「日本語をもって思索する哲学者よ、生まれいでよ。」という和辻哲郎の言葉から書き始められる。昭和10年に和辻が示した、この課題の重要さを長谷川三千子は引き受けていく。
これは、ただ、西洋哲学を日本語に翻訳するということではない。そう、この本を読めば、今、僕が書いた一文の中に、すでに日本語で哲学する地点があることが理解できる。「翻訳するということ」の「こと」や、「ではない」の「ない」がそれである。という場合の、「ある」についても同様に思索される。日本語を思索し、日本語に現れた思想的土壌を哲学することになるのだ。あっ、この「なる」も丸山真男との絡みで触れられている。つまり、日本語というものの中にある言葉が、〈ものごとに対するどんな把え方を示すのか〉と問われることで、まさに、言葉が世界を、事物や事象を、どう考え、把えるのかが浮き彫りにされていく。そう、すでに「日本語というものの」という「もの」という言葉の中にも、本書の思索の重要な基点が刻まれている。
この本には、日本語の「もの」や「こと」が捉える地平に出会える興奮がある。
と、同時に、先人、先達の思索への批判的展開がスリリングなところも、この本の魅力だ。受験古文でおなじみの本居宣長『玉勝間』の「おのれ古典(いにしへぶみ)をとくに、師の説とたがへることおおく、師の説のわろきことあるをば、わきまへ言ふことも多かるを」の段を実践しているかのようである。長谷川は、「もの」についての思索で本居宣長に言及している。その彼の学問への姿勢を、長谷川三千子は踏襲しているのだ。宣長の師、賀茂真淵は、よい考えが浮かんだら、師の説と違っても、気にしてはいけないと言ったと、『玉勝間』には書かれているが、この本の先達もそう言うであろうか、などと思う楽しさもあるのだ。
まず、デカルトの「コギト」に対する、和辻の訳から論は始まる。「存在」をめぐる言葉の差異に、「存在」に対しての把握の差異を見いだしていく。
和辻は「私が思ふ、だから私がある」と訳し、「私」、「思ふ」、「がある」の言葉に言及していく。それに対して、長谷川は、デカルトの問いの中にある言葉の限界と矛盾を突く。つまり、言葉はそれ自体のもつ背景があり、言葉はそれが使われたときに自ずから導き出される世界の把え方があるわけであり、そこでのデカルトの限界を語るのだ。そして遡行するように、ギリシャ思考のパルメニデスの「〈ある〉の難問」に至りながら、ヘーゲルの闘い、ハイデッカーの乗り越えへと引き継がれる西洋の「存在」について論じていく。正直、この射程は理解できる範囲でしか理解できない。もちろん、長谷川の語り口は明快で理解しやすく、それぞれの限界を伝えてくれる。あとは、こちらの問題なのだ。ただ、それでも愉しいのは、彼らが思考しなかった重要な点へと向かう展開が、常に、示されるからなのだ。
そして、「もの」と「こと」を巡る思索に辿り着く。大野晋らの把握からこぼれてしまった、これらの言葉の持つ世界を立ち上げてくる。「こと」について、把握されたように、まさに、「保持され」、「自ら生起」し、「言(こと)」によって「あらわにされる」瞬間に出会えるのだ。
これは、もちろん日本語礼賛の本なのではない。数多の言葉があれば、数多の世界把握が存在する。それを交差させること、そこには強烈なエネルギーが存在する。言葉が、それ固有の磁場を持つかぎり。
長谷川は本書の終わりで書いている。
和辻氏が「日本語と哲学」のメモに記していたとおり、日本語は決
して「底力を持たぬのではない」。むしろ、そこには底知れぬ力がそ
なわっていると言うべきであろう。
この「底力」は、ふだんはわれわれ自身に少しも意識されない。そ
れはこんな風にして直接に「哲学」とぶつけ合わせてみるとき、はじ
めてその実力のほどを見せつけてくれることになるのである。
そして、
日本語の哲学への道は、いまようやくその入口をあらわしたばかり
である。
西洋哲学の本をめくってみて、そこに違和感を感じた場合、それは自身の了解可能性だけではなく、その了解事項の前提から考えてみなければいけないのかもしれない。例えば、本書で触れられている、「私」、「存在」、「ある」、「ない」といった言葉。そして、母語である日本語にある「もの」や「こと」。それらの言葉相互が持つ違和が、了解事項に先行してあるのかもしれない。
第一章には、「われわれは、以前にはそれをわかっていると信じていたのに、いまでは困惑におちいっているのだ」というプラトンの言葉が引用されている。そこに「ふと目を向けて」、「困惑」の楽しさに出会えた一冊だった。そして、「困惑」は、この一冊が解読する範囲において解読されていく。
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