パオと高床

あこがれの移動と定住

藤井雅人『孔雀時計』(土曜美術社出版 2021年10月20日)

2021-12-12 15:10:28 | 詩・戯曲その他

時間をめぐる、同時に時を刻む道具をもめぐる詩篇は、時間をめぐるほどに空間を抜け、
有限性と無限性、永遠性を往還する。
時間は私たちにとって抜き差し難いものであり、多くの場合私たちをしばる呪縛のようなものかもしれない。
けれども、同時に、想像力や思念は、時間の物理的な側面を探究しながら常に自由な飛翔を生みだしてきた
のかもしれない。哲学も詩になる。いや、もともと哲学は詩的なのかも。

藤井さんの詩句は、その時間を観念の思念に留めず、イメージと具象を縦横に駆使して、歴史性と非歴史的なもの
神話的なものを横断する。その横断が詩となり、また、そこに自ずと湧きあがる想念も詩になる。
冒頭の表題詩「孔雀時計」。孔雀がとまる。時間に向けて思いが立ち止まる、その瞬間を告げるように。

  宇宙の果てから飛んできた孔雀が
  ひとの部屋に忍びこみ
  金色の置時計のうえにとまる

そして、孔雀はまるで時そのものになるように、時を駆け、時にとどまり、羽根をたたみ、羽根を広げる。時間は
感慨や抒情に封じられずに造型されていく。
そして第2篇、「日時計」。帯にある詩句が続く。

  ひとは見つめる おのれの影を
  知らぬ間に 時を刻みつづける分身
  定めなくさまよう身もこころも
  たしかに 時に捉えられている

しかし、ここから「ひと」は我を越えるように身近な時と壮大な時を往き来する。

詩「マリー・アントワネットの時計」では時計の部品へのまなざしから
「錯乱する雑多なはたらきのうえに/かろうじて保たれる世の秩序の表徴」という詩句が紡がれる。

「アインシュタイン」、「茶席の星守り」の千利休の茶宇宙への想いや菩薩像や苔寺といった建造物への思念などから
詩句が立ち現れてくる。そして、最後の「梅花藻」での川に浮きふるえる梅花藻と時間と我・非我への道程。
最後に置かれたこの詩篇のラストをあえて引くことはしない。途中に配されたこんな部分だけを引いてみる。

  花は流れのそばで不思議に静止して、細かく顫えていた。水流と花
  をしばらく見つめているうちに、ひとつの和音がどこかで響いた。

一冊の詩集を読むうちに過ぎていったものもまた、時間だった。ただ、この時間は立ち去っただけではない。
詩を読み終わるということが、詩と過ごした時間を再帰させる。
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