風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

人生は元の木阿弥 191号

2007年10月30日 08時27分33秒 | 随想
妻を離縁出家した「木阿弥」が、厳しい修行を重ね、立派な僧侶に成り、人々に尊敬されていたのであるが、年老いて病気になり、妻の元に戻った。信徒達は「仏様と崇めていたが、我々と同じ人間じゃないか」と揶揄し、親近感を持った故事から、「元の木阿弥」の諺が発生し、苦労や努力が無駄になることの譬えである。武将の替え玉説や漆の木茶碗説もあるようである。

好きな競艇に小遣いを賭け、大儲けした。翌日、夢の再現を期待して、柳の下の泥鰌を探す挑戦をして、返り討ちに遭い、儲けを吐き出し、小遣いの増減は無いのである。自分が期待する結果になることは稀である。

儲けで、iPodを購入すれば、温泉旅行券に変えていたら、鰻の蒲焼を女房と食べてれば、税金を支払っておいたらなど、「たら・れば」屁理屈で反省するのである。そして、焼酎を飲みながら、あいつが差しにまわれば、こいつが全速でまくったらの「たら・れば」でひとり愚痴るのである。そして本日も夢の万舟券獲得の努力をしようか、やめとこうかと揺れ動き、心が定まらず、懲りない私はまだまだ修行が足りないのである。

禅の公案は、33mの竿の先からさらに一歩を進めよという文句があるが、竿の先からさらに一歩を進めるとはどうする事であるかと言う。無から始まり、自分を高める精進努力の末獲得した個人的財産は、今度は他人に教え与え無に帰して死んでいく。元の木阿弥である。

懸命に物的財産及び知的財産を増やす活動をするのが、若さである。財産を処分する時期が老境に入ったと言う事だろう。しかしその時期は明確に知る事が出来ない。神仏の専管事項である。私は何歳まで生きる事が出来るのだろうか。早く処分しすぎた結果、無一文と成りホームレスに成ったり、自殺したりする。遅く処分しすぎると、子孫が財産分与で闘争し、苦しむ事になる。極楽浄土に持っていける金は、六文銭だけである。

「江戸っ子は宵越しの銭は持たない」ことが粋であるとする人生観が存在した。今は職人・風来坊・フーテン・渡世人・そして組織暴力団は論外であるが、ヤクザなどの言葉で軽蔑する風潮がある。その日に獲得した物的・知的財産をその日に清算する人が懐かしい。余裕のある時は与え、苦しい時は助けてもらう近所付き合いが消滅して、万事金で解決する社会は荒んでいる。

人は裸一貫で生まれ、裸一貫で死んでいくのである。「人生は元の木阿弥」は悪くない言葉で、大穴的中である。

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