はがき随筆・鹿児島

はがき随筆ブログにようこそ!毎日新聞西部本社の各地方版に毎朝掲載される
「はがき随筆」は252文字のミニエッセイです。

兄の復員

2009-09-21 18:50:54 | 女の気持ち/男の気持ち
 終戦の翌年の夏のことだった。夜中に玄関の戸をたたく音で目が覚めた。戸が開く音と同時に「おう! 帰って来たか」という父の声。私は跳び起きて玄関へ向かった。そこには南方から復員してきた軍服姿の兄がいた。
 それから家の中は興奮の坩堝と化した。母はうれし涙にくれながら風呂をわかし、食事の支度をした。私とすぐ上の兄はやたらと興奮し、何をしていいか分からず、ただ部屋の中をうろうろするばかりだった。
 父のこんなにうれしそうな姿を見たことはない。父は戦中戦後、兄のことを一度も□にしたことはなかった。けれども心の中では、長男の生還をどれほど願っていたことだろう。その思いが今、満面の笑みとなって表れている。
 栄養失調で青白くむくんだ兄の顔を見つめ、父は「日本の米を腹いっぱい食べてくれ」と言った。兄は満足しきった表情でおいしそうに食べている。15歳の私はそれをしげしげと眺めながら、うれしくて仕方なかった。4、5年の空白を埋めるように、話はいつまでもつきなかった。
 数日後、兄の戦友のお母さんが訪ねて来られた。息子さんのことを聞かれた兄は、戦死したことをどうしても言えず、知りません、分かりませんで通した。肩を落として帰るお母さんの後ろ姿を見ながら、私は涙が止まらなかった。
 その日一日、兄は無言のままだった。
  福岡県久留米市 坂井 幸子・78歳 2009/9/16 毎日新聞の気持ち掲載


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