
「金を作るにも三角術を使わなくちゃいけないというのさ--義理をかく、人情をかく、恥をかく、これで三角になるそうだ」と夏目漱石が語る。そんな人生だったから、歴史に対する知識を習得する暇はなかった。
ミンナニデクノボートヨバレ ホメラレモセズ クニモサレズ サウイフモノニ ワタシハナッタ。そんな訳で最近は無聊を慰める為に歴史を勉強したいと思い城を訪ねたりする。
姫路・彦根・松江・松本に続き1537年織田信長の叔父の信康が移築した尾張の犬山城を訪れ国宝五城を訪ねる旅は完結し、近くの小牧山城址を散策した。
1560年桶狭間の戦いで今川義元を討った不如帰なら殺してしまう信長は私が泣こう・放してしまえの明智光秀に1582年の本能寺の変で討たれ、光秀は泣かせて見せようの豊臣秀吉に討たれ、1598年秀吉病没後の1600年関ヶ原合戦で鳴くまで待とうの東軍徳川家康に西軍豊臣方が敗北、1615年大阪夏の陣で豊臣家は家康に滅ぼされた。
争いの絶えない此岸は穢土で、家康は穢土を厭離し、浄土を欣求した。その家康が誕生した岡崎城、その城下町で老人は仮住まいしている。
1584年小牧・長久手の戦いで豊臣秀吉が犬山城に、その時には信長は仏だからその息子の信雄と家康が信長が築城し清州城から移住した小牧山城を陣地とした。
小牧山城址には実業家の大富豪が京都の西本願寺飛雲閣を模した近代的な小牧市歴史館が存在し、織田家の織田木瓜紋と徳川家のこの紋所が目に入らぬかの葵の御紋が配されているが、豊臣家の五七桐紋が無いのは上記の歴史に由来する。
五七桐紋は日本政府の定紋、関ヶ原の戦いで西軍が敗れた際、豊臣家の家臣の多くが薩摩と長州へ左遷された。そして260年の時を経て薩長桐紋を掲げて倒幕運動を行い、今の明治政府が誕生した歴史に由来するなる都市伝説がある様で、これも歴史を踏まえた創作だろう。