goo blog サービス終了のお知らせ 

風来坊参男坊

思い付くまま、気が向くまま、記述する雑文。好奇心は若さの秘訣。退屈なら屁理屈が心の良薬。

1+1=3 

2007年04月21日 17時45分30秒 | 随想

若い青春時代の頃(老いた青春時代があるから・・・サミエル・ウルマン)、会社の慰安バス旅行の時、移動車中の余興であるバスガイドさんのクイズを思い出した。大変に古いネタである。バスには通信カラオケや空調機のない時代である。

「1+1=3と言った人がいます。何故でしょう?」
1+1=2であることは、常識で誰でも知っている。1+1=3と言われると、人間考え始める。そして人より優れた理由を考えて、美人のガイドさんに褒めてもらいたい名誉欲、商品を獲得する物欲の競争が始まる。日本人は勤勉なのである。遊びの時まで、報酬目当ての労働をする。
「これは夫婦のことである。結婚すると、子供が出来て3人となる」「違います」
「二つの粘土を捏ねて、3等分にした」「違います」
「1と+と1は3文字である」「違います」
「2進法でいうと、1+1=10。これは違うな」「もっと簡単に考えてください」
知識を言葉でこねくりまわす、泥沼に入り込んだ様相である。どうにも答えが見つからない。それまで酔っ払って寝ていた工場長が事情を聞き、正解したのである。
「間違っているのでないの」「ピンポーン。正解です」

考え過ぎると、物事の本質を見失う。下手な考え休むに似たりである。偉い人は何も考えていないのである。体験からの直感勝負である。

「化粧するから美しくなるのではなくて余分なものを捨てるから美しくなるのです。座禅とは、何かを身につけることではなくて、どうでもいいものを捨ててゆくことだ。座禅して何を、どう捨てられたか?自己点検の尺度は、常に捨てることだ」

長野県塩尻市の曹洞宗無量寺住職・青山俊董老尼の話である。知識の量を試験されて、人間の優劣が決められ、屁理屈が上手い人間が間違って組織を指導する地位に着くと、悲劇が始まる。知識に振り回されて、枝葉末節ばかりに眼が向いてしまい本質を見失う。

知識を捨てきれない人は、喋れないし、文章が書けない。知識にガンジガラメに縛られて身動きが出来ない常識・知識の奴隷である。何にもなければ、何でもできるのである。自由人は心の趣くまま、自己責任で考えを述べ、褒められても、貶されても如何でもよいのである。自分が述べたいから述べるのである。だから述べたいことは無尽蔵である。心は銀河系宇宙より大きいのである。

人生80年では足りない。生まれ変わって、再度ブログに挑戦しようと思っている。「止めてよ」という声が聞こえるが幻聴である。「私は止めない」。人に文句を言わせない土根性があるのである。 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。