昨日に引き続き、今日も放課後こども教室の学習アドバイザーとして小田原市立芦子小学校に向かいました。
その出勤途上に、かなり立派な御社があることに気づきました。こちらはその名も『大稲荷神社』といいます。
こちらは往古は田中稲荷と称してしたようですが、宝永3(1706)年に当時の小田原城主大久保加賀守忠増によって、当時の谷津村・竹の花町・須藤町・大工町といった小田原城東側一帯の鎮守社としてこの地に勧請されました。古くは修験道や武田家所縁の豪族との関わりもあったようで、現在も境内には大小様々な摂社・末社が軒を連ねています。
こちらに勧請された理由は、勧請の前年に忠増の家臣清水左衛門の妹にこちらの元宮である田中稲荷が神がかりし、
「今年の内に城主に吉事あり」
との御託宣があったのだそうです。そして果たせるかな、その年の瀬に忠増は幕府から老中に任ぜられるという大出世を遂げました。そのため忠増によってこの地に新たに稲荷神社を勧請して大の字を冠し『大稲荷神社』と呼ばれるようになったのだそうです。
通りから一本入った小道の先に大鳥居があり、それをくぐって鬱蒼とした杜の中に続く石段を登った先に銅板葺きの大きな御社があります。一昨日に夏越の大祓神事があったそうで、銅鳥居には茅の輪が掛けられていました。
この他にも境内には
この大稲荷神社の元宮である田中稲荷や
錦織明神と、実在の人物下田隼人とを共に祀った錦織神社があります。
寛永10(1633年)に起きた大地震により、小田原城下、特に足柄上下両郡は壊滅的な被害となりました。その復興のためという名目で、当時の領主であった稲葉美濃守は領民に過酷な年貢の取り立てを行い、城下では暴動が起こりかねない状況となっていました。そこで旧関本村の名主であった下田隼人が、自分はおろか一族にまで罰が及ぶことを覚悟の上で美濃守に年貢の軽減を直訴をしましたが捕らえられ、万治3(1660)年に処刑されました。
しかし、死後隼人の願いは成就し、年貢は軽減されることとなりました。人々はこれを喜び、自らを犠牲にして藩主に陳情して散った下田隼人を錦織明神と共に須藤町に社を建てて神として祀りました。これが錦織神社の始まりで、現在の御社は大正3年にこちらに御遷座されたものです。
他にも
旧谷津村の鎮守社であった愛宕神社があります。こちらの御祭神は、伊邪那美命が様々な神を産み落とした最後に産み、母親である伊邪那美命を焼き殺してしまったと古事記に伝わる火之迦具土神(ほのがくつちのかみ)で、火防の神として鎮座坐しておられます。
この愛宕神社は稲荷神社から一段下がった手水舎と同じところに鎮座坐すのですが、深い杜の中にあるためか参道の両脇は青々と苔生していて、何とも美しい独特の趣きを醸し出しています。
各御社を参拝していたら、何処からともなく
参道の真ん中に一匹のネコが現れました。飼い猫なのか野良なのか分からないのですが、そこそこ近寄っても特に逃げる素振りも見せずに参道の真ん中にドデ〜ンと居座っていたのが印象的ではありました。
これから小田原に出勤した時には、こちらを始めとした通勤路にある寺社を参拝して、子どもたちの健康と無事を祈念してから向かおうと思います。