はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

人の気も知らないで

2009-07-05 19:31:15 | 女の気持ち/男の気持ち
 何かあると病院に行く私を、妻は笑う。これではいつまでたっても私に自由な時間はこないわね、と。
 そんな妻が突然、病院に行くと言い出した。その前夜は「私の保険では入院料は出ないけど、万一の場合はこう。あなたのがん保険は家族型だから、もし私ががんでも大丈夫だね」などと真顔で話し、印鑑や年金証書など貴重品はここにあるからと念を押す。あまりの大げささに私は最初笑っていたが、妻はにこりともしない。「みそ汁も作れない亭主なのに」と心配もだんだん現実妹を帯びてくる。
 その朝は出陣の武将のごとく、下着を新品にはき替えていた。いつ果てても恥をかかぬようとの心構えだという。いつ電話するやもしれないから、携帯電話は一時も手放すべからず。病院が直接電話する可能性もあるから、見かけない電話番号でも今日だけはちゃんと出ることなどを言い渡された。今にも遺書を認めだしかねない雰囲気だった。 
 昼の食事は準備されていたが、これが最後の妻の手料理かと思うと、箸をつける気などしなかった。
 夕方近く、妻が大きなレジ袋を提げて帰ってきた。
 「至って健康だとお医者からお墨付きをもらった。さ、今夜はビールで乾杯、乾杯。酒の肴はほれ、こんなに買ってきた」そう言うと、戦利品でもあるかのように玄関先にレジ袋をドーンと置いたのだった。
  鹿児島県肝付町 吉井 三男・67歳 2009/5/9 毎日新聞の気持ち掲載

  

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