「仲良しクラブで、優勝できて、三冠王になれればそうするよ。そんな訳ないだろう」
独学で打撃技術を開拓した落合博満が現役野球選手の時の言葉である。
俺流は、落合が独学で厳しい野球の練習に耐え研究獲得した、人生哲学を表現する言葉である。
禅の坊主が、伝統の規範の環境下で、自分の内面を見つめる厳しい修行で自身をいじめ、余分なものを削ぎ落とした末に到達した人生観が俺流の悟りである。
落合が野球監督となり、禅僧が阿闍梨や大僧正の高僧に成ると、世間に注目され、影響を与える。俺流は誰にでもあるのであるが、感動を与える開拓的で超人の努力を陰ながら継続しているのだろう。その成果は、言葉や立ち居振る舞い、顔つきに表れるのである。
川上哲治監督が座禅修行をした岐阜県美濃加茂正眼寺の山川宗玄老師と落合中日監督は同様な、善い顔付きをしている。厳しい野球練習や座禅修行で、自分を磨く事に専念し手に入れた人生観が正しければ、多くの人々が教えを請う為に、野球場に足を運び、門前に列が出来る事になる。落合監督は禅坊主なのである。
野球道に悩み苦しむ、実績のある中村紀洋選手を再起させた手腕に感動している。金銭闘争に敗北した風来坊の中村紀洋内野手を二束三文の金で手に入れ、磨いて磨いてダイヤモンドにしてしまった。落合監督が磨いたのではなく、中村紀洋が自分で自分を磨いたのである。禅の言葉に「良馬は鞭影を見て走る」とあるが、競走馬が、騎手の鞭の影を見て、勝手に走り出し優勝してしまう。落合監督の鞭が如何様なものか想像できないが、中村サードマンは突っ走った。紀洋三塁手はサラブレットであった。
「人を殺さば、すべからく血を見るべし」と言うが、落合監督も中村選手も共にその事を知り、厳しく指導し過酷な練習に耐える、以心伝心の信頼関係が根底に無いと、悲劇的な結末になる。生かすか殺すかの教育は、お互いに生半可な覚悟で出来るものでない。
満身創痍で活躍した中村紀洋の発奮材料は、落合監督の「期待してないから」の言葉だった。まさに禅的発想で、本心は過去のスター選手として期待していると言っているのである。その言葉が愛の鞭だった。
日本一に万一成らなくても、落合博満は名監督、中村紀洋は名選手で、後世の語り草になるだろう。中村ノリさんは定年退職者の希望の星である。背水の陣の背番号99が輝いている。そして落合博満は坊主頭が似合っている。
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