はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

そして、さようなら

2008-09-30 20:30:11 | 女の気持ち/男の気持ち
 車庫から夫の愛車が消えた。夫が逝って数ヶ月たつものの、手放しかねていた。時折運転席に入り、かすかに残る夫のにおいをいとおしむ日々もあった。だが保険の満期も近づき、免許を持たない私にいくら未練があっても、処分せざるをえなくなった。
 業者から「1時間後、引き取りに参ります」の電話があり、急ぎ車に乗り込んだ。エンジンをかけ、助手席に移って、しばし夢想の世界へ。かつての定位置で、横の運転席にはハンドルを握る夫が……。現実にもどれはただむなしいのみ。
 このリズミカルなエンジン音も、体に伝わる振動も、最期と思えば胸迫るものがあった。老夫婦の足として随分助けられた。長い間ありがとう。そして、さようなら。
 別れを告げ、つるしていた交通安全のお守りをそっと外す。お守りは今年も近くの神社で求めた。例年通り2人だけの何気ない初詣だったが、まさか夫が来年のお正月を迎えられぬとは……。
 寂しげな老女を気遣って、なじみの業者さんは優しかった。「車は古いが走行距離が少ないので私が乗りましょう。時にはお宅に寄りますよ」とまで。うれしかった。
 これからは町を走る懐かしい車に出会えるかもしれない。廃車にならなくて良かったね。お父さん。
   山口県下松市 坂口敏子(81)
毎日新聞 の気持ち 2008/9/19 掲載

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