をもって追求し、あるときは愛な
 しに追求する。愛がある無しにかかわらず追求する者が息子だ。

ここに権力の構図が示される。しかし、その力に対して「追求」するという行為も示されているのだ。例えば、「父性」の喪失がいわれてきた。しかし、「父」をメタファーと考えれば、「父性」としてだけではなく、小説の表題のように、権力の構図は、一切の「視線」に宿る可能性がある。であれば、それは無意識を貫いて、さらされるべき「真昼の視線」なのだ。ただ、一方、この小説名の「真昼」という言葉には光の射してくる光の中の視線、光をもたらす「真昼の視線」という含意もあるように思う。

思索に裏打ちされた様々な言葉に惹かれながら、読み終えることができた。そして、最後に「作者の言葉」に出会う。

  しかし、角を曲がると出くわすようなわけのわからない存在、出くわ
 すことを願っているのか願っていないのかもはっきりしない、超越であ
 り内在しているもの、未知の大きい視線とかなり親しくなったようだ。
 幸いなことだ。

これは、作者自身がこの小説を書いている間の心の状況を示している。そして、読者は、この小説を読みながら、角を曲がり、どこかで、何かに、出くわす。きっと、それは幸いなことなのだ。


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