パオと高床

あこがれの移動と定住

中川右介『未完成―大作曲家たちの「謎」を読み解く』(角川SSC新書)

2013-04-13 20:43:53 | 国内・エッセイ・評論
本の名前が「未完成」といっても、シューベルトの『未完成交響曲』についての本ではない。もちろん、第一章ではこの曲について書かれているが、資料を駆使して、推理を働かせ、未完成の曲が未完に終わった理由と経緯を読み解いていく本である。
採り上げられている曲は、シューベルト『未完成交響曲』、ブルックナー『交響曲第9番』、マーラー『交響曲10番』、ショスタコーヴィッチ『オランゴ』、プッチーニ『トゥーランドット』、そして、モーツァルト『レクイエム』。
この本の面白さは、俗説との抗いにある。
例えば、マーラーの章では、マーラーが9番を書いたら死んでしまうという死への恐怖に取り憑かれていたという俗説を排していく。笑い飛ばすように排除するのではない。その時の状況や、そういった説が出る根拠を示し推察して、未完になった理由の可能性を考えていく。だからこそ、アダージョで静かに終われば、そこに死を予言した別れの象徴を感じとるという「物語」の創作に、やさしく疑義を差し挟む。

  消え入るように終わる第一楽章は、「ここまで書いてマーラーは力尽き
 て亡くなりました」という感傷的なナレーションがぴったりで、「これぞ
 未完成のお手本」という感じだ。これに、「九のジンクス」「死の恐怖」
 「妻との愛の苦悩」という物語が付加されれば、文句なしに、悲劇のな
 かの悲劇、未完成のなかの未完成なのである。

と、こんな具合に。
そして、残った楽譜から完全版を目指して書き継がれた五楽章版を聴き、マーラーの交響曲が未完で終わった、「未完の無念さ」を感じる。
これは、ブルックナーの9番、第三楽章のアダージョにも共通する。何度も改訂を繰り返すブルックナーの間に合わなかった9番。未完成の曲が商業的に演奏される場合の二つのパターンのひとつとして、

  もうひとつが、未完成なのに、「これで完成している」と言いくるめて
 演奏するケースで、シューベルトの《未完成交響曲》はその代表だ。そ
 して、ブルックナーの第九番も第三楽章までしか演奏しない場合は、「ア
 ダージョでこの世に別れを告げた」という物語を捏造して演奏されるの
 である。

と、やや手厳しい。確かにブルックナーの企図した四楽章は長大な時間と聴き手のある種の要求から、未完成の完成を強いられてしまったのかもしれない。そして、アダージョの切々は、切々とボクらを包み込みはするのだ。が、しかし…。そう面白いのは、「だ。が、しかし」なのだ。

それにしても、ブルックナーの死を知った多くの「関係者」が、部屋に散らかっていた楽譜を「記念」に持ち帰ってしまったという記述を読んで、驚いてしまった。そうだな、そんなことってあるんだよな。そして、また、それを集め、復元しようとする後世の情熱も、ものすごいものだと思う。
シューベルトの『未完成交響曲』についての、次の著者の言葉が、この本自体が作られたもとになる好奇心を語っている。

  「未完成だが、完成している」という論理のアクロバットで名曲とな
 ったこの曲の魅力のひとつが、その謎めいたところにある。
  なんとも不思議な名曲だ。

そう、謎が面白い。

この本で初めて知ったのだが、人間とサルを掛けあわせて作られる半人半猿の物語というショスタコーヴィッチのオペラ『オランゴ』は恐ろしいストーリーだ。

最新の画像もっと見る

コメントを投稿