乗鞍登山の途中に、飯田座光寺で援農した果樹園の女将の紹介で蕎麦屋「福寿美」に立ち寄った。木曽駒ヶ岳の麓の街、駒ヶ根市の古い家並の路地裏にある、創業90年になる老舗で、農家の親戚である。道に迷い、途中の道の駅「いいじま」で食事にしようかとも思ったのであるが、「人の好意を無にする心は、人間道理に外れる」という女房の言葉で我慢することにする。詭弁の天才にしては、稀にまともな言葉を言う。
疲労困憊の2時過ぎにようやく探し当てた。上手い蕎麦で、店の雰囲気がよく、立ち回る家族の人間が善い。蕎麦と山葵が定番であるが、からし大根で食べる蒸篭蕎麦にした。我慢して良かった。地獄で仏様のそばに辿り着いた。
蕎麦は、ソ連のバルカン湖付近からインドや中国の北部にかけてが原産地で、奈良時代に仏教とともに日本に伝来した。大飢饉の時に勅命によって栽培を奨励された。
推古天皇十年に、本多善光卿が難波の堀で一光三尊阿弥陀仏に遭遇して、故郷の信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)に祀った。同時に蕎麦も飯田の地に到来したことが想像される。その後、ご本尊は信州長野の善光寺に移され、善男善女が牛に引かれて善光寺参りの信仰で、門前町は大繁盛である。旅人の胃袋を満たたしたのが、蕎麦であり、思い出話から全国に評判が広がった。
山国信州では田畑が少なく、高原山間の傾斜地の地味と気候は良質のソバの栽培に適していて、信州の風土を代表する食べ物「信州そば」は名物になった。山村の小麦は貴重な穀類であるから、そば粉だけで打つ「生粉打ち十割蕎麦」が基本である。つなぎがない蕎麦粉の麺打ちは難しく、高度の技術がいる。
ソバの実を挽くと中心から挽かれて出てくることから、後から出てくる粉に比べて、最初にでてくる一番粉が白く上品な香りを持つ。一番粉を使用した蕎麦が「更科蕎麦」である。蕎麦ガラを挽き込むと黒っぽい「田舎蕎麦」で藪蕎麦とも言われる。姨捨「田毎の月」棚田のある信州更級郡の布屋太兵衛は蕎麦打ちの名人で、江戸時代の保科家殿様から勧められて蕎麦屋へ転向した。更級郡の「更」に保科家から許された「科」の字を合わせて更科としたといわれる。
禅堂の食事作法は、絶対静粛が厳しく守られるが、特別に蕎麦は食べる時に音を立てることが許される。
店内は来店した有名人の色紙で壁が満杯である。百枚ほどあるだろう。多岐川裕美・ジェリー藤尾・林家木久蔵や難解なデザインで読めない名前もある。和泉雅子もあった。学生の頃信州飯山戸狩駅前で、舟木一夫と映画「北国の街」のロケの際に会っている。当時は情報が極めて少ない時代であるから、やじ馬が皆無で和泉雅子母子と私の友二人と運転手の6人だけで、当時凝っていたモノクロ写真を撮影した思い出がある。奇遇である。和泉雅子と私は運命の赤い糸で結ばれている。今度は何処で会えるか楽しみである。彼女は放浪癖があるようだが、悪い習性ではない。
別の壁には、国鉄飯田線の鉄道写真や、電車の行先表示灯の実物がある。伯父が国鉄職員であった影響で、若主人は鉄道狂になってしまった。蕎麦を食べて、鉄道・色紙博物館を見せて頂き、胃袋と心が満たされたのである。蕎麦だけでなく、たくさんの趣向を凝らす大正時代に創業した「福寿美」は面白い店である。豊かな心で、乗鞍高原まで4時間程度のドライブに出発する。
疲労困憊の2時過ぎにようやく探し当てた。上手い蕎麦で、店の雰囲気がよく、立ち回る家族の人間が善い。蕎麦と山葵が定番であるが、からし大根で食べる蒸篭蕎麦にした。我慢して良かった。地獄で仏様のそばに辿り着いた。
蕎麦は、ソ連のバルカン湖付近からインドや中国の北部にかけてが原産地で、奈良時代に仏教とともに日本に伝来した。大飢饉の時に勅命によって栽培を奨励された。
推古天皇十年に、本多善光卿が難波の堀で一光三尊阿弥陀仏に遭遇して、故郷の信州麻績の里(現在の飯田市座光寺)に祀った。同時に蕎麦も飯田の地に到来したことが想像される。その後、ご本尊は信州長野の善光寺に移され、善男善女が牛に引かれて善光寺参りの信仰で、門前町は大繁盛である。旅人の胃袋を満たたしたのが、蕎麦であり、思い出話から全国に評判が広がった。
山国信州では田畑が少なく、高原山間の傾斜地の地味と気候は良質のソバの栽培に適していて、信州の風土を代表する食べ物「信州そば」は名物になった。山村の小麦は貴重な穀類であるから、そば粉だけで打つ「生粉打ち十割蕎麦」が基本である。つなぎがない蕎麦粉の麺打ちは難しく、高度の技術がいる。
ソバの実を挽くと中心から挽かれて出てくることから、後から出てくる粉に比べて、最初にでてくる一番粉が白く上品な香りを持つ。一番粉を使用した蕎麦が「更科蕎麦」である。蕎麦ガラを挽き込むと黒っぽい「田舎蕎麦」で藪蕎麦とも言われる。姨捨「田毎の月」棚田のある信州更級郡の布屋太兵衛は蕎麦打ちの名人で、江戸時代の保科家殿様から勧められて蕎麦屋へ転向した。更級郡の「更」に保科家から許された「科」の字を合わせて更科としたといわれる。
禅堂の食事作法は、絶対静粛が厳しく守られるが、特別に蕎麦は食べる時に音を立てることが許される。
店内は来店した有名人の色紙で壁が満杯である。百枚ほどあるだろう。多岐川裕美・ジェリー藤尾・林家木久蔵や難解なデザインで読めない名前もある。和泉雅子もあった。学生の頃信州飯山戸狩駅前で、舟木一夫と映画「北国の街」のロケの際に会っている。当時は情報が極めて少ない時代であるから、やじ馬が皆無で和泉雅子母子と私の友二人と運転手の6人だけで、当時凝っていたモノクロ写真を撮影した思い出がある。奇遇である。和泉雅子と私は運命の赤い糸で結ばれている。今度は何処で会えるか楽しみである。彼女は放浪癖があるようだが、悪い習性ではない。
別の壁には、国鉄飯田線の鉄道写真や、電車の行先表示灯の実物がある。伯父が国鉄職員であった影響で、若主人は鉄道狂になってしまった。蕎麦を食べて、鉄道・色紙博物館を見せて頂き、胃袋と心が満たされたのである。蕎麦だけでなく、たくさんの趣向を凝らす大正時代に創業した「福寿美」は面白い店である。豊かな心で、乗鞍高原まで4時間程度のドライブに出発する。